子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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『ごん狐』 新美南吉 - 兵十と子狐ごんの失敗
青空文庫 『ごん狐』 新美南吉



おなじみの物語です。兵十と子狐のごんの悲劇です。



ごんにとって、いたずらは、子狐として悪気のない行為であり、決して兵十を苦しめることが目的ではありません。

実際、ウナギを盗んだことで、起きた兵十の悲しみを知ったごんは、あんないたずらしなければよかった、とつぐないを始めます。

一方、兵十にとって、ごんは、単純にウナギを盗んだ仕返しの対象であり、兵十は、まさか、ごんがつぐないをしに来ていたとは露ほども知りません。

結果、鉄砲を向けてごんを撃ってしまいました。そしてごんのつぐないを知りました。



兵十が鉄砲をうったその後については、含みを持たせた終わり方をしているので、読者の解釈にゆだねられています。

おそらくごんは死んだのでしょう。そうならば兵十は後悔したろうと思います。なぜなら、兵十は、母親の最期の望みをかなえてやろうとした、優しい気持ちの持ち主だったのですから。

この出来事のきっかけはごんでしたが、どちらが悪いとは一概にはいえません。ほんのわずかの行き違いが大きな悲劇へとつながっていきます。



ごんはひとりぼっちという設定ですが、兵十もひとりぼっちになってしまいました。それが、この悲劇をより悲しくさせます。なぜなら出来事を一人で背負わなければならないからです。

もっとも、多くの悲しみが、個人的な問題であったり、この物語のように明らかに自分に過失である場合がほとんどです。たとえ話せる相手がいたとしても多くの悲しみは最終的に分かちあえないのかもしれません。

そう誰もが、始めから、皆、半ばひとりぼっちなのです。それが、この名作への共感につながっているのだと思います。



さて、兵十とごんの物語を、自業自得論で展開する感想もあるようですが、それはあまりにも冷たく、しかも現実的ではないような気がします。出来事を、すべて、エゴでコントロールすることはできないのだから。

よって兵十もごんも最善を尽くした。あとはその時点では、知恵の及ばない領域のことであり、仕方がないことともいえるのではないでしょうか。

もしかしたら、あとに残された兵十にとって、残された道は、時の癒しにゆだねるしかないのかもしれません。しかも長い時間。

なぜなら、この物語が物語冒頭で明かされるように伝聞形式で語られているからです。伝聞にされるほど、兵十は苦しんだのだと思われます。



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18:20 : 新美南吉 第三童話集『花のき村と盗人たち』 : comments(0) : - : チキチト :
『いぼ』 新美南吉 - 底なしの肯定感、心洗われる物語
青空文庫 『いぼ』 新美南吉



兄さんの松吉と弟の杉作は、年齢も一つ違いでしたがよく似ていました。松吉の右手にある二つのいぼ以外には。

夏休みになって、町からいとこの克巳が遊びにきました。松吉と杉作と克巳の三人は仲よく遊びました。

あしたは克巳が、町へ帰るという日の昼さがりには、三人でたらいをかついで裏山の絹池にいきました。三人は、その池をたらいにすがって、南から北に横ぎろうというのでした。

ところが池の中ほどまで来ると三人は疲れて立ち往生してしまいます。松吉は必死になって帰ろうとして「よいとまけ」と掛け声をあげてしまいます。これは田舎の言葉でした。町の克巳には聞かれたくない言葉でした。

三人は掛け声を合わせて何とか無事に元来たところに帰ることができました。この日ほど、三人がこころの中で、なかよしになったことはありませんでした。

池から家へ帰ってくると、三人はこころもからだも、くたくたにつかれてしまったので、ふじだなの下の縁台に、おなかをぺこんとへこませて、腰かけていました。

そのとき克巳は、松吉の右手をなでていましたが、「いぼって、どうするとできる? ぼくもほしいな。」と、冗談のようにわらいながらいいました。

松吉は、家の中から箸を一本持ってきて、松吉の右手の一つのいぼと、克巳の腕とに、箸がわたされました。

そして、松吉は、大まじめな顔をて「いぼ、いぼ、わたれ。いぼ、いぼ、わたれ。」と呪文を唱えました。

翌日、克巳は、お土産をいっぱい持って帰っていきました。



やがて秋、松吉、杉作のうちでは、あんころ餅をつくりました。農揚げといって、この秋のとり入れと、お米ごしらえがすっかり終わったお祝いに、どこの百姓家でもそうするのです。


松吉と杉作が、土曜の午後に、学校から帰ってくると、そのお餅を、町の克巳の家にくばりにいくことになりました。

このことには、ふたつのよいことがありました。ひとつは、夏休みになかよしになったいとこの克巳に会えるということ、もうひとつは、あまりはっきりいいたくないのですが、おだちんをもらえることです。

ふたりは出かけました。松吉は、考えはじめました。克巳はきょう家にいるだろうか。おれたちの顔を見たら、どんなに喜ぶだろう。いぼはうまく、腕についたろうか。おれのいぼは、ひとつ消えてしまったけれど。



克巳の家は床屋でした。店には村のかじ屋の三男の小平さんがいました。小平さんは、そのまえの年の春ごろ、学校を卒業しました。そして今では町の床屋さんへ、小僧に来ていたのでした。

ふたりは小平さんに髪を切ってもらうことになりました。

髪を切り終わるころ、入口の戸をガラガラと乱暴にあけて、茶色のジャケツをきた少年が手さげかばんを持ってはいってきました。克巳でした。

松吉と杉作は、一ぺんに生きかえりました。克巳は、最初に松吉と、それから杉作と顔をあわせました。しかし克巳の目は、知らない人を見るように冷淡でした。

おれたちが、松吉、杉作なことが、まだ、わからないのかなと、松吉は思いました。克巳は松吉のうしろの階段をのぼって、二階へ上がってしまいました。

松吉にはわかりました。克巳にとっては、いなかで十日ばかりいっしょに遊んだ松吉や杉作のことは、なんでもありゃしないんだと。

町の克巳の生活には、いなかとちがって、いろんなことがあるので、それがあたりまえのことなんだと。



松吉と杉作は、町から村のほうへ、魂のぬけたような顔をして歩いていきました。克巳には無視され、駄賃はもらえず、いくときの、希望にみちた心持ちにひきかえ、帰りの、なんという、まのぬけた、はぐらかされたような心持ちでしょう。

松吉は、思いました。きょうのように、人にすっぽかされるというようなことは、これから先、いくらでもあるにちがいない。おれたちは、そんな悲しみになんべんあおうと、平気な顔で通りこしていけばいいんだ。

杉作が「どかァん。」といいました、松吉もそれに応じました。ふたりは、どかんどかんと大砲をぶっぱなしながら、だんだん心を明るくして、家の方へ帰っていきました。と物語は結ばれます。


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田舎の純朴な子どもと、町の冷静な子どもの対比が鮮やかです。なんとも切ないお話ですが、松吉、杉作兄弟は確実に大人の階段をひとつ上ったのでしょう。

大人になることは必ずしも楽しいことばかりではありませんが、それでも、物語最後に兄弟が「どかぁん。」とはなった大砲には、底なしの肯定感が示されていて、心洗われます。

田舎者のコンプレックスが示されるシーンが随所に見受けられますが、それも物語最後には、半ば解消されたのではないでしょうか。



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18:16 : 新美南吉 第二童話集『牛をつないだ椿の木』 : comments(0) : - : チキチト :
『耳』 新美南吉 - 子どもたちの太平洋戦争
青空文庫 『耳』新美南吉



花市君はふつうの人より大きい耳をもつていました。その耳は肉があつくて、柔かくて、赤い色をしていました。

久助君は、この花市君の耳をよく触りました。むろん久助君ばかりではない。村の子供は全部、そういうことをするのでありました。

ほんとうは久助君は、自分からすすんでそんなことをしたおぼえはないのです。ただ、ひとがするので、まねてするばかりである。

ところが花市君は、そうされても、いままで、怒つたことがいちどもなありませんでした。あんまり、みんなが、うるさく耳を触りはじめると、「痛いよ」といつて逃げだすことがありましたが、そんなときでもにこにこしていました。



きょうは山で、南京攻略の模擬戦をするのだそうだ。やがてこの村の全部の男の子、十八人があつまりました。

さて、参謀本部が、誰と誰を支那兵にし、誰を友軍の斥候にし、誰をタンクにするかというようなことをきめていたときのことでした。待つていた他の者達が手持ぶさただったので、そういうときによくやるように、花市君の耳に触ろうとしたのである。

しかし、「いやだよ。」という、非常にはつきりした、強い言葉が発せられたので、みんなはそちらを見ました。

するとそこには、花市君が、いつものようににこにこせずに、突つ立っていました。その代りに加平君がにやにやと、てれくさそうに笑っていました。そこで一同には、加平君が花市君の耳を触らうとしたこと、「いやだよ」という聞きなれない言葉は花市君の口から出たということが、わかつたのでした。

みんなは呆然としてしまった。これはいつたいどうしたことなのか。花市君が「いやだよ」とはっきり言つたのである。耳を触ることを拒絶したのである。そしてにこにこすることをやめたのである。

それは、わずかな間におこった、何でもないようなできごとでありました。しかしこれは、みんなの心の世界では、じつに大きな事件だったのである。



花市君のやり方が、たいへん立派で、英雄的であることは、十七人の子供達によくわかりました。あんなにきっぱりと「いやだよ」といった者が、この村の子供達の中に今まで一人でもいただろうか。

古い悪い習慣をあらためるのは、まったくあの通りにやらなければならない。「いやだよ」ときっぱりはねつけるのである。又、新しくよい習慣をはじめようとするには、「よし、やろう」ときっぱりいつて起ちあがるのである。「いやだよ」も「よしやろう」も、つまりは同じことなのだ。

久助も、きつぱりとさういって、古い、悪いしきたりを英雄的に改めたかった。しかし、その古い悪いしきたりとは何であるかということになると、これはまた問題であつた。



さて、次の朝、久助君はまた、通学団の集合時間におくれてしまつた。いつも久助君は親戚の太一ツあんの自転車にのせていつてもらい、学校の始業時間に間にあうのであつた。

久助君はこれを悪いしきたりとして改めようと自転車には乗せてもらわず学校へ走り出しました。

校門に着くと、同級生の一人が近寄つてきてこういつた。「今朝な、日本は米国や英国と戦争をはじめただぞ。」

久助君は立ちどまった。そして相手の眼をまじまじと見た。昭和十六年十二月八日の朝のことだつた、と物語は結ばれます。


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南吉の作品の中で、九助君という、一人の少年を主人公とした物語で、いわゆる九助ものと呼ばれる物語群の中のひとつです。

昭和十六年十二月八日は、太平洋戦争開戦の日です。含みを持たせた終わり方をしていて、読者に想像の余地をあたえます。

わたしは、悪いしきたりをあらためることがその場の空気に流されて戦争に巻き込まれていくことへの反発ととりました。

いずれにしても、当時の少年たちの戦争事情がうかがわれます。



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18:36 : 新美南吉 第二童話集『牛をつないだ椿の木』 : comments(2) : - : チキチト :
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