『父さんのすることに間違い無し』 H.C.アンデルセン 愛情に育まれる信頼
2018.09.30 Sunday
さあ、小さい頃に聞いたことのある、わたしの大好きなお話をしましょう。このお話は、聞くたびに前に聞いたときよりも面白味を増します。
それというのも、お話というものは、読み手が時を經るごとに、より面白く感じられていくものだからです。大抵の人が、年齢を重ねるごとに面白い人間になっていくのと同じことです。
さて、ある田舎外れに、まさしく田舎の農家があり、そこには百姓の父さんと、母さんが住んでいました。ふたりの持ち物は少ししかありませんでしたが、唯一、余分なものがありました。それは馬です。
百姓の父さんは、馬を売るか、夫婦にもっと役に立つものに、取り替えたほうがいいと思いつきました。
母さんは父さんに「今日は町に市が立つ日だわ。そこに行って馬を売ってお金にするか、それとも何かいいものと取り替えてきなさいな。あなたのすることならいつだってなんだって間違いないもの。さあ市に行ってらっしゃい」といい、父さんにキスをしました。
そして父さんは、売るか交換するか思案のしどころの馬に乗って市に出かけていきました。
父さんは、市につく前に、雌牛を引くひとりの男に出会いました。そしてこの雌牛なら、たくさんの牛乳を出してくれると思い、その男に掛け合って、馬と雌牛を交換しました。
さあ、これで父さんは仕事を終えたことになります。しかし、見るだけでもいいからと雌牛を連れて市に向かいました。
父さんは、これから先、市で、出会った様々な動物に感心し、交換に交換を重ねます。雌牛は羊になり羊はガチョウになり、ガチョウはメンドリになります。
父さんは、市についてからもうたくさんの仕事をしました。くたくたです。そこで一杯引っ掛けようと思い、居酒屋に入ろうとすると、豚の餌に、たくさんの腐ったりんごを運んでいる男に出会いました。
すると父さんは、去年、うちの泥炭小屋のそばの林檎の木に、実がひとつしかならなかったことを思い出します。
そのりんごを母さんは、取って置かなければと思い、タンスの上に腐るまで置かれました。母さんは「これが豊かさというもんだ」といっていたもんです。
このたくさんのりんごを持って帰れば、母さんが喜ぶと思った父さんは、そのりんごとメンドリと交換してしまいました。そして居酒屋に入ります。
居酒屋に入ると父さんは、ストーブに火が入っているのも知らず、ストーブの上に腐ったりんごを置いてしまいます。りんごは「ジューッ、ジューッ、ジューッ」と音を立て始めました。
ところで、この居酒屋には、馬の仲買人、家畜売買人、ポケットが金貨ではちきれそうなふたりのイギリス人など金持ちがたくさんいました。
居酒屋の皆が、りんごの焼ける音に、あの音は何だと声を上げます。すぐにその正体は知れました。そう父さんの腐ったりんごです。
そして、居酒屋の皆は、父さんの馬が腐ったりんごに変わるまでのいきさつを聞くはめになります。
イギリス人は父さんに「おまえさんはおかみさんにこっぴどく叱られて傷だらけになるよ」といいました。しかし父さんは「傷じゃなくキスがもらえるよ」と断言しました。そして父さんは、母さんが「父さんがすることに間違い無し」というだろうことを皆に話しました。
するとイギリス人は賭けをしようといい出します。
イギリス人は、金貨百ポンドかけるといいますが、父さんは金貨ひと升分でいいといいました。それに対して父さんは、賭けしろが、りんごしかないので、それに合わせて、自身と母さんをつけるといいました。それならお釣りが来るだろうと思ってのことです。賭けは成立しました。
こうして宿屋の主人の馬車が持ち出されて、ふたりのイギリス人と父さんは、母さんの待つ家に向かいました。
父さんは、家につくと、母さんに取り替えてきたよといいました。すると、母さんは「あんたのすることは間違いないからね!」といって強く父さんを抱きしめました。
それから父さんは、馬が腐ったりんごに変わるまでのいきさつを母さんに話しました。それぞれの交換に母さんは感心して、すべてを話し終えると母さんは、父さんにキスをしました。
ふたりのイギリス人は「これは素敵だ! ずっと底の見えない下り坂の人生なのに、いつも幸福だよ。これは相当の値打ちものだ」と叫びました。彼らは賭けに負けたのです。ふたりのイギリス人は大升いっぱいの金貨を夫婦に払いました、
この人がする事なら、何でも正しいと信じて認めていれば、いつだって、それ相応のお返しがあるもんだ、あなたも、今この物語を聞いたのだからよくわかったことと思う、と物語は結ばれます。
-1861年-
父さんと母さんの立場が逆転しても、物語の語ることは変わらないでしょう。そして、タイトルが、「母さんのすることに間違い無し」でもいいのです。
アンデルセンは、極貧の幼少期、少年期を送っています。しかし、たくさんの両親の愛情を注がれて育ちました。彼の童話は、両親の愛情に対する、感謝にあふれています。
この物語にしても、アンデルセンが両親を偲んで書いたものでしょう。金銭の貧しさは、それを味わった者の心をも貧しくしてしまいがちですが、アンデルセンのように、心からの愛情が注がれて成長したなら、後でいくらでも挽回ができるのではないでしょうか。
そう、心からの愛情を与えられた者は、ぶれることなく、世の中を、あるいは自分の人生を、肯定的にとらえることが、当たり前のふるまいとなるものです。どんなに裏切られても、周りや自分への信頼を常とします。アンデルセン自身がそうでした。
そして、そのふるまいは、当たり前のことですが、決して自分勝手なものとはなりません。それゆえに、本人自体、期待もしていないでしょうが、ある意味ふさわしい見返りを得ることとなるのではないでしょうか。
それというのも、お話というものは、読み手が時を經るごとに、より面白く感じられていくものだからです。大抵の人が、年齢を重ねるごとに面白い人間になっていくのと同じことです。
さて、ある田舎外れに、まさしく田舎の農家があり、そこには百姓の父さんと、母さんが住んでいました。ふたりの持ち物は少ししかありませんでしたが、唯一、余分なものがありました。それは馬です。
百姓の父さんは、馬を売るか、夫婦にもっと役に立つものに、取り替えたほうがいいと思いつきました。
母さんは父さんに「今日は町に市が立つ日だわ。そこに行って馬を売ってお金にするか、それとも何かいいものと取り替えてきなさいな。あなたのすることならいつだってなんだって間違いないもの。さあ市に行ってらっしゃい」といい、父さんにキスをしました。
そして父さんは、売るか交換するか思案のしどころの馬に乗って市に出かけていきました。
父さんは、市につく前に、雌牛を引くひとりの男に出会いました。そしてこの雌牛なら、たくさんの牛乳を出してくれると思い、その男に掛け合って、馬と雌牛を交換しました。
さあ、これで父さんは仕事を終えたことになります。しかし、見るだけでもいいからと雌牛を連れて市に向かいました。
父さんは、これから先、市で、出会った様々な動物に感心し、交換に交換を重ねます。雌牛は羊になり羊はガチョウになり、ガチョウはメンドリになります。
父さんは、市についてからもうたくさんの仕事をしました。くたくたです。そこで一杯引っ掛けようと思い、居酒屋に入ろうとすると、豚の餌に、たくさんの腐ったりんごを運んでいる男に出会いました。
すると父さんは、去年、うちの泥炭小屋のそばの林檎の木に、実がひとつしかならなかったことを思い出します。
そのりんごを母さんは、取って置かなければと思い、タンスの上に腐るまで置かれました。母さんは「これが豊かさというもんだ」といっていたもんです。
このたくさんのりんごを持って帰れば、母さんが喜ぶと思った父さんは、そのりんごとメンドリと交換してしまいました。そして居酒屋に入ります。
居酒屋に入ると父さんは、ストーブに火が入っているのも知らず、ストーブの上に腐ったりんごを置いてしまいます。りんごは「ジューッ、ジューッ、ジューッ」と音を立て始めました。
ところで、この居酒屋には、馬の仲買人、家畜売買人、ポケットが金貨ではちきれそうなふたりのイギリス人など金持ちがたくさんいました。
居酒屋の皆が、りんごの焼ける音に、あの音は何だと声を上げます。すぐにその正体は知れました。そう父さんの腐ったりんごです。
そして、居酒屋の皆は、父さんの馬が腐ったりんごに変わるまでのいきさつを聞くはめになります。
イギリス人は父さんに「おまえさんはおかみさんにこっぴどく叱られて傷だらけになるよ」といいました。しかし父さんは「傷じゃなくキスがもらえるよ」と断言しました。そして父さんは、母さんが「父さんがすることに間違い無し」というだろうことを皆に話しました。
するとイギリス人は賭けをしようといい出します。
イギリス人は、金貨百ポンドかけるといいますが、父さんは金貨ひと升分でいいといいました。それに対して父さんは、賭けしろが、りんごしかないので、それに合わせて、自身と母さんをつけるといいました。それならお釣りが来るだろうと思ってのことです。賭けは成立しました。
こうして宿屋の主人の馬車が持ち出されて、ふたりのイギリス人と父さんは、母さんの待つ家に向かいました。
父さんは、家につくと、母さんに取り替えてきたよといいました。すると、母さんは「あんたのすることは間違いないからね!」といって強く父さんを抱きしめました。
それから父さんは、馬が腐ったりんごに変わるまでのいきさつを母さんに話しました。それぞれの交換に母さんは感心して、すべてを話し終えると母さんは、父さんにキスをしました。
ふたりのイギリス人は「これは素敵だ! ずっと底の見えない下り坂の人生なのに、いつも幸福だよ。これは相当の値打ちものだ」と叫びました。彼らは賭けに負けたのです。ふたりのイギリス人は大升いっぱいの金貨を夫婦に払いました、
この人がする事なら、何でも正しいと信じて認めていれば、いつだって、それ相応のお返しがあるもんだ、あなたも、今この物語を聞いたのだからよくわかったことと思う、と物語は結ばれます。
-1861年-
父さんと母さんの立場が逆転しても、物語の語ることは変わらないでしょう。そして、タイトルが、「母さんのすることに間違い無し」でもいいのです。
アンデルセンは、極貧の幼少期、少年期を送っています。しかし、たくさんの両親の愛情を注がれて育ちました。彼の童話は、両親の愛情に対する、感謝にあふれています。
この物語にしても、アンデルセンが両親を偲んで書いたものでしょう。金銭の貧しさは、それを味わった者の心をも貧しくしてしまいがちですが、アンデルセンのように、心からの愛情が注がれて成長したなら、後でいくらでも挽回ができるのではないでしょうか。
そう、心からの愛情を与えられた者は、ぶれることなく、世の中を、あるいは自分の人生を、肯定的にとらえることが、当たり前のふるまいとなるものです。どんなに裏切られても、周りや自分への信頼を常とします。アンデルセン自身がそうでした。
そして、そのふるまいは、当たり前のことですが、決して自分勝手なものとはなりません。それゆえに、本人自体、期待もしていないでしょうが、ある意味ふさわしい見返りを得ることとなるのではないでしょうか。
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