子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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『古事記』 [下の巻] リンク
『古事記』 [下の巻] 01 第十六代 仁徳天皇(1)聖帝の世、日本の民主制形態の原型
『古事記』 [下の巻] 02 第十六代 仁徳天皇(2)影を潜める神話性、人間味あふれる物語
『古事記』 [下の巻] 03 第十六代 仁徳天皇(3)何はともあれ吉祥で結ばれるめでたい世

『古事記』 [下の巻] 04 第十七代 履中天皇 皇位継承は御子から兄弟へ

『古事記』 [下の巻] 05 第十八代 反正天皇

『古事記』 [下の巻] 06 第十九代 允恭天皇 臣下の意によって左右される天皇の座

『古事記』 [下の巻] 07 第二十代 安康天皇 徳のなさゆえに暗殺された天皇

『古事記』 [下の巻] 08 第二十一代 雄略天皇 残虐な行為の末に得た皇位のその後

『古事記』 [下の巻] 09 第二十二代 清寧天皇崩御後、空位を治める飯豊王、それ以降



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18:16 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 09 第二十二代 清寧天皇崩御後、空位を治める飯豊王、それ以降
雄略天皇崩御後は、その御子である白髪命(シラカミノミコト)が皇位につきます。第二十二代清寧天皇(せいねいてんのう)です。清寧天皇には御子がおりませんでした。よって清寧天皇崩御後にはしばらく空位が生じてしまいます。

そこで皇位を受け継ぐべき王を尋ね求めると、まだ皇位を継ぐ前の雄略天皇、つまり大長谷王子(オオハツセノミコ)に殺された忍歯王(オシハノミコ)の妹の飯豊王(イイトヨノミコ、『古事記』 [下の巻] 04 第十七代 履中天皇 皇位継承は御子から兄弟へを参照)が空位を預かり、角刺宮(つのさしのみや、所在未詳)で仮に天下を治めることになりました。



ところで山部連小盾(ヤマベノムラジオダテ)という者が、播磨国(はりまのくに、兵庫県南部)の長官に任じられた時、土地の志自牟(シジム、[下の巻] 07 第二十代 安康天皇 徳のなさゆえに暗殺された天皇を参照)という金持ちが開く新築祝の宴会に呼ばれた時のことです。

集まった客の者は、酒が回ってご機嫌になると、身分の上の者から舞を舞うこととなり、この時最後に、火を焚く係をしていた二人の少年にも、舞を舞わせることとなりました。二人は兄弟で、その順番を譲りあっている様子が可笑しかったので、集まっていた客は皆、笑いました。

そしてようやく兄が舞い終え、次に弟が舞おうとしたところ調子を付けて歌い出します。歌の内容は兄弟の身分の告白でした。そう彼らはあの雄略天皇に殺された履中天皇の御子オシハノミコの御子である意祁命(オケノミコ、第二十四代仁賢天皇(にんけんてんのう))と袁祁王(ヲケノミコ、第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう))だったのです。正統な皇位継承者です。

それを聞いたヤマベノムラジオダテは、早速人払いをして、兄弟を膝に乗せて泣き喜び、仮宮を作り兄弟をお連れして、角刺宮へ早馬の使者を走らせます。すると叔母であるイイトヨノミコはそれを聞いて喜び兄弟を角刺宮へ迎い入れます。



この二人がまだ天皇の位に付く前のことです。弟のヲケノミコは、名を大魚(オオオ)という綺麗な少女を、かねがね嫁に貰いたいと思っていました。

ある晩、歌垣と言って若い男女が集まって、歌ったり踊ったりする行事に出ていた時に、志毘臣(シビノオミ)という役人が、この少女の手をとっているのを見ます。そこでヲケノミコも負けじと歌垣に参加するのでした。

二人の男が歌の詠み合いの勝負をします。そして夜明け近くになったおり、行事はお開きとなりました。この時二人の王子は、あるはかりごとをします。今は寝ているであろうシビノオミの暗殺です。そして軍を起こして、それをなしてしまいました。



やがて二人の兄弟に、いよいよ天皇の位に付く時が来たのですが、二人は譲りあって、どちらが継ぐか、なかなか決まりません。結局兄弟の身分を適宜に明かした弟のヲケノミコが、まず皇位に付くこととなりました。第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう)です。



顕宗天皇は第二十一代雄略天皇によってだましうちにあい、殺された父親のオシハノミコの亡骸を探していました。そこへ、ある時身分の賤しいおばあさんがやってきて、その父親の埋まっている場所を知っているというのです。

そこで人をやってその場所を掘らせてみると確かに見つかります。亡骸の歯型をみて確かめました。顕宗天皇は立派な墓を作って父親を葬ります。

あの賤しいおばあさんには、置目(オキメ)という名を与えて、手厚くもてなしました。宮殿の傍に立派な家を作り、毎日会いました。御殿に大きな鈴を垂らしておき、おばあさんが顕宗天皇を呼ぶときには鈴を鳴らします。顕宗天皇はその様子を歌に詠んでいます。

しかしやがておばあさんは、すっかり年を取ってしまうと、暇を請うので故郷に返してあげました。顕宗天皇は別れを惜しみ歌を詠んでいます。



また顕宗天皇は、昔、雄略天皇を恐れて身を隠した時、お弁当を奪われた猪飼いの老人([下の巻] 07 第二十代 安康天皇 徳のなさゆえに暗殺された天皇を参照)を探させます。

そして老人を探しだすと呼び出して河原で斬り殺します。一族の者も膝の筋を断ち切り、足を不自由にして見せしめとしました。



また顕宗天皇は、父を殺した雄略天皇をひどく恨んでいたので復讐をしたいと思い雄略天皇の御墓を壊そうと人を遣いに出そうとしますが、これは他人任せにはできないと兄のオケノミコが自身で壊してくるというので任せます。

そして兄のオケノミコは事をなしてきます。しかし、あまりに早くことがなされたので不思議に思い、顕宗天皇はどのようにしてきたのかを問いうと、オケノミコは少しだけ掘り返してきたというのです。顕宗天皇ははなぜことごとく破壊しなかったのかと兄のオケノミコを責めます。

すると「雄略天皇に報復したいと思うのはもっともだけれども、一方で雄略天皇は父の従兄弟であるし、いっときは天下を治めた天皇です。ここで単に仇の意志だけで事を行ってしまうと、後の世の人々は非難するでしょう。これで十分な辱めです」と述べました。これには顕宗天皇も同意します。



そして顕宗天皇崩御後は兄のオケノミコが皇位を継ぎ、第二十四代仁賢天皇(にんけんてんのう)と呼ばれます。

仁賢天皇は、雄略天皇の御子である春日大郎女(カスガノオオイラツメ)を后に迎えています。親族間の本当の意味での和解です。



仁賢天皇の後は、古事記は、物語的な記述はなくなります。なので天皇の名だけを記して終わりたいと思います。武烈(ぶれつ)、継体(けいたい)、安閑(あんかん)、宣化(せんか)、欽明(きんめい)、敏達(びたつ)、用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)、推古天皇(すいこてんのう)と続きます。古事記は、第三十三代推古天皇(神功皇后([中の巻] 14 第十四代 仲哀天皇(2)女帝としての神功皇后を参照)を除けば初の女帝)の系図までで終わっています。



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残虐であった允恭天皇の系統の安康、雄略天皇から穏健な履中天皇の系統である顕宗、仁賢天皇に変わる節目です。この節での空位は大きな意味を持ちます。

顕宗、仁賢天皇は少年時代、雄略天皇の脅威を逃れて身分を隠し、貧しい牛飼いに仕えて働いていました。民衆の生活の苦しさを身にしみて知っていたのではないでしょうか。民の心を知っている優しい天皇だと思います。

彼らは父を殺し自分たちを窮地に追いやった雄略天皇の御霊に復讐しようとしますが、思い立ってやめています。

また仁賢天皇は雄略天皇の御子であるカスガノオオイラツメを后に迎えています。これで二つの勢力の間の和解が成立します。親族間の泥沼の復讐劇は終わりを告げます。民にも、みっともない権力争いなどに対する示しを付けました。

最後に、この節で空位を治めたイイトヨノミコは、神功皇后と共に女帝として扱ってもいいのではないでしょうか。

これで古事記の読書メモを終えます。



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18:18 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 08 第二十一代 雄略天皇 残虐な行為の末に得た皇位のその後
前節の残虐な行為の末、大長谷王子(オオハツセノミコ)は天皇に即位します。第二十一代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)です。雄略天皇は前節で兄の安康天皇が、誤って殺してしまった大日下王(オオクサカノミコ)の妹の若日下王(ワカクサカノミコ)を大后として娶っています。二人の間に御子はありませんでした。

また雄略天皇は、これも前節での都夫良意富美(ツブラノオオミ)との戦いのさなかでした約束の通り、彼の娘の韓比売(カラヒメ)を娶っています。こちらの間には白髪命(シラカノミコト)という御子がいて、後に第二十二代清寧天皇(せいねいてんのう)となります。



さて、大后のワカクサカノミコが、まだ故郷の河内の日下(大阪府東大阪市日下町)にいた頃のことです。雄略天皇がワカクサカノミコを大和から直越の道(ただごえのみち、大和と難波を結ぶ生駒山を越える道)を通って、河内に訪ねてきた時の話です。

雄略天皇は山の上に来て景色を眺めると鰹木(かつおぎ)を屋根の上に乗せている家が目に入ります。雄略天皇は誰の家かと尋ね、天皇の御殿を真似るとはと立腹します。そして人を遣わし家を焼かせに行かせました。

その家の主は大県主(オオアガタヌシ、大阪府柏原市、八尾市、藤井寺市付近の豪族)なる人物なのですが、彼は恐縮してひれ伏し、雄略天皇に非礼を詫ます。そして品物まで献上しました。品物は犬です。そこで雄略天皇は火を着けるのをやめさせ、そして珍しい、この犬なる品をワカクサカノミコへの求婚の品として送り届けます。

するとワカクサカノミコは天皇が日に背を向けておいでになるとは畏れ多いこととして、自分が直接宮中に参上することを伝えてきました。それを雄略天皇は聞くとワカクサカノミコへの愛情を歌にして使いの者に持たせています。



またある時、雄略天皇が美和河(初瀬川の下流で三輪山付近)で遊んでいた時、川辺で衣を洗っている少女がいました。容姿がとても美しかったので雄略天皇は名を聞き、赤猪子(アカイコ)という名と知ると、彼女に男へ嫁ぐのをやめさせ、もう少し大きくなったら宮中に召し抱えることを告げて宮に帰りました。

ところがアカイコが雄略天皇からお呼びがかかるのを待って、はや八十年の時が立ってしまいます。ようやくアカイコは、もうすでに遅きことは分かっていても、天皇に待っていたという気持ちを伝えなくては気が塞ぐので、宮中に献上品を持って参内します。

すると雄略天皇は、すっかり忘れていたことを告白し、アカイコに、志を守って命令を待ち続け、無駄に盛りの年を過ごさせてしまったことを詫び、歌を詠んで彼女に送りました。

アカイコは、それを聞いて涙を流します。そして彼女も雄略天皇に彼女の正直な気持ちを歌にしてを詠み返します。雄略天皇は、たくさんの品を彼女にほうびに持たせて帰しました。



次は雄略天皇が吉野の離宮に出掛けた時のことです。雄略天皇は、吉野川のほとりで一人の少女に出会いました。その少女がたいそう美しかったので大和の宮殿に連れ帰ります。

その後、雄略天皇は、また吉野に出掛けた最、以前に少女と出会った場所に足台を据え、そこに座り、琴など引きながら連れてきた少女に舞を踊らせました。少女が上手に踊ったので、雄略天皇はその感動を永遠にと歌に詠んでいます。



また同様に雄略天皇が吉野に出掛けて狩りをした時の話です。例の足台に座って、獣を待っていると、虻が飛んできて雄略天皇を刺しました。

するとそれに続いて、トンボが後に続き、虻を食って飛び去りました。雄略天皇はそれを面白がって歌に詠んでいます。



またある時雄略天皇は葛城山(奈良県と大阪府の境にある金剛山地の山)に登りました。その時、大猪が現れて、雄略天皇が、その猪を鏑矢で射ると、その猪は怒って唸りながら走り寄って来ました。

そこで雄略天皇は傍にあった榛の木(はんのき)に登って難を逃れ、その驚きを歌を詠んでいます。



またある時、雄略天皇は、同じように葛城山に多くの官人を連れて登った時のことです。官人は赤い紐を付け青染めの衣装を与えられていました。ふと見ると向かいの山の尾根から、こちらに登ってくる人々があって、それがこちらの官人の人数から着ている装束までそっくりなのでした。

そこで雄略天皇は不審に思って、その一行に、この大和国には私以外に君はいないはずだと供の者に口上を述べさせます。ところが相手の一行も同じ口上を述べてくるではないですか。

雄略天皇は怒って、弓に矢をつがえ、供の者にも弓に矢ををつがえさせると、相手も同じように弓に矢をつがえました。そこで雄略天皇は再び供の者に口上を述べさせます。お互いに名を名乗ってから矢を放とうと。すると向こうが先に名乗りました。

私は凶事も吉事も一言でお告げを下す葛城山の一言主ノ大神(ヒトコトヌシノオオカミ)だと名乗ります。

雄略天皇は相手が神様だとは恐れ入り、太刀や弓矢をはじめ多くの官人たちの衣服を脱がせ、ヒトコトヌシノオオカミを拝んでそれらの品を献上します。

するとヒトコトヌシノオオカミは喜んで受け取ります。そして雄略天皇が帰ろうとすると、ヒトコトヌシノオオカミは、山の峰から長谷山の麓まで見送ってくれるのでした。



また別の時、雄略天皇は、袁杼比売(オドヒメ)という美しい少女を后にもらおうと春日に出向きますが、その道中で目指す娘に出会います。オドヒメは恥ずかしく思い、隠れてしまいます。その時の雄略天皇の、何としても探しだしてやろうとする気持ちが歌に詠まれます。



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この節も歌を多く挟んだ歌物語になっています。しかし、歌謡は、人それぞれ解釈が異なることが予想されるので、前節でも述べましたが、いたって簡単な散文で置き換えています。

なお、最後に原文に書かれている三重の采女(うねめ、地方豪族出身の朝廷に仕える女子のこと)の大変長い歌物語は割愛しました。歌はそれぞれの方がそれぞれの解釈で楽しまれることをおすすめします。青空文庫でも現代語訳が読めます。

雄略天皇の后たちは、前節から読めば分かる通り、いずれも肉親の仇に当たる先に嫁いでいることになります。この辺の感覚、あるいは様式が、ひと昔前の日本人になら分かるのかもしれませんが、今の日本人に分かるかどうかは疑問です。

雄略天皇は身内を殺してまでして皇位に就いた残虐な天皇としての側面が強いのですが、自分より上位の神である一言主ノ大神を献る側面が、この節では描かれます。



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18:21 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 07 第二十代 安康天皇 徳のなさゆえに暗殺された天皇
允恭天皇(いんぎょうてんのう)の後の皇位は、御子の木梨之軽王(キナシノカルノミコ)と決まっていましたが、彼が即位する前に不倫で失脚したことにより、その弟の穴穂命(アナホノミコト)が皇位を継ぐことになりました。第二十代安康天皇(あんこうてんのう)です。



安康天皇は、弟の大長谷王子(オオハツセノミコ、第二十一代雄略天皇)のために、家来の根臣(ネノオミ、建内宿禰(タケシウチノスクネ)の家系)を大日下王(オオクサカノミコ、第十六代仁徳天皇の御子で允恭天皇の異母弟)の所に遣いを出して、その妹である若日下王(ワカクサカノミコ)と弟のオオハツセノミコトとの結婚を約束させようとします。

オオクサカノミコは、四度拝み、そのような大命をと、たいへん喜び引き受けます。そして安康天皇に贈り物の品までつけてネノオミを返しました。

ところが遣いに出ていたこのネノオミという男は悪者で、その贈り物を盗みとり、オオクサカノミコが「同族のものに敷物同然にくれてやるものか」と立腹したとの嘘の報告を安康天皇にします。

安康天皇は激怒しオオクサカノミコを殺して、その妃である長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)を自身の大后としました。



ある日、安康天皇は神意を受けようと、昼寝をしていました。そしてふと大后に心配事がないかと尋ねてみます。大后はそのようなことはないと答えますが、安康天皇には常に気がかりなことがありました。

それは大后の連れ子である目弱王(マヨワノミコ)が成長して、彼の父親を殺したのが自分であることを知り、敵討ちをされるのではないかという心配です。

それを大后に話すのですが、この時マヨワノミコは近くの床下で遊んでいたため、それをすべて聞いてしまいます。

マヨワノミコは、この言葉を聞くと、すぐに安康天皇の眠っているところをを密かにうかがい、傍にあった太刀で安康天皇の首を斬りつけ殺してしまいました。そして都夫良意富美(ツブラノオオミ)という家来の家に逃げ込みます。



このことをまだ少年だったオオハツセノミコが知ると、怒りをあらわにし、兄の黒日子王(クロヒコノミコ)を訪ねます。しかしクロヒコノミコは驚きもせず気にもかけない様子です。オオハツセノミコは失望して兄のクロヒコノミコの襟首を掴んで引きずり出し、刀を抜いて撃ち殺してしまいまさた。

そして別の兄の白日子王(シラヒコノミコ)を訪ねるのですが彼も同じように他所事のように振舞っています。オオハツセノミコは、シラヒコノミコを小治田(おはりだ、奈良県明日香村)まで連れて行き、穴をほって生き埋めにすると、腰まで埋まった頃、シラヒコノミコは目の玉が飛び出して死んでしまいました。



そしてオオハツセノミコは軍を起こして、マヨワノミコが逃げ込んだツブラノオオミの屋敷を取り囲みます。この時ツブラノオオミも軍を起こして迎え撃ち、両軍の放つ矢は風に吹かれた葦の花が散るように飛び交います。

やがてオオハツセノミコは、矛を杖にしてツブラノオオミの屋敷に入ると「私が言い交わした少女は、もしやこの屋敷にいないか」と尋ねました。

するとその少女の父親であるツブラノオオミが武器を解き、八度拝んでから、それに答えて、「先日あなたが求婚なさった私の娘である韓比売(カラヒメ)はあなたの側に仕えさせましょう。また私の私有地も献ります。しかし自身が参上しないのは、昔から今に至るまで、臣下が皇族の宮殿に隠れることはあっても、皇子が臣下の家に隠れることなど聞いたことがありません。とうてい私などが盾をついてもかなわないと分かっていても、私を頼ってきた皇子を見捨てるわけには行きません」と言いました。

そして再びツブラノオオミは武器を手に戦います。しかし勝てる戦ではありません。とうとうツブラノオオミは手傷を負い矢も尽きて、マヨワノミコにどうしたらいいのかと尋ねます。

マヨワノミコは諦めてツブラノオオミに自分を殺せと命令し、ツブラノオオミはそれを果たし、自分も自害しました。



後日、オオハツセノミコは近江国の韓袋(カラフクロ)という者に、近江の久多綿(くたわた、所在不明)には多くの猪や鹿がいるからと狩りを勧められます。

そして狩りに出かけますが、この時オオハツセノミコは従兄弟にあたる忍歯王(オシハノミコ)を一緒に誘います。安康天皇が次期の天皇にと考えていた人物です。二人は狩場に着くと別々に仮宮を作って泊まりました。

翌朝早く、オシハノミコが、オオハツセノミコの家来に催促するように告げ、先に出掛けます。これを家来は怪しみ、オオハツセノミコにいらぬ警戒を与えてしまいます。

そしてオオハツセノミコがこうするつもりであったかは定かではありませんが、追いつくとなんとオシハノミコを矢で射て剣で斬り殺してしまいました。そしてオシハノミコは地面の中に粗末に葬られます。



それを知ったオシハノミコの子である意祁命(オケノミコ、第二十四代仁賢天皇(にんけんてんのう))と袁祁王(ヲケノミコ、第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう))は、自らの身の危険を感じて逃げ去りました。

そして二人の王子が山城(京都府南部)の刈羽井で弁当を食べていると、目尻に刺青をした老人が来て、その弁当を奪って行くではないですか。二人の王子は弁当は惜しくはないものの、老人の素性を聞きます。老人は猪飼いでした。

二人の王子はいつか仇を取ろうと心に誓い、淀川の渡し場である久須婆(大阪府枚方市楠葉)で川を逃げ渡り、播磨国(兵庫県南部)に着くと、志自牟(シジム)という名の人物のもとで、身分を隠して馬飼い、牛飼いに仕えて働きます。



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安康天皇の臣下の度量を見る目のなさが事の発端ですが、仇の家に嫁いだ大后を始めとし、そのせいで義理ではありますが、父親である天皇が自分の仇でる皇子が登場し、天皇の暗殺を果たします。

そのために天皇の弟のオオハツセノミコは戦を起こし、その皇子を死に追いやりますが、何の因果か、この戦は、オオハツセノミコが婚約した娘の父親との戦でもあったりします。

もうドロドロの人間関係が描かれます。要約を見ていただけたら分かるように、更にオオハツセノミコを軸とした怨恨の物語は続いてゆきます。

オシハノミコがオオハツセノミコに殺されて無造作に葬られる下りは後の天皇が決まる伏線にもなっています。

古事記では、安康天皇は自らの愚かさゆえに、暗殺された天皇として語られます。暗殺された天皇として日本書紀には、後もう一人、第三十二代崇峻天皇(すしゅんてんのう)が記録されています。天皇たるもの、人を見る目がなければならないということなのでしょう。



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18:27 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 06 第十九代 允恭天皇 臣下の意によって左右される天皇の座
水歯別命(ミズハワケノミコト)こと、第十八代反正天皇(はんぜいてんのう)の後を、弟の男浅津間若子宿禰命(オアサツマワクコノスクネノミコト)が皇位を継ぎます。第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう)です。第十六代仁徳天皇の御子であり、第十七代履中天皇、第十八代反正天皇の同母弟にあたります。

主な御子に木梨之軽王(キナシノカルノミコ)、黒日子王(クロヒコノミコ)、穴穂命(アナホノミコト、第二十代安康天皇(あんこうてんのう))、軽大郎女(カルノオオイラツメ)、白日子王(シラヒコノミコ)、大長谷王子(オオハツセノミコ、第二十一代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう))がいます。



允恭天皇は、はじめ皇位の話が来た時、自身の長く患っている病を理由に断っています。ところが、大后をはじめ、周りの官人が強く願い出たために位につきました。

この時、新羅の国王が八十一艘の船で允恭天皇に貢物を献上しています。この船に乗る大使は薬の処方に長けていて允恭天皇の病を治療したといいます。



ところで、允恭天皇は、天下のあらゆる人の氏姓(うじかばね)が、本来のものと違っているのを憂いて、盟神探湯(くかたち)という占いを行い、天下の多くの職業集団の長の氏姓を正しています。氏とは世襲により継承される家の名のことで、姓とは朝廷から賜る家の階級のことです。

盟神探湯とは、釜に湯をたぎらせて、そこに手を入れさせ火傷するかしないかにより、その人の正邪を判断する占いのことです。

もちろん邪心を持つ者は火傷をし、正しい心を持つ者は火傷を追わないと考えるやり方です。これにより氏姓を偽るものはいなくなるというわけです。



さて允恭天皇の後の皇位は、キナシノカルノミコと決まっていました。しかしキナシノカルノミコは、即位する前に、とある禁忌を犯してしまいます。

この時代、異母兄間の結婚は許されていたのですが、同母兄間の結婚は不倫とされ固く禁止されていました。その不倫を犯してしまうのです。その相手はカルノオオイラツメです。キナシノカルノミコのカルノオオイラツメへの思いが歌にして詠まれます。

キナシノカルノミコは、多くの官人や天下の人たちの反感をかい、皇位の継承は、自然と弟のアナホノミコトに期待が集まるようになりました。

キナシノカルノミコは、アナホノミコトを恐れて大臣の大前小前宿禰(オオマエオマエノスクネ)のもとに逃げ、武装します。一方アナホノミコトも武装します。



やがて二人の間に争いが起きました。その様子が歌にして詠まれます。そして争いのさなか、大臣のオオマエオマエノスクネが、流血を恐れて平和的解決を試みたのでしょうか、なんとキナシノカルノミコを捕らえ相手に差し出してしまうのでした。その時のキナシノカルノミコの妹を思う心情が歌に詠まれます。

キナシノカルノミコは伊余湯(いよのゆ、愛媛県松山市の道後温泉)に島流しにされます。キナシノカルノミコはその時に恨めしい気持ちを歌に託して詠みました。

一方、妹のカルノオオイラツメも、兄を思い、歌に詠みます。やがてカルノオオイラツメは兄を思う気持ちが押え切れず、後を追って伊余湯に向かいます。その時の心情が歌に詠まれます。

二人は再開を喜び抱き合います。その時の、キナシノカルノミコの、カルノオオイラツメへの思いが歌にして詠まれます。そして二人は共に自害しました。



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允恭天皇の事績で注目すべきは氏姓を正したことです。これらのことは、国を秩序の混乱から救い、正しく統治する上で大切なこととして語られています。このことは古事記の序文にも特に記されています。



允恭天皇の即位は大后をはじめ官人たちの強い要望によるものでした。このように皇位継承に、臣下の思いが関与する記述は初めてです。

同じように、後半に物語られる、次期天皇になるはずであったキナシノカルノミコの失脚には、やはり臣下の強い思いが関与しています。結果は允恭天皇に働いた力とは対象的な力が働いていますが…。

神々の物語として始まった古事記ですが、段々とこのようにより人間界の物語に変遷してゆきます。



後半の兄弟たちの物語は、多くの歌をはさみ、詠み手の心情が吐露され、非常に文学的に語られます。それぞれの登場者に、いろいろな思い入れをすることができます。

しかし、歌謡は、人それぞれ解釈が異なることが予想されるので、前節でも述べましたが、いたって簡単な散文で置き換えています。歌の内容が知りたい方は、他をあたってください。





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18:25 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 05 第十八代 反正天皇
『古事記』には、反正天皇(はんぜいてんのう)の即位前の活躍は、前章で水歯別命(ミズハワケノミコト)として記されていますが、即位後の事績は記されていません。身の丈九尺二寸半(約1.8m)などの容姿や、系譜などが記されているだけです。

それではと『日本書紀』を覗いてみると、しかしそこにもやはり記述は少なく、反正天皇の在位は、五年という短い間となっていることが分かるだけです。

では何の手がかりもないかというとそうでもありません。しかし参考資料程度の価値しかないものですが…。

それは、中国の宋の正史である『宋書』に記されたものです。その中にある「倭の五王」の一人である「珍」は反正天皇のことだと考えられています。和書よりは記述が多いのですが、やはり外国の歴史書であるため、自国の都合のいいように書かれていることが予想されます。





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18:39 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 04 第十七代 履中天皇 皇位継承は御子から兄弟へ
仁徳天皇と大后である石之日売命(イシノヒメノミコト)の間には、上から伊邪本和気命(イザホワケノミコト、第十七代履中天皇(りちゅてんのう))、次に墨江之中津王(スミエノナカツミコ)、次に水歯別命(ミズハワケノミコト、第十八代反正天皇(はんぜいてんのう))、次に男浅津間若子宿禰命(オアサツマワクコノスクネノミコト、第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう))の四神の御子がいました。そして、長子であるイザホワケノミコトが第十七代履中天皇と呼ばれます。

履中天皇には忍歯王(オシハノミコ、第二十一代雄略天皇によって殺される。その御子には、意祁命(オケノミコ、第二十四代仁賢天皇(にんけんてんのう)と、袁祁王(ヲケノミコ、第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう)がいます)、次に御馬王(ミマノミコ)、次に妹の飯豊王(イイトヨノミコ、第二十二代清寧天皇崩御後の空位の時代を天皇に変わって統治した天皇に準じる中天皇(なかつすめらみこ))の三神の御子がおりました。



履中天皇が難波宮(なにわのみや)にいた頃、新嘗祭(宮中祭祀のひとつ、その年の収穫に感謝する、11/23)の後の豊明(とよのあかり、宮中での御酒宴)で履中天皇は大御酒(おおみき、神や天皇などに奉る酒)を召して、気持よく眠りにつきました。すると弟のスミエノナカツミコは、自分が皇位につきたいがため履中天皇を殺そうと御殿に火を放ちます。

そこで阿知直(アチノアタイ、帰化氏族)が履中天皇を連れ出して御馬に乗せて大和へ逃れました。履中天皇は多遅比野(たじひの、大阪市羽曳野市)着いたところで目覚めて、アチノアタイに事情を聞きます。そこで履中天皇は野宿するならカーテンくらい持ってきたのにとユーモアあふれる歌を詠んでいます。改めて難波宮の方を眺めると、なお火は燃え盛り空を赤く染めています。そんな情景と共に妻を心配して履中天皇は歌に詠んでいます。

履中天皇は大阪山の麓(河内と大和の境)まで来た時、一人の女人と出会います。そして彼女からこの先の道には武器を持った大勢の人たちが塞いでいるから、当岐麻道(たぎまち、奈良県葛城市當麻を経て竹内峠に至る竹内街道)から回って進むと良いでしょう、との助言を受けます。履中天皇はその様子も歌に詠んでいます。



履中天皇は当岐麻道を登り進み石上神宮(いそのかみのかみのみや、奈良県天理市石神神宮)に着くと、同じく弟のミズハワケノミコトが履中天皇に拝謁を求めてきます。しかし履中天皇はこの弟もスミエノナカツミコと同様に反逆を企てているのではないかと疑って会おうとしません。履中天皇は、もしミズハワケノミコトに反逆の心がないなら、証拠にスミエノナカツミコを打ち取りなさい。それならば会おうと伝令を出しました。

ミズハワケノミコトはそれに従い難波を下りスミエノナカツミコに仕えている曾婆訶理(ソバカリ)に「もし私の言葉に従うなら、私が天皇となりお前を大臣にして天下を治めよう」とそれに加えたくさんの品物まで与えて騙し、スミエノナカツミコを殺させようとします。ソバカリは主君を裏切りスミエノナカツミコが厠に入るのを密かにうかがい矛で刺して殺してしまいました。

ミズハワケノミコトはソバカリを率いて大和に上りますが大阪山の麓に着いた時、ソバカリの功績を讃えたものの、自分の主君を殺したことは忠義に反する、いつか自分も殺されるかもしれないとして、祝の豊明を催すふりをして、その最中に、やはりソバカリを殺してしまうのでした。



そしてミズハワケノミコトは次の日、履中天皇の待つ大和に上り進みます。ミズハワケノミコトは大和に着くと、一旦留まり御祓(水で身体を清める儀式)を行い明日にでも履中天皇のいる石上神宮に参上しようと備えました。

そしてミズハワケノミコトは石上神宮に参上し、取次のものを通じて履中天皇に約束の伝令を果たしたことを告げると召し入られて兄弟仲良く語り合うのでした。

アチノアタイは履中天皇を焼き討ちから救った功績が認められ蔵官(くらつかさ、物の出納を司る役)に任命されます。



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履中天皇は同母の弟に焼き討ちにされそうになるというショッキングな事件が語られます。仁徳天皇以降皇位の継承が御子へから兄弟へと変遷し、このような相続争いも描かれるようになるのです。

ちなみに、これまで一例だけ親子継承がなされなかった例があります。それは第十三代成務天皇から第十四代仲哀天皇の時で、叔父から甥への継承でした。

なお、この章ではアチノアタイなどの渡来人の系譜を持った人物が役につくなどのことが注目されます。



履中天皇が焼き討ちを逃れ逃げていく際に、予言をする女人が登場しますが、このタイプの女人、以前にも崇神天皇の章にも登場しました。([中の巻] 06 第十代 崇神天皇 「初国知らしし御真木天皇」を参照)

物語に於いて何かある一定の役割を演じているのですが気になります。現代小説などには、リアリズムの観点から登場させづらい人物ですが、この預言者と呼べるこのような人物は世界の物語にもよく登場します。



またソバカリに対しては、複雑な心境になりました。彼はミズハワケノミコトに陰謀を持ちかけられた時点で、もうすでに自分の命がないも同然でした。従わなければ殺されるし、従っても忠義の心がないとされ、結局殺されています。

この件でスミエノナカツミコは殺されますが殺された場所が厠です。このような場面は以前にも描かれました。ヤマトタケルノミコトが熊曾征伐をする時です([中の巻] 09 第十二代 景行天皇(1)倭建命(ヤマトタケルノミコト)の西征を参照)。厠は、剣を外して使うという習慣があることから、相手の隙を付く場所となるようです。





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18:41 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 03 第十六代 仁徳天皇(3)何はともあれ吉祥で結ばれるめでたい世
前節で仁徳天皇は、女性関係で、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)のことがあったにもかかわらず、腹違いの弟の速総別王(ハヤブサワケノミコ)を仲人として、ヤタノワキイラツメの妹にあたる女鳥王(メドリノミコ)に求婚しました。

するとメドリノミコは、大后の石之日売命(イシノヒメノミコト)の気性を、姉との出来事において知っていたので、仁徳天皇との結婚はできないと思い。それならと仲人であるハヤブサワケノミコと結婚することにしました。



このようなわけで、ハヤブサワケノミコは、仁徳天皇に報告に戻りませんでした。そこで仁徳天皇は直接メドリノミコの所に会いにゆきます。

さて、メドリノミコは服を織っていました。仁徳天皇は、いったい誰の服を織っているのかと歌を詠みます。メドリノミコは正直にハヤブサワケノミコの服であると答えて歌を詠みました。仁徳天皇は、メドリノミコが誰を愛しているのかをさとって、宮に帰ってゆきました。



その後、メドリノミコのもとに、夫のハヤブサワケノミコがやってきて、妻のメドリノミコは次の歌を詠みます。


ひばりは空を飛び翔ける。
そのように空を飛び翔ける、
はやぶさの名を持ったハヤブサワケノミコよ。
鷦鷯(さざき、ミソサザイ)の名を持った、
大雀命(オオサザキノミコト、仁徳天皇)の命を取ってしまいなさい。


やがてこの歌のことが、仁徳天皇の耳に入ると、仁徳天皇は二人を殺そうと軍勢を集めました。ハヤブサワケノミコと、メドリノミコは、倉椅山(くらはしやま、奈良県桜井市)に逃げます。

ハヤブサワケノミコが、その困難と、それにもかかわらず、二人でいることの喜びを歌に詠んでいます。彼らは、この山を超えて宇陀の蘇邇(そに、奈良県宇陀郡曽爾村)まで逃げたのですが、そこで仁徳天皇の軍勢に追いつかれて殺されてしまいます。

仁徳天皇の軍の将軍であった山部大盾連(ヤマベノオオタテノムラジ)はメドリノミコが手に巻いていた玉釧(たまくしろ、玉で作った腕輪)を奪って自分の妻に与えています。



この後、豊楽(とよのあかり、宮中での御酒宴)が催された時、各氏族の女達が皆宮中に参内しました。この時 ヤマベノオオタテノムラジの妻は夫がメドリノミコを殺した時にその身から奪った玉釧を手に巻いて参列しています。

大后のイシノヒメノミコトは、自ら大御酒(おおみき、神や天皇などに奉る酒)を柏の葉にとってそれぞれの氏族の女達を賜いました。

ところが、かつてメドリノミコが、手に巻いていた玉釧を覚えていたイシノヒメノミコトは、それがヤマベノオオタテノムラジの妻の手にあるのをみとめて、彼女には御酒柏を賜わず退席させ、夫のヤマベノオオタテノムラジを呼び出しました。

そしてイシノヒメノミコトはヤマベノオオタテノムラジに「メドリノミコたちは不敬であったから殺されたのです。これは当然のことでした。それにしても、かつては自分の主君であった方の御手に巻いておられた玉釧をまだ肌に温もりがあるうちに剥ぎとって、すぐに妻に与えるとは」と言って直ちに彼を処刑しました。



またこの御代の二つの吉祥です。

ある時、仁徳天皇が、豊楽(とよのあかり)を催そうと日女島(ひめしま、大阪市西淀川区姫島のあたり)に行幸(ぎょうこう、天皇の外出)された時、その島で雁が卵を産みました。

そこで建内宿禰(タケシウチノスクネ、成務朝から仁徳朝まで長寿を保ち、歴朝の大臣を務めた伝説上の人物)を呼んで、歌で、お前こそはこの国の長寿ものだ。この国で雁が卵を産んだことがあるかと尋ねました。

タケシウチノスクネは歌を詠み返して、そんな話は聞いたことがありません。きっと天皇が末永く国を治めになる印でしょうと答えました。



また、菟寸河(とのきがわ、所在未詳)の西に一本高い木があって、その木の影は朝日に当たれば淡路島に届き、夕日に当たれば高安山(大阪府と奈良県の県境に位置する山)を超えました。

そこでこの木を切って船を作ると、とても早く進む船となりました。そこで、この船に、朝夕淡路島の清水を汲んで、大御水(おおみもい、天皇の飲料水)として献上しました。

やがてその船も朽ちて壊れたので、塩を焼くのに使いました。そして焼け残った木を使って琴を作りました。するとその琴の音は、七つの里に響き渡りました。そこで人はその琴の音を愛でて歌を残しています。



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歌物語で綴られるところが多いのですが、前節でも述べた通り、歌謡は人それぞれ解釈が異なることが予想されるので、いたって簡単な散文で置き換えています。歌の内容が知りたい方は、他をあたってください。

古事記、下の巻のお話は、かつての神々の物語に比べて、非常に人間的です。この節も、相変わらず女性を追いかけ回す仁徳天皇と、激情を振るう大后のイシノヒメノミコトの続話です。

しかし、この節の大后は彼女の正義感の強さも表していて、まさに大后にふさわしい行動を示しているとも言えるのではないでしょうか。

また、締めくくりに、仁徳天皇の御代に二つの吉祥が起きたことが語られますが、これは普段ありえないことが起きると、縁起が良いとする考えに基づくもので、仁徳天皇の御世が、最後のところで物騒なこともありましたが、めでたい世であったことを表しているのでしょう。



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18:22 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 02 第十六代仁徳天皇(2)影を潜める神話性、人間味あふれる物語
大后の石之日売命(イシノヒメノミコト)は仁徳天皇(にんとくてんのう)の女性関係によく嫉妬をしました。そのため仁徳天皇がそばに置こうとした妃たちは、宮中に入ることもできず、もし目立ったことなどすれば、イシノヒメノミコトは、じたんだをふんで、妬みの心を隠そうとしませんでした。



それでも、仁徳天皇は、吉備国(岡山県と広島県東部)の海部をを統率していた海部直(あまべのあたい)の娘、黒日売(クロヒメ)が、容姿麗しいと聞いて、召し上げて側で使うことにします。しかしクロヒメは、大后の妬みを恐れて、船で本国へ逃げ帰ってしまうのでした。

仁徳天皇は、それを嘆いて歌を詠むと、それを聞いたイシノヒメノミコトはひどく怒って、人を大浦(大阪湾)に遣わして、クロヒメを船から追い下ろしてしまう有様です。クロヒメは仕方なく、陸路を帰らねばなりませんでした。

そんなクロヒメを、哀れに思った仁徳天皇は、大后であるイシノヒメノミコトを騙して、淡路島に向かうといい、淡路島から島伝いに吉備国に入り、クロヒメを追います。

そんな仁徳天皇をクロヒメは山畑に案内して大御食(おおみけ、天皇に献上する食事)を献ります。そして歌など詠み合い、心を通わせるのでした。



また、その後、大后であるイシノヒメノミコトが、豊楽(とよのあかり、宮中での御酒宴)を催そうとして、御綱柏(みつながしわ、酒を盛るための柏の葉)を得るため、木の国(紀伊国、和歌山県)に船で出掛けている間に、仁徳天皇は、こっそり、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ、第十五代、応神天皇の皇女)と結婚します。

ところで、そんなことなど知らないイシノヒメノミコトは、御綱柏を船に載せた帰り道、「仁徳天皇はヤタノワキイラツメと結婚して、昼に夜になく遊んでいらっしゃる。大后はそれを知らないから静かに出掛けていらっしゃるのだろう」との人夫の話を聞きつけます。

イシノヒメノミコトは、大いに恨み、怒って、船に乗せていた御綱柏をことごとく海に投げ捨ててしまいます。そして宮には入らず、宮を避けるように堀江(旧淀川)を遡り、川に沿って山城(山城国、京都府南部)へ向かいました。



しかし大后としてとるべき振る舞いを歌にして詠み、心を落ち着けてから、改めて宮に向かおうとしますが、それでもしばらくは筒木(つつき、京都府京田辺市)の韓人(からびと、百済からの渡来人)奴理能美(ヌリノミ)の家にとどまり、帰る決心をしかねていました。

そんなイシノヒメノミコトの様子を知った仁徳天皇は筒木に人を使わして歌を贈って、大后であるイシノヒメノミコトをなだめようとします。

遣わした人の中には口子臣(クチコオミ)という人物がいましたが、大后に会ってもらえず難儀していたところ、ちょうどその時に、大后に仕えていた妹の口日売(クチヒメ)が、兄の姿を哀れに思って歌を詠みました。

とおに宮に帰る時期を逸してしまっていたイシノヒメノミコトが、その歌を聞いて、自らに転機が訪れるのを知ります。



クチコオミは家に入れてもらい、彼と妹のクチヒメ、そして家主のヌリノミの三人の相談が始まります。

そして仁徳天皇に次のことを伝えます。「大后がヌリノミの屋敷にお出かけになったのはヌリノミが飼っている虫が、一度は這う虫になり、一度は鼓(繭)になり、一度は飛ぶ虫になる三種類に変化する虫(蚕)なのですが、この虫をご覧になるためだったのです。他に意図はございません」と。

仁徳天皇はそれを聞いて私も見に行きたいと言い出し、ヌリノミの屋敷を訪れます。そして蚕を見て、自分の心を蚕になぞらえて、また歌を詠みます。これによって仁徳天皇と大后であるイシノヒメノミコトは仲直りをしました。

これによりヤタノワキイラツメとの結婚は解消してしまいますが、仁徳天皇は彼女への思いが捨てきれず、彼女を気遣い、ここでまた歌を詠んでいます。それに対してヤタノワキイラツメも殊勝な歌を詠み返しました。



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古事記、下の巻では、多く歌物語を差し挟んで綴られるのが特色です。しかし歌謡は人それぞれ解釈が異なることが予想されるので、いたって簡単な散文で置き換えました。歌の内容が知りたい方は他をあたってください。



仁徳天皇がクロヒメを追って淡路島で詠んだ歌には、オノゴロ島([上の巻] 02 国生みを参照)がでてきます。詳細な場所は不明ですが、この淡路島あたりということでしょうか。

仁徳天皇が青葉を摘むクロヒメに近づき、歌を詠む情景などは、ことの良し悪しとは別に、嫉妬に狂うイシノヒメノミコトとは対象の、のどかで平和な気分を感じてしまいました。下の巻では、こうした人間性が多く描かれ、神話性は影を潜めます。



ヤタノワキイラツメと仁徳天皇の恋物語は最終的に、二人の結婚の解消で幕を閉じています。

大后のイシノヒメノミコトがヌリノミの屋敷に行ったのは、大后がヤタノワキイラツメへの嫉妬のためではなく、めずらしい蚕という虫を見るためであると、話のつじつま合わせて、ことの成り行きを終息に向かわせています。

これで大后の面目は保たれ、同じく英雄としての仁徳天皇の体面も損なうことを防いでいるのでしょう。





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18:27 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [下の巻] 01 第十六代 仁徳天皇(1)聖帝の世、日本の民主制形態の原型
すでに述べた通り、大雀命(オオサザキノミコト)が第十六代仁徳天皇になります。([中の巻] 16 第十五代 応神天皇(2)天皇崩御後の三皇太子を参照)この節では、仁徳天皇の系譜と主な事績について語られます。



仁徳天皇は建内宿禰(タケシウチノスクネ、成務朝から仁徳朝まで長寿を保ち、歴朝の大臣を務めた伝説上の人物)の子である葛城之曾都毘古(カツラギノソツビコ)の娘、石之日売命(イシノヒメノミコト)を大后としました。

そして、その間に生んだ、後の世に重要と思われる御子には、伊邪本和気命(イザホワケノミコト、第十七代履中天皇(りちゅうてんのう))蝮之水歯別命(アジヒノミズハワケノミコト、第十八代反正天皇(はんぜいてんのう))、男浅津間若子宿禰命(オアサツマワクゴノスクネノミコト、第十九代允恭天皇(いんぎょうてんのう))が挙げられます。

また髪長比売(カミナガヒメ)を最初に后としたことは([中の巻] 15 第十五代 応神天皇(1)平和な御世を参照)先に述べた通りです。そしてカミナガヒメとの間に二神の御子を儲けています。

あとは第十五代応神天皇(おうじんてんのう)の娘の二神、つまり腹違いの兄弟を后にしています。これらの后との間には御子がありませんでした。



さて仁徳天皇は高い山に登り四方の国土を眺めると、国中がひっそりとして、どこにも炊煙が上がらないのを見ると「炊煙が立ち昇っていないのは、国に住む人たちが、皆、貧しくて、食べ物にもことかいているからだろう。今から三年の間、人民から貢物を取り立てたり、使役に人民を使ったりするのはやめよう。」と考え、おふれを出しました。

そのため宮殿は破れ壊れ、ことごとく雨漏りするようになってしまいましたが、全く修理することはなく、器でその漏れる雨を受け、漏れないところに移って雨を避けていました。

その後、仁徳天皇は国中を眺めてみると国土は炊煙で満ちていました。そこで人民は豊かになったと安心し、ようやく貢物や使役を再開させます。

こういうわけで人民は栄えます。そのため人民は、その御世をたたえて聖帝(ひじりのみかど)の世と讃えました。



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この節の後ろの段は、仁徳天皇にまつわる有名な説話です。儒教思想の聖天子を描こうとしたことは明白で、人民は君主の所有物などではなく、人民を主体とした政治が描かれます。

こういった文化的土壌が、悠久の時間を遡ってきた日本にはあり、それらが語り継がれてきた事は幸いだと思います。

仁徳天皇には即位前にも、弟のウジノワキイラツコとの皇位の譲り合いの説話もあり([中の巻] 16 第十五代 応神天皇(2)天皇崩御後の三皇太子を参照)、これと合わせてみても、儒者としての側面を多く持った天皇と言えます。





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18:11 : 『古事記』 [下の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] リンク
『古事記』 [中の巻] 01 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の東征
『古事記』 [中の巻] 02 続・神倭伊波礼毘古命の東征、八咫烏(やたがらす)の導き
『古事記』 [中の巻] 03 天つ神と国つ神の統合を意味する神武天皇の大后探し
『古事記』 [中の巻] 04 神武天皇崩御後の後継争い

『古事記』 [中の巻] 05 欠史八代

『古事記』 [中の巻] 06 第十代 崇神天皇 「初国知らしし御真木天皇」

『古事記』 [中の巻] 07 第十一代 垂仁天皇(1)皇后・沙本毘売命の苦悩
『古事記』 [中の巻] 08 第十一代 垂仁天皇(2)皇后・沙本毘売命の子、本牟智和気御子

『古事記』 [中の巻] 09 第十二代 景行天皇(1)倭建命(ヤマトタケルノミコト)の西征
『古事記』 [中の巻] 10 第十二代 景行天皇(2)倭建命(ヤマトタケルノミコト)の東征
『古事記』 [中の巻] 11 第十二代 景行天皇(3)倭建命(ヤマトタケルノミコト)の最期

『古事記』 [中の巻] 12 第十三代 成務天皇 最後の直系継承

『古事記』 [中の巻] 13 第十四代 仲哀天皇(1)巫女としての神功皇后、そして大陸遠征
『古事記』 [中の巻] 14 第十四代 仲哀天皇(2)女帝としての神功皇后

『古事記』 [中の巻] 15 第十五代 応神天皇(1)平和な御世
『古事記』 [中の巻] 16 第十五代 応神天皇(2)天皇崩御後の三皇太子
『古事記』 [中の巻] 17 第十五代 応神天皇(3)天之日矛説話、及び出石にまつわる伝承





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18:09 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 17 第十五代 応神天皇(3)天之日矛説話、及び出石にまつわる伝承
前節で述べた通り、大雀命(オオサザキノミコト)が、第十六代仁徳天皇になりますが、その話の前に、新羅の国王の子、天之日矛(アメノヒボコ、[中の巻] 14 第十四代 仲哀天皇(2)女帝としての神功皇后を参照)が新羅から日本へ渡来し、出石(いずし、兵庫県出石郡出石町)に祭られる物語と、出石の神に関する伝承の物語が挟まれます。



まずはアメノヒボコの物語。

新羅の国王の子で、名をアメノヒボコという者がおりました。この人が日本に渡ってきたのですが、その訳はこうです。

新羅の国に阿具奴摩(あぐぬま)という沼があって、この沼のほとりに、一人の卑しい女が昼寝をしていました。すると日の光が虹のように、その女の体に差し込みます。また、一人の卑しい男がいて、その有様を不審に思い、その女の行動をうかがっています。

するとこの女は、妊娠して赤い玉を産んだではないですか。そこで男は、女に頼んで赤い玉を貰い受け、いつも大事に腰にぶら下げていました。

この男は、田を谷間に作って、小作の者達に耕作させていましたが、ある日男は、小作の者達に弁当を届けるために、それを牛の背に乗せて運んでいきます。すると男は途中、国王の子であるアメノヒボコに出会います。

アメノヒボコは、この男を怪しみ、「どうしてお前は食料を牛に背負わしているのか。お前はきっと、この牛を殺して食べるつもりだろう」と言って、すぐにその男を牢屋に入れようとします。

その男は「私は牛を殺そうとするものではありません。農夫に弁当を届けるつもりでいるだけです」と答えて言いました。

しかし、アメノヒボコは、承知しません。そこで男は腰にぶら下げていた赤い玉を、アメノヒボコに贈ります。それでアメノヒボコは、やっと男を赦しました。

アメノヒボコは赤い玉を持ち帰って、床のそばに置いておくと、なんと赤い玉は、美しい少女に姿を変えました。アメノヒボコは、その少女を妻とします。

ところがアメノヒボコは、おとなしい妻に、だんだん思い上がって罵るものですから、ついに少女は、「だいたい私はあなたの妻になるような女ではありません。私は日の光から生まれたのですから、日ノ御子の治めている故郷に参りましょう」と言って、こっそりと小舟に乗って海を渡り難波(大阪市)につきます。

アメノヒボコは、妻が逃げたのを知って、すぐに日本へ追いかけて行きますが、難波の海峡の神が、行く手を遮って通しません。但馬国(兵庫県北部)まで戻って、船を停泊させました。そしてアメノヒボコは、この土地で一生を終えます。

アメノヒボコから数えて五代目の子が、第十一代垂仁天皇のために常世国へ「非時香木実(ときじくのかくのきのみ)」を取りに行った多遅摩毛理(タジマモリ、[中の巻] 08 第十一代 垂仁天皇(2)皇后・沙本毘売命の子、本牟智和気御子を参照)です。

更に代を下ると神功皇后([上の巻] 05 天照大御神、月詠命、須佐之男之命の誕生[中の巻] 13 第十四代 仲哀天皇(1)巫女としての神功皇后、そして大陸遠征などを参照)の母方も、この家計に加わります。

アメノヒボコが、新羅の国から持ってきた宝物は、出石(いずし)のお社(兵庫県出石郡出石町の出石神社)に大神として祭られました。



次に、アメノヒボコの渡った出石で、二人の兄弟神が、美しい少女を妻にしようとして賭けをした物語が語られます。

出石の大神の娘に、伊豆志袁登売(イズシオトメ)と呼ばれる少女がいました。ところで多くの神が、彼女を嫁にもらおうとしましたが、誰も結婚することができませんでした。

ここに兄弟神である兄の秋山之下氷壮夫(アキヤマノシタビオトコ)と、弟の春山之霞壮夫(ハルヤマノカスミオトコ)がいます。

アキヤマノシタビオトコは、ハルヤマノカスミオトコにむかって、「私はイズシオトメを妻に願ったがかなわなかった。お前はこの少女を妻にできるか」と問いました。すると弟のハルヤマノカスミオトコは、「たやすく妻にすることができます」と答えました。

そこで兄のアキヤマノシタビオトコは、「もしお前がこの少女を娶ることができたなら、私は身の丈と同じ高さの瓶に、酒を醸し海山の幸を添えて賭けのものとしよう」言い出しました。

ハルヤマノカスミオトコは、母にそのことを詳しく伝えると、すぐに母は藤の蔓を取ってきて、一夜の間に、上衣、袴、襪(したぐつ)、靴を織り縫い、また弓矢を作って、それらをハルヤマノカスミオトコの身に整えさせ、少女の家に向かわせます。

するとその衣装や弓矢は、全て藤の花に変化するのでした。そこで弟のハルヤマノカスミオトコは、少女の家の厠に、弓矢かけておきます。すると少女は、その藤の花を不思議に思い、それを家に持って変えろうとします。

弟は、そのあと追って少女の家に入ると、まんまと契りを交わしてしまいました。そして一神の子を儲けます。そして弟のハルヤマノカスミオトコは、兄のアキヤマノシタビオトコに「私はイズシオトメを自分のものにした」と申しました。

ところで、兄のアキヤマノシタビオトコは、弟のハルヤマノカスミオトコを妬ましく思い、賭けに負けたくせに賭けものの品を渡そうとしません。そこでハルヤマノカスミオトコは、そのことを、また母に訴えます。

すると母親が「現世は、神々の教えを見習うべきです。人の世のやり方を真似て兄は賭け物を償おうとしないのでしょうか。」と答えていいました。

早速母親はアキヤマノシタビオトコを恨んで呪詛の言葉をハルヤマノカスミオトコに教えて儀式を行ないます。するとアキヤマノシタビオトコは、八年もの間、体は干からび、しなえ、病み衰えました。

それでアキヤマノシタビオトコは嘆き悲しみとうとう母親に赦しをこいます。するとすぐに母親は呪いをときました。兄の体は元通り安らかに健康を取り戻します。この伝承が「神に賭けて」ということわざの起こりです



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タジマモリが登場しますが、記紀ともに初出は垂仁期です。よって古事記に、アメノヒボコの渡来の説話が、この応神天皇の段に記されているのは時系列的に矛盾します。日本書紀には垂仁期に別の似たお話で語られるのですが、こちらのほうが自然です。



また、アメノヒボコの渡来の説話がここで語られるに伴って、出石の伝承の物語も、ここに置かれたのでしょう。

この伝承物語の後半は、母親が末子のために長子を呪う物語です。要約には書きませんでしたが、その特徴は、呪詛の方法が具体的に記されていることです。

また注目すべきは、この母親が、この時代の風潮を的確に言い表す描写があリます。母親は、世界が神の世から人の世になって、約束を履行しなくなったと嘆いています。これは中の巻で描かれる世界を俯瞰した言葉でしょう。

これで中の巻、終わります。下の巻は、この中の巻の最後で、人の世を嘆いた母親の言葉も虚しく、もっと人間臭い物語となるようです。





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18:33 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 16 第十五代 応神天皇(2)天皇崩御後の三皇太子
さて、応神天皇が崩御なさった後、大雀命(オオサザキノミコト)は天皇の仰せに従って、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)に皇位の継承をなさろうとします。

ところが同じ兄弟の大山守命(オオヤマモリノミコト)は、それに背いて自分が天下を取りたいと思い、密かに弟のウジノワキイラツコの殺害を計画し軍隊を集めていました。

そのことを知ったオオサザキノミコトは、直ちにこのことをウジノワキイラツコに知らせます。



知らせを聞いたウジノワキイラツコは驚き、すぐに対策を講じます。まず兵士を宇治川のほとりに潜ませます。また宇治の山の上に絹の幕を張り巡らせ、その中に仮屋を立て、自身の身代わりとなるように変装させた兵士を一人座らせました。

そして役人たちに、代わる代わるそのおとりにお辞儀をさせましたから、これが偽のウジノワキイラツコだとは気づかないくらいでした。

その上でオオヤマモリノミコトが川を渡ってくるのに備えて、渡し船を一艘用意して、櫓(ろ)や櫂(かい)を綺麗に飾り、船底に敷いた、すのこには、佐那葛(さなかずら)の根から採ったネバネバした汁を塗りつけ、人が踏めば、滑って倒れる仕掛けを施します。

そしてウジノワキイラツコ自身は粗末な布の着物をまとって卑しい渡し守に変装して、舵を手に船の上で時を待ちました。

兄であるオオヤマモリノミコトも、これまた自分の兵士を隠し潜ませ、自分も鎧(よろい)の上に衣を着て変装していたのですが、それは、すっかり弟のウジノワキイラツコに見通されていたのでした。



兄のオオヤマモリノミコトは弟のウジノワキイラツコが山の上にいると思い込まされ、川を渡る船に弟が船頭として乗っていることには思いもよらず、のこのこと船に乗っかってしまいます。船が宇治川の中ほどに達するとウジノワキイラツコは船を傾け兄のオオヤマモリノミコトを川に滑り落としてしまいます。

オオヤマモリノミコトは、鎧は重いし流れは早いし、みるみる川に流されてゆきます。その時自らを哀れんで歌を読みました。


荒波さわぐ宇治の渡しに、
上手に船を操る友よ、
早く味方に来ておくれ。


そこを川のほとりに潜んでいたウジノワキイラツコの兵士たちが、いっせいに姿を表し矢を射るので、溺れかけたオオヤマモリノミコトは岸には戻れず、さらに下流へ流されてゆきました。そしてついにオオヤマモリノミコトは川に沈んでしまいます。



応神天皇の仰せの通りウジノワキイラツコが皇位を継承するはずでしたが、彼は、オオサザキノミコトこそ天皇にふさわしいと、皇位を譲るつもりでいます。しかしオオサザキノミコトにその気はありません。父である応神天皇の御心を第一としていました。

こうして互いに譲りあうものですから、天皇の食事を請け負っていた海人は、譲り合う兄弟の間を行ったり来たりで、鮮魚は腐らせ足はくたびれ次のようなことわざができます。「海人は自分の商売もので泣く」 

こういう具合だったのですが、やがて弟のウジノワキイラツコが、若くしてこの世を去ります。そこでようやくオオサザキノミコトが皇位につきました。

オオサザキノミコトとウジノワキイラツコの皇位の譲り合いには、儒教思想的な背景を見て取ることができます。





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18:29 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 15 第十五代 応神天皇(1)平和な御世
御子の頃から半ば皇位の継承を定められていた品陀和気命(ホムダワケノミコト)こと第十五代天皇、応神天皇(おうじんてんのう)は、多くの后を娶り、多くの御子を儲けました。

応神天皇は多くの御子の中から、大山守命(オオヤマモリノミコト)、大雀命(オオサザキノミコト)、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)の三神を皇太子とします。そのうちのオオサザキノミコトが皇位を継いで、第十六代、仁徳天皇となりました。



ある時、応神天皇は、オオヤマモリノミコト、オオサザキノミコトを呼んで「お前たちは、子どもたちのうちで、年上の子と、年下の子と、どちらが可愛いと思うか」と尋ねました。それというのも、三人の皇太子の中で、一番歳の若いウジノワキイラツコに、皇位を継いでもらいたいと、かねがね思っていたからです。

オオヤマモリノミコトは、応神天皇のそんな気持ちを察せず、「年上の子のほうが可愛いと思います」と答えました。しかしオオサザキノミコトは天皇の意を汲んで、「年上の子はすでに成人しているので、こちらは気にかかることもありませんが、それに反して年下の子は、気がかりで可愛いく思われます」と答えます。

応神天皇はオオサザキノミコトに大いに同意し、三人の皇太子の任務を分けて、「オオヤマモリノミコトは山と海の部を管理しなさい。オオサザキノミコトは私の統治する国の政治を助けなさい。ウジノワキイラツコには皇位を継承する」と仰せになりました。

この応神天皇の仰せがあったので、後にオオヤマモリノミコトが仰せに背いて反逆した時も、オオサザキノミコトは遠慮して、すぐには天皇の位につこうとはしませんでした。



ところで、ウジノワキイラツコの誕生のいきさつが語られます。応神天皇は、ことのほかウジノワキイラツコの母親がお気に入りのようです。応神天皇がウジノワキイラツコに皇位に継がせたい理由はそれでしょう。

ある時、応神天皇は、近江の国へ山越えをなさった時、木幡村(宇治市小幡)で淡麗な少女と出会います。応神天皇は少女に名を尋ねると丸邇(わに)の比布礼能意富美(ひふれのおおみ)の娘で、名を矢河枝比売(ヤカワエヒメ)と申しました。そして応神天皇は、明日帰り際に、娘の家に立ち寄ろうと約束します。

娘はそのことを詳しく父親に話すと、父親は娘が出会ったのは、応神天皇であろうと恐れおののきます。そして父親は娘に天皇に仕えるよう言い聞かせます。

そして家を整え待っていると、約束通り応神天皇はやって来ました。そこで応神天皇に御馳走が振る舞われますが、応神天皇はヤカワエヒメに杯を持たせお酒を勧めました。そしてヤカワエヒメに杯を持たせたまま、御馳走にあるカニの塩辛を見て次の歌を詠みました。


このカニは、どこのカニだ。
これは敦賀のカニだ。
横ばいしてどこに行く。
伊知遅島から、美島まで(場所不明)、
カニの横ばい一苦労。
水に潜ったカイツブリ、
息をするのも、一苦労。
坂ばかりの佐々那美(琵琶湖西南岸の古称)、
それをわたしはスタスタと、
やってきたのが木幡村。
ばったりあったこの少女、
後ろ姿は盾のよう。
歯並の白さは椎のよう。
櫟井(いちいい、奈良県天理市の丸邇氏の本拠地)の丸邇坂の土は、
上の土は色が赤いし、
下の土は色が黒いし、
真ん中とったこの中土を、
カンカンの強火ではなく、
弱火でゆっくり眉墨を作り、
それで可愛い三日月形に、
眉を描いているこの少女。
ばったりあったその時には、
なんと綺麗と見とれた少女。
ゆっくりと会いたいと思った少女。
それがこうして向き合って、
それがこうして寄り添って、
一緒にいるとは夢のよう。


応神天皇のヤカワエヒメに対する気持ちの高揚が歌われます。こうしたいきさつで結婚して生まれた御子が、ウジノワキイラツコです。



次に語られるのも、皇太子の一人、オオサザキノミコトと応神天皇のエピソードです。

応神天皇は日向国に髪長比売(カミナガヒメ)という美しい少女がいるという噂を聞いて、早速、彼女を都に呼んで后にしようとします。

そしてカミナガヒメが大和へ呼ばれるのですが、その途中、船が難波津(なにわづ)に停まっていた時、オオサザキノミコトは、彼女を一目見てその美しさに感動してしまいます。

早速、オオサザキノミコトは大臣である建内宿禰命(タケシウチノスクネ、成務朝から仁徳朝まで長寿を保ち、歴朝の大臣を務めた伝説上の人物)に頼んで、彼女を妻にしたいとのことを応神天皇へ口添えしてもらいます。

そしてタケシウチノスクネは、そのことを応神天皇にお許しを願うと、天皇はただちにカミナガヒメをオオサザキノミコトに与えるのでした。



また、応神天皇の御世には新羅の国から大勢の人が海を渡ってきます。そこで大臣であるタケシウチノスクネは、この人たちを使って、堤を作ったり池を掘ったりしました。中でも有名なのは百済池(くだらいけ)です。また百済の国王、照古王(しょうこおう)は雄馬と雌馬を一頭ずつ、また太刀や大鏡を阿知吉師(アチキシ)という人に託して贈り物をしました。

それから応神天皇は百済国に、そちらに賢人がいたならよこすように仰せになりました。それでやってきたのが和邇吉師(ワニキシ)という人です。彼は『論語』十巻と『千字文』一巻を携えて、それらを応神天皇に献上しました。

その他にも、技術者の鍛冶師の卓素(タクソ)や、機織り女の西素(サイソ)もやってきます。また酒を醸す技術に精通した須須許理(ススコリ)も渡来します。そのススコリは応神天皇に上等な酒を献上すると天皇はいい気持ちになって次の歌を詠みます。


ススコリの醸した酒に、
私はすっかり酔ってしまった。
禍を祓う酒、心楽しく笑いたくなる酒に、
私はすっかり酔ってしまった。


こうして応神天皇は、歌いながら二上山を超える大坂道(大和から河内に通じる穴虫街道の穴虫峠)をふらふらやってきますと、道の真ん中を大きな石が邪魔をしていたので、手にした杖で叩こうとすると、石は打たれまいとして急いで杖を避けました。それでことわざに『硬い石でも酔っ払いは避ける』とあります。



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応神天皇の前半のこの節ですが、物語中に多くの歌が詠まれています。しかし、この記事では少なからず割愛しました。それらの歌と、応神天皇やその皇太子の問答などから察するに、おそらくこの応神期は、これまでにない平和な世が想像されます。

応神天皇は皇太子に后を譲ったりもしています。この手の話は他にもあるのですが、大抵が悲劇に終わリます。しかし、ここでは、そうはならず、円満に結ばれています。しかしこの物語の成立過程には色々と考察があるようです。



それはさておき、これに反して、次記事の応神天皇の後半の節は、オオヤマモリノミコト反逆が描かれます。応神天皇の物語は、このギャップによるコントラストを楽しむのもいいかもしれません。

この節の初めの方で、応神天皇が、オオヤマモリノミコトと、オオサザキノミコトに投げかけた問が、応神天皇崩御後のオオヤマモリノミコトの反逆への伏線になっているようです。



ウジノワキイラツコの出自は丸邇(ワニ)氏に至るということですが、丸邇氏は五世紀から六世紀に勢力を振るった大豪族で奈良盆地北部を本拠とし、近江国や山城国にも居住していたと言われています。また多くの皇后を出した家系であることが記紀には語られます。

神功皇后(じんぐうこうごう)の時代の新羅征伐に続き、応神天皇の時代には、百済との国交も盛んになった様子が描かれています。このように、この御世から、天皇の事跡がより具体的に語られるようになります。





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18:32 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 14 第十四代 仲哀天皇(2)女帝としての神功皇后
神功皇后(じんぐうこうごう)は筑紫から大和へ帰る時、喪船に生まれたばかりの我が御子を乗せ、御子が亡くなったと嘘を言いふらします。

これは朝廷にも伝わります。それは、これから起こるであろう、亡くなった仲哀天皇の後継者争いで、命を狙われかねない我が御子を、皇太子とするための神功皇后のはかりごとの一つでした。



こうして神功皇后が大和へ登ってくると、案の定、異母兄の香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)の兄弟が神功皇后を討ち取ろうと待ち構えていました。

二人は事の成否を占うため誓約狩りをします(誓約(うけい)とは、予め決めた通りの結果が現れるかどうかで吉凶を判断する占いの一種)。

するとくぬぎの木に登っているカゴサカノミコのもとへ、大きな怒り狂った猪が現れ、そのくぬぎの木の根を掘り返し、木を倒し、カゴサカノミコを食い殺してしまいました。

誓約狩りは凶と出たわけです。それにもかかわらず弟のオシクマノミコは、恐れることなく軍勢を起こして、神功皇后を待ち受け迎えます。



さてその戦は、オシクマノミコが、まず手薄であろう喪船から攻め込もうとしました(喪船と思わせられている)。ところがそれは神功皇后の思いのツボでした。空船と思われた喪船からは、なんと神功皇后の軍勢が出てくるではないですか。

両軍は相戦います。この時オシクマノミコの軍は伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍とし神功皇后側は建振熊命(タケフルクマノミコト)を将軍としていました。

この時タケフルクマノミコトは計略をめぐらします。「神功皇后はすでに亡くなっているから戦う必要はない」と言いふらして自らの兵の弓の弦を切らせ偽りの降伏をしたのです。

敵の将軍であるイサヒノスクネはすっかりそれを信じこんでしまい、こちらも兵に弓の弦を外させ武器を収めさせます。

ところがタケフルクマノミコトの軍は、髪の中に隠し持っていた弦を再び弓に張り、攻めてくるではないですか。イサヒノスクネの軍は、琵琶湖の南、楽浪(ささなみ)まで逃げ退きますが、イサヒノスクネとオシクマノミコを残して、ことごとく切り伏せられてしまいます。とうとう二人は船で琵琶湖に逃げ出しますが終いには湖に身を投げて死んでしまいました。



戦が終わり大臣である建内宿禰命(タケシウチノスクネ、成務朝から仁徳朝まで長寿を保ち、歴朝の大臣を務めた伝説上の人物)は皇太子(品陀和気命(ホムダワケノミコト))を連れて、禊(みそぎ)を行おうと、近江及び若狭国を越えて越前国の敦賀に仮の宮を建てて皇太子を住まわせます。

ところが土地の神である伊奢沙和気大神命(イザサワケノオオカミノミコト、後に登場する天之日矛命(アメノヒボコノミコト)のこととする説があリます)が夜、皇太子の夢に現れて、「私の名を差し上げて御子の名に替えたい」とおっしゃりました。

皇太子はそれに応じると、その土地の神は、「御子の名前を取り替えた印にさし上げるものがあるから明日の朝、浜辺に出なさい」とおっしゃりました。

翌朝、皇太子が浜辺に出てみると、鼻の頭が傷ついたイルカが、浦の中に集まってきていて、数えきれないほど浜に打ち上げられていました。

皇太子は「食事(みけ)の魚をたくさんくださいましてありがとう」と大神にお礼を言いました。そして、この神の名をたたえて御食津大神(ミケツオオカミ)と名づけました。今にいう気比大神(けひのおおかみ)です。

またそのイルカの鼻の血が臭かったのでその浦を名付けて血浦といいますそれが津奴賀(つぬが)となりました。現在の敦賀です。



さて御子が禊を済ませて大和に帰ってきた時、母である神功皇后は、御子のためにお酒を醸して待っていました。早速楽しい宴会が始まります。

神功皇后は神を讃えて歌を詠みました。


このお酒は私のお酒じゃありません。
お酒のことを司る、常世の国の、石神の、
少名毘古那神(スクナビコナノカミ)が、
踊り狂って、醸しだして、
はるばるご持参のお酒です。
さあさあ、あまさず飲みなさい。
めでたい酒を。

※少名毘古那神(スクナビコナノカミ、[上の巻] 15 葦原中国の完成−我々の八百万的なものの中での共生の起源を思うで登場、ここでは酒造の神として登場、古代人にとって酒は神が醸すもの)


タケシウチノスクネも歌を詠みました。


このお酒を醸した人は、
臼につづみを立てかけて、
歌いながら、醸したのでしょう。
踊りながら、醸したのでしょう。
すっかり楽しく、いただきました。
めでたい酒を。


御子は津奴賀の神と名を交換し、神が作った酒で宴を行うことで、即位が承認されました。



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この節も天皇の事蹟はあまり語られず、というか早々に崩御され、ヤマトタケルノミコトの節と同じように、天皇ではない大妃である神功皇后の物語になっています。また、この物語は、第33代推古天皇以下に続く女帝をモデルとして構想された物語とも言われています。

戦の後、皇太子は直接都へ向かわず、敦賀の地で禊(みそぎ)を行っていますが、そこで彼は神から名をもらっています。これは、典型的な成人式儀礼、あるいは原始的な即位儀礼と見ることができます。

最後の宴会では、原文に「大御酒を献りき」とある通り、皇太子はすでに天皇と認められています。





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18:28 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 13 第十四代 仲哀天皇(1)巫女としての神功皇后、そして大陸遠征
第十三代成務天皇(せいむてんのう)は御子を亡くしたため、兄弟である倭建命(ヤマトタケルノミコト)の御子である帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)が、傍系ですが皇位を継ぎます。第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)です。

仲哀天皇は大和を離れ、穴門(あなと、長門国西部、関門海峡を望む土地)、筑紫にて天下を治めます。仲哀天皇の御世には淡路島を屯倉(みやけ、朝廷の直轄領)に定めています。

仲哀天皇が大后である息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)こと、神功皇后(じんぐうこうごう)との間に生まれた御子の一人である品陀和気命(ホムダワケノミコト)が皇位を継ぎ第十五代応神天皇(おうじんてんのう)となります。



仲哀天皇が筑紫の国にいた時のことです。ヤマトタケルノミコトによって征伐されたはずの熊曾の国が、また勢力を戻していました。仲哀天皇はこれを征伐しようと考えていました。

そこで仲哀天皇は琴を弾き、大臣である建内宿禰(タケシウチノスクネ、成務朝から仁徳朝まで長寿を保ち、歴朝の大臣を務めた伝説上の人物)が神降ろしの場にて、神託を得ようとします。

このとき、神功皇后が神がかり(神霊が人に乗り移ること)になられます。神は神功皇后の口を通して「西の方に国がある。その国には金や銀をはじめとして、目のくらむような色々な珍しい宝物がたくさんある。私は今、その国を服属させようと思う」と仰せになりました。

ところが仲哀天皇はこれに答えて「高いところに登って西の方を見ても、国土は疎か大海ばかり」とおっしゃり、偽りを仰せになる神だと断じて、儀式の琴を弾くのをやめて黙ってしまいます。

するとその神は、ひどく怒って「だいたいこの天下は、そなたが治めるものではない。そなたなぞ、黄泉の国に向かへ」と仰せになりました。

タケシウチノスクネは、そんな仲哀天皇の行動を、神に対して恐れ多きものとして注意します。すると仲哀天皇は、またしぶしぶ琴を弾き始めました。しかしやがて、その音は止んでしまいます。

タケシウチノスクネは、すぐに明かりを灯して見てみると、仲哀天皇は、すでに亡くなられていました。仲哀天皇は、神の怒りに触れて、呪い殺されてしまったのです。



残されたものは驚き恐れて、仲哀天皇の亡骸を仮の御殿におさめ、世の中の穢れを祓うことにします。獣の革を剥いだ者、畦や溝を埋めた者、神聖な場所を汚した者、その他諸々の罪を犯したものを探しだして祓い清めました。こうした後で、再びタケシウチノスクネが神託をうかがいます。

しかし神の仰せになることは、全て先日と同じで、さらに「全て、この国は、皇后様のお腹におられる御子が統治されるべき国である」と仰せになられました。

タケシウチノスクネは更に詳しく神託を乞うて、この神に名をお聞きになりました。すると神は「天照大御神の御心をとり行う者であり、我々は底筒男(ソコツツノオ)中筒男(ナカツツノオ)上筒男(ウワツツノオ)(合わせて住吉三神、住吉神社に祭られる航海の神、『古事記』[上の巻] 05 天照大御神、月詠命、須佐之男之命の誕生を参照)である」と仰せになりました。

また神は「西の国を求めるのなら、天つ神、国つ神、また山の神、河海の諸々の神々にお供えして我々三神の神霊を船の上に祭りなさい。そして木を焼いた灰を瓢に入れ、箸と皿とをたくさん作り、大海に散らし浮かべて海の神に捧げものをして渡ると良い」と仰せになりました。



そこで神功皇后は、全て神の教えに従い、軍勢を整え、船を並べて海の彼方の土地へ遠征に向かいます。海原の魚は大小を問わず船を背負いました。追い風が盛んに吹いて、これも船を助けます。そして御船の立てる波は、新羅の国に押し上がって国の半分にまで達しました。

そこで新羅の国王は恐れをなして申すにには「今後は天皇に従い、馬飼となり(日本には乗馬の風習はなかったが、古墳時代に朝鮮を経て、馬具などが取り入れられたことが、反映されているものと思われます)、貢物を献って従いましょう」ということになりました。

こういうわけで新羅国は馬飼となり、百済国は海の向こうの渡屯家(わたりのみやけ、外地にある朝廷の御料地)と定まりました。

そこで神功皇后は新羅の国王の家の門に杖を突き立て、これまで神託を下していた住吉三神を祭り、海を渡り帰ってゆきました。

さて神功皇后は、帰りの船で、身ごもっていた御子が生まれそうになります。そこで神功皇后は、お腹を鎮めようと石をとって腰につけ出産を抑え(何かのまじないのたぐいでしょうか)、筑紫に着いてから御子をお産みになります。



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神がかりとなり、神託を下す神功皇后は、典型的な巫女として描かれています。巫女(シャーマンの一形態)を中心とした宗教形態をシャーマニズムと呼びますが、古代日本のシャーマニズムは、北方大陸に広がるシャーマニズムに関係があるとされています。

これらの宗教形態から、第十五代応神天皇は、出生前から天皇になることを運命づけられています。

この節まだまだ続くのですが、早くも仲哀天皇は崩御し、実権は神功皇后に握られ、次代の天皇まで予言されます。





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18:30 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 12 第十三代 成務天皇 最後の直系継承
景行天皇(けいこうてんのう)の御子のうち、若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)が皇位を継ぎ、第十三代成務天皇(せいむてんのう)となります。

古事記には、成務天皇に和訶奴気王(わかぬけのみこ)という一神の御子についての記述がありますが、消息が明快ではありません。日本書紀には御子の存在ですら記述がありません。よって古事記に記載されている御子は、若くして亡くなったものと考えられます。

これまでの皇位は、直系によって継承されてきましたが、成務天皇の御子が皇位を継ぐことはなくなったため、第十二代天皇である景行天皇の御子、倭建命(ヤマトタケルノミコト)の御子である帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)が、第十四代仲哀天皇となります。直系継承は途絶えました。



成務天皇は、新たに大小の国々の国造(くにみやつこ、地方を治める官職)を定め、また、国々の境界、及び大小の県の県主(あがたぬし)を定めています。これはヤマトタケルノミコトによる地方の平定が進み、大和朝廷による支配領域が拡大したことを示しています。

また、これから活躍する建内宿禰(タケシウチノスクネ、成務朝から仁徳朝まで長寿を保ち、歴朝の大臣を務めた伝説上の人物)が大臣の位に就きました。

成務天皇についての記述は少なくこれだけです。





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18:29 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 11 第十二代 景行天皇(3)倭建命(ヤマトタケルノミコト)の最期
倭建命(ヤマトタケルノミコト)は東征を終えて、大和へ帰還の途中、足柄から信濃を超え、信濃の坂の神を説得し、尾張に入ります。

そこには東征に出発する途中に、結婚を約束していた美夜受比売(ミヤズヒメ)がいます。ヤマトタケルノミコトは、彼女の家に行き、その約束を果たします。

彼女は尾張の国造(くにみやつこ、地方を治める官職)の祖に当たる家系でした。なのでヤマトタケルノミコトには大御食(おおみけ、天皇の御膳)と大御酒盃(おおみさかずき、天皇に差し上げるお酒)が振る舞われます(ヤマトタケルノミコトの身分は形の上では天皇の代理なのです)。その時求め合う二人は歌など詠み交わして床を共にします。

そして伊吹(滋賀と岐阜の堺)の山に悪い神がいると聞いて、この神くらいは素手で倒してやろうと思い、草薙の剣をミヤズヒメのもとに置いて出掛けます。しかしこれがヤマトタケルノミコトの大きな災いとなります。



ヤマトタケルノミコトは山の麓で白い猪と遭遇します。その大きさは牛のようでした。そこで彼は言挙(ことあげ)して「この白い猪に化けているのは、これから倒しに行く神の使いであろう。今殺さずとも帰りに殺してやる」と言って山に登りました。”言挙”とは自らの意思を声に出して言い立てることで、タブーとされていました。

すると激しい雹が降ってきてヤマトタケルノミコトを打ちのめし気を失わせてしまいます。白い猪は神の使いなどではなく神自身だったのです(草薙の剣の霊力に守られていなかったため猪の正体を見破れずに命取りの事態を招きます)。雹は神の仕業でした。ヤマトタケルノミコトが言挙したのを聞いて馬鹿にされたとでも思ったのでしょう。



ヤマトタケルノミコトは、目が覚めて、やっとのことで山を下り、玉倉部(たまくらべ、不詳)というところまで来て休んでいると、徐々に正気を取り戻します。それからまた歩き出して美濃の当芸野(たぎの、岐阜県養老町)まで来た時に次のようにため息をもらしました。

「普段は空を飛んでゆきたいほどの軽やかな心でいたものを、今はどうしたことか足が前に進もうとしない。まるでびっこにでもなったように足がたぎたぎしい(腫れてむくんだ様)」そこでこの地を当芸野(たぎの)というのです。

更に歩いてゆくうちに、疲れは一層ひどくなり、杖を着いてのろのろと進みました。そこでその地を杖衝坂(つえつきざか、三重県四日市市)と言います。

そしてやっとのことで尾津前(おつのさき、三重県桑名市多度町)の一本松のところに着くと、かつてそこで食事をした時に、忘れていった御刀が無くならずまだありました。

それからさらに苦しい旅を続けて、三重の村(三重県四日市市釆女町(うねのちょう))に着いた時、またため息をついて、「私の足はこんなに腫れ上がった。三重にくびれた餅のようになってしまった」とつぶやきます。そこでこの地を三重と言います。

それからようやく能煩野(のぼの、三重県鈴鹿市と亀山市にまたがる土地)までたどり着きますが、そこでもう大和に帰り着けないのを悟リました。



そしてついにヤマトタケルノミコトは危篤になり、尾張で自分を待っているはずのミヤズヒメのことを思い起こして、最期に次のような歌を詠みます。


少女の床のそばに、
私の残してきた、
あの大事な太刀(草薙の剣)、
あの太刀よ。


この歌を読み終わるとヤマトタケルノミコトは息を引きとります。そこで都に早馬の使いが出されました。



大和にいた后や御子は知らせを受けると、皆ヤマトタケルノミコトの元へかけつけ、御墓を作り、田んぼの上で身をよじらせながら泣き、次の歌を詠みます。


周りを囲む田んぼの中の、
風に吹かれる稲の茎に、
しがみついて離れない、
芋づるのように。私達は。


するとヤマトトタケルノミコトの魂は亡骸から抜け出し、大きな白い千鳥の姿になってお墓の中から飛び立ち、海の方に向かって空を飛んでいきました。そこで、その后や御子たちは、笹の切り株で足を切りながらも痛さを忘れて泣きながらそれを追いました。この時に次の歌を詠みます。


丈の低い篠の原を行くと、
篠が腰にまとわりついて苦労する。
鳥のように空を飛んで行くこともできず、
足でトボトボ歩いて行くしかない。


また千鳥は海の方に飛んでいきましたから後を追う者達は海に足を踏み入れ難渋しながら水の中を歩いて行きました。その時に次の歌を詠みました。


海の中に入って行くと、
海水が腰にまつわって苦労する。
広い河の水面に生えている草が漂うように、
海の中では漂って足を取られて進みにくい。


また千鳥が飛んで磯に止まった時に、次の歌を詠みました。


浜の千鳥は歩きやすい浜を飛んでいかず、
歩きにくい磯伝いを飛んでいく。


この最後に記した四首の歌は、どれもヤマトタケルノミコトの御葬で歌われた歌です。今でも天皇の御葬の際には、これらの歌が歌われます(昭和天皇の大葬でも歌われたようです)。

そして千鳥はその国から飛んで行き、河内国の志幾(大阪府柏原市周辺)に留まりました。そこでその地に御陵を作って鎮座いただきました。名づけて白鳥御陵といいます。しかし千鳥はさらに天に翔けて行きました。



更に古事記ではヤマトタケルノミコトの御子について記しています。御子は六神です。その中で帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)が第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)となります。



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ここ三節は景行天皇のものなのですが、天皇の事績についてはあまり語られません。(また、景行天皇の事績は記紀でだいぶ異なるようです。)もっとも、多く語られるヤマトタケルノミコトの扱いが、天皇に準じるものとして扱われているので、それはそれでいいのかもしれません。

ミヤズヒメにヤマトタケルノミコトは、大御食(おおみけ、天皇の御膳)や大御酒盃(おおみさかずき、天皇に差し上げるお酒)が振る舞われています。またヤマトタケルノミコトは、亡くなるときにも天皇のように”崩る”(かむあがる)と表記もされています。

そう、ここ三節は、天皇の御子であるヤマトタケルノミコトの、父に厭われた悲しい一生が描かれます。



そのヤマトタケルノミコトですが、須佐之男命(スサノオノミコト、[上の巻]の重要な神様)と多くの共通点があります。純粋で無邪気でありながら有り余る力を持ち、時には知恵を働かせるその姿は、それぞれ英雄のそれです。

また彼らの周りでは女性が活躍します。彼らは彼女らの助けを借りて、難局を乗り越えてゆきます。しかし異端であるがゆえに、統治者になれないところも共通です。



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18:31 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 10 第十二代 景行天皇(2)倭建命(ヤマトタケルノミコト)の東征
ヤマトタケルノミコトは西征を終えましたが、父である景行天皇は間を置かず、東方十二道(ひむかしのかたとおあまりふたみち、東海地方を中心とした諸国)の荒ぶる神、及び従わない者どもを説得して平定せよと命じました。

前節を読んでくださった方はご存知の通り、景行天皇によるヤマトタケルノミコトの、ていの良い二度目の追放です。

さすがにヤマトタケルノミコトも、天皇の意向を不審に思い、出かける前に伊勢神宮にお参りして、そこにいる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に次のように尋ねます。

「天皇は本当は私が死んだほうが良いと思っているのではないでしょうか。私が西方の悪人を打倒し、帰ってきてすぐさま、天皇は、なに故、今度は東方の悪人を平定するために、軍勢も与えられないまま私を遣わすのでしょう。」

出発の際ヤマトタケルノミコトが、このように悲しみに暮れていると、ヤマトヒメノミコトはヤマトタケルノミコトに、草薙の剣(三種の神器の一つ、[上の巻] 09 八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)[上の巻] 17 天孫降臨を参照)と、とある袋を授けて「もし困ったことがあればこの袋を開けなさい」とおっしゃいました。こうしてヤマトタケルノミコトは、今度は東に出掛けてゆきます。



尾張国に着いたヤマトタケルノミコトは、尾張国造(オワリノクニノミヤツコ、国造とは地方を治める官職)の祖である美夜受比売(ミヤズヒメ)の家に泊まり、彼女に結婚を申し込んでいます。

しかし婚約に留め、結婚はこの仕事を終えてからにしようと東国に発ちました。そして山河の荒ぶる神、そして従わぬ者たちを、ことごとく説得して平定してしまいます。



そして相模国に至った時、その地の国造がヤマトタケルを陥れようと「この野の中には大沼があり、この沼の中にはとても霊力のある神が住んでいる」というので、ヤマトタケルノミコトは、それを確かめるべく、その野の中へ入ってゆきました。そこを、その国造は周りから野に火を放ったのです。

ヤマトタケルノミコトは欺かれたのを知ると、すかさず叔母のヤマトヒメノミコトにもらった袋のことを思い出して、その袋を開けます。袋の中には火打ち石が入っていました。

そこでまず草薙の剣で身辺の草を刈り取って火を遠ざけ、さらに刈った草に火打ち石で火をつけると周囲の炎に向かって燃え広がり、不思議なことに、あたりの火を鎮火させるのでした。

そして難を逃れたヤマトタケルノミコトは、悪い国造を切り捨てて、火を放って焼いてしまいました。故にそこを焼津と言います。(相模国のことではなく駿河国のことか?)



ヤマトタケルノミコトはそこからさらに東に進み走水海(はしりみずのうみ、浦賀水道)を渡ろうとしますが、その海峡の神が波を起こし船を翻弄してぐるぐる廻したため渡ることができません。

するとヤマトタケルノミコトの后である弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)が、彼にお別れの言葉を残して身代わりになります。彼女は海に不思議な敷物を敷くとその上に身を置きます。すると荒波は鎮まり、船を進めることができるようになりました。しかし彼女は、波の間へと沈んでゆきました。

一週間の後、オトタチバナヒメノミコトの櫛が海辺で見つかります。ヤマトタケルノミコトは、その櫛を取り、御墓を作り納めます。



ヤマトタケルノミコトは、更に進んで、ことごとく荒ぶる神を平定し、大和に帰る途中、足柄(神奈川県足柄山)の坂の神が白い鹿の姿をして現れまが、これも打倒しました。

坂を登って頂きから遠く海を眺めると、自分の身代わりになって亡くなった、后のオトタチバナヒメノミコトのことが思い出されます。「あずまはや(我妻よ)」と嘆きました。よってそこを東と呼ぶようになります。

ヤマトタケルノミコトは、甲斐国に出て、一夜を過ごしていた時に、帰途についてからどれくらい経つのだろうと歌を歌います。すると、火の番をしていた老人がいて、その歌に継いで九夜十日になりますと歌いました。ヤマトタケルノミコトは、その老人をほめて、東国造に任命してやりました。



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ヤマトタケルノミコトが敵を倒す際、その腕力だけではなく、知恵も発揮しています。同じように須佐之男命(スサノオノミコト、[上の巻]の重要な神様)にもこのような場面は多々あリました。ところがスサノオノミコトのその知恵は、鼻につく悪知恵と映ってしまう方が多かったのではないでしょうか。

この違いは主人公が背負っている背景の微妙な差にあるのだと思います。ヤマトタケルノミコトの背負っている背景は悲劇は悲劇でも、かなりやるせないものであり、なんだか同情せざるを得ないのです。

この節で彼自身も、その運命に気づいてしまいます。景行天皇は、ヤマトタケルノミコトが強ければ強いほど、彼を恐れ遠ざけるのです。

また彼のそばにいる女性たちの活躍には目を見張るものがあります。叔母のヤマトヒメノミコトにしろ、后のオトタチバナヒメノミコトにしろ読者の胸を打ちます。





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18:29 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 09 第十二代 景行天皇(1)倭建命(ヤマトタケルノミコト)の西征
垂仁天皇の御子のうち、大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケノミコト)が皇位を継ぎます。第十二代景行天皇(けいこうてんのう)です。

景行天皇は、たくさんの妻を持ち八十人の御子を授かりました。これらの御子のうち、若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)と、小碓命(オウスノミコト)と、五百木之入日子命(イオキノイリヒコノミコト)の三王は、皇位を継承する資格を持つ太子(ひつぎのみこ)となります。

そしてワカタラシヒコノミコトが第十三代成務天皇(せいむてんのう)となります。またオウスノミコトは東西の荒ぶる神を平定し、後に倭建命(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれるようになります。



景行天皇は、美濃国に兄比売(エヒメ)と弟比売(オトヒメ)という大変美しい姉妹がいるとお聞きになって、御子の一人である大碓命(オオウスノミコト)を遣わして二人を連れてくるよう命じます。

しかし遣わされた大碓命はその美しい姉妹を自分の妻にしてしまいます。そしてその代わりに別の二人の女性をエヒメとオトヒメと偽り天皇に献上します。

ところが天皇はそのことに気づいていました。天皇はその二人を放置し共寝することもしませんでした。



大碓命は、朝夕に行われる宮中での行事にも参加しませんでした。そこで景行天皇は、弟のオウスノミコトに兄を教え諭すよう命じました。ところがそれから五日経っても、大碓命は行事に参加してきませんでした。

そこで景行天皇はオウスノミコトにそのことを尋ねると、すでに言い聞かせましたというではないですか。

景行天皇はどのように言い聞かせたのかと尋ねると、オウスノミコトは、明け方に大碓命が厠に入ったのを待ち構えて、掴み潰して手足を引き裂き、袋に包んで投げ捨てたというのです。つまり殺してしまったというのです。



それを聞いた景行天皇はオウスノミコトの猛々しく荒い性格を恐れて、彼を遠ざけるための口実として、西の彼方(九州南部)にいる熊曾建(クマソタケル、熊曾とは西の辺境の地のことで、タケルは勇猛な人を意味します)という二人の兄弟がいるから彼らを朝廷に逆らうものとして討てと命じました。ていの良い追放です。

何も知らない、まだ髪を額の上で結う少年のオウスノミコトは、垂仁天皇の御子であり叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から衣装を用意してもらい剣を懐に収めて勇んで旅立ちます。



大変長い道のりを苦労してオウスノミコトはクマソタケルの家らしきものの前に着きます。そして様子をうかがっていると、周囲には兵士が三重に守りを固めています。

そしてその中に頑丈な家が建てられているのが見えます。ちょうどその時人々は、新築の宴を催そうと、食べ物の準備などさわがしく動き回っているところでした。



そしてついに宴のその日オウスノミコトは、叔母のヤマトヒメノミコトに借りた女物の服をまとい、すっかり童女の姿に変装して、女性たちの間に混ざって、その新築の家の中にまんまと入り込んだのです。

クマソタケルの兄弟は、童女に変装したオウスノミコトをたいそう気に入り、二人の間に座らせ宴を楽しみました。

そして宴もたけなわになった頃オウスノミコトは、懐から剣を取り出し、兄のクマソタケルの着物の襟を掴んで剣を胸に突き刺しました。

弟のクマソタケルはそれを見て驚き、恐ろしくなって逃げ出します。オウスノミコトはすぐに追いかけて階段の下で背中を掴み、弟のクマソタケルを尻から剣で突き刺します。

弟は、申し上げたいことがあるから、しばらくご猶予くださいと嘆願します。そこでオウスノミコトはとどめを刺すのを待ちました。

そして弟のクマソタケルはオウスノミコトの身分や目的を聞き、その行動に我々兄弟より猛々しい方がいたとすっかり肝念して、オウスノミコトに御名を差し上げたいと言い出しました。「これからはヤマトタケルノミコトと称えましょう」と。

弟のクマソタケルがそう言い終わると、オウスノミコトはすかさず弟のクマソタケルを熟したうりを引き裂くようにずたずたに切り刻んで殺してしまいました。この時からオウスノミコトはヤマトタケルノミコトと呼ばれます。

こうしてヤマトタケルノミコトは、山の神、河の神、また海峡の神を皆説得し平定しながらもと来た大和の地に向かいます。



さて倭建命(ヤマトタケルノミコト)は、熊曾征伐を終えた後、大和に帰る途中、出雲建(イズモタケル)も征伐しようと思い、まずは偽って友好関係を結びました。

ヤマトタケルノミコトは密かに樫の木で偽の太刀を作り、それを腰につけて、イズモタケルとともに、非伊川(ひいがわ)に沐浴しに出掛けます。

ヤマトタケルノミコトは先に川から上がると、イズモタケルに太刀の交換を提案します。ヤマトタケルノミコトはイズモタケルが外した太刀を取りました。

イズモタケルは川から上がると、ヤマトタケルノミコトの偽の太刀を取りました。するとヤマトタケルノミコトは、太刀合わせをしようと言いました。

それぞれが太刀を抜こうとするのですが、偽の太刀のイズモタケルの太刀は飾りこそ立派ですが抜けません。すかさずヤマトタケルノミコトはイズモタケルを打ち殺してしまいました。

こうしてヤマトタケルノミコトはことごとく西方を平定し都に帰り景行天皇に復命します。



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熊曾とは九州南部の朝廷に従わない種族でしたが、実際は長い時を経て平定されたとしています。この物語はそれらをヤマトタケルノミコト一人に託したひとつの英雄譚と考えるのが一般的です。また、ヤマトタケルノミコトのその実在性も疑われています。

ヤマトタケルノミコトことオウスノミコトが、たとえ悪徳の皇子であったとはいえ、兄を殺してしまう場面は衝撃的です。景行天皇が驚愕したのは当然です。それゆえに、オウスノミコトは親の景行天皇に追放されてしまうのですが、本人はそのことにまだ気づいていません。

またクマソタケルの討伐でもオウスノミコトの粗暴性と剛勇ぶりはいきいきと描かれます。こうした場面の、ある意味痛快な表現は優れた文学性を発揮しているともいえます。オウスノミコトは、やがてヤマトタケルノミコトと呼ばれるようになりますが、彼の悲しい物語の始まりです。

ヤマトタケルノミコトの叔母のヤマトヒメノミコトは、伊勢神宮の斎宮として伝えられており、彼女によって用意されたヤマトタケルノミコトの装束や剣による討伐は、宗教的呪力を帯びたものと考えることもできます。





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18:25 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 08 第十一代 垂仁天皇(2)皇后・沙本毘売命の子、本牟智和気御子
皇后である母親の沙本毘売命(サホビメノミコト)は自害してしまいましたが、その御子である本牟智和気御子(ホムチワケノミコ)は、父親の垂仁天皇のもとで育てられます。

垂仁天皇は ホムチワケノミコを大変可愛がり大切に育てますが、あごひげが胸元に届く歳になっても言葉を発しませんでした。



ある時、空高く飛んでいく白鳥の声にホムチワケノミコが口をパクパクさせてものを言うしぐさをしめしたので、垂仁天皇は山辺大鶙(ヤマベノオオタカ)に、その鳥を捕らえてくるように言いつけます。

彼はあちらこちらを散策し、見つけると追い込んで網を張り、ついにはその鳥を捕まえて垂仁天皇に献上しました。ところが期待にそぐわず、ホムチワケノミコはものを言うことはありませんでした。



こうして垂仁天皇が悩んでいたとき、夢にとある神が現れてお告げがありました。「私を祀っているお社(おやしろ)を、天皇の宮殿のように立派に作りなおすなら、きっと御子も言葉が話せるようになるであろう」と。

そこで垂仁天皇は、このとある神がどなたなのかを占いを立てて調べると、出雲の大神(大国主神)であり、この神のたたりで、ホムチワケノミコは、言葉が話せないでいることがわかりました。



早速ホムチワケノミコを、出雲のお社へ差し向けることになりましたが、誰を従者につければいいのかを占ってみると、曙立王(アケタツノミコ)が良いとわかります。

そこでアケタツノミコに誓約(うけい)をさせてみます。誓約とは予め決めておいた結果が出るかどうかによって事の真偽を占うことです。

アケタツノミコが「この大神(大国主神)を拝むことによって良いことが起こるなら、この鷺巣池(さぎすのいけ)の木にいるサギよ誓約によって落ちよ」というと池の周りの木に住んでいたサギはバタバタと地面に落ちて死にました。

また「誓約によって生きよ」というと再び生き返ります。それだけでなくアケタツノミコは樫の木を枯らしたり生かしたりもします。こうして占いのお告げは嘘ではないことがわかります。



そこでアケタツノミコと兎上王(ウナカミノミコ)をホムチワケノミコにお供につけて出雲に向かわせることとなりました。

旅路を占ってみると「奈良山や二上山を越えて行けば躄(いざり、足のたたない人)や盲(めしい)(昔は不吉の印とされていた)に合うだろうが、紀伊の国へ通じる真土山(まつちやま)を超える道は遠回りでも幸先の良い道だ」ということだったのでその道を通ることとします。

こうして一行は出雲国につき、出雲の大神を拝んでから、また都へ戻る途中、斐伊川の流れに皮付きの丸太をすだれのように組んだ渡し橋を作り、仮の御殿を立ててホムチワケノミコを泊めました。

その時、出雲の国造(くにみやつこ、朝廷によって任じられた地方官の一つ)の祖である岐比佐都美(キヒサツミ)という者が、川の下流に青葉の茂った木々を使い、作り物の山を巧みにこしらえました。

その景色がよく見える部屋の中でホムチワケノミコが食事を取る段に、御子は次のように初めて口を開きます。

「川下を見ると清々しい若葉が、まるで山のようだが、あれは本当の山ではないであろう。ひょっとしたら出雲大社においでになる大国主神をお祭りする神主たちの祭壇なのかもしれない」

ついにホムチワケノミコが言葉を発せられたのです。お供の二人は大喜びし、早速、檳榔(びろう)の葉で屋根を葺いた宮殿を立て、御子をそこにお留めして、早馬を使い垂仁天皇に報告しました。



ようやく言葉を話したホムチワケノミコは、一晩、肥長比売(ヒナガヒメ)と交わります。ところがそっと覗いてみると、彼女はなんと蛇だったのです。ホムチワケノミコは驚いて船に乗って逃げます。

ヒナガヒメは悲しみ、海の上を青く光らせながら別の船で追っていきます。ホムチワケノミコは増々恐れをなし、船を陸地につけると逃げ去りました。

こういうこともありましたが一行は無事旅を終えて都に戻り、従者の二人は改めて垂仁天皇に報告します。垂仁天皇は喜んでウナカミノミコを再び出雲国に使いに出して、お社を建てなおさせました。



また垂仁天皇は、かつて皇后であったサホビメノミコトが亡くなるときに残した言葉の通り、丹波比古多多須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシノミコ)の娘たちである、比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)、弟比売命(オトヒメノミコト)、歌凝比売命(ウタコリヒメノミコト)、円野比売命(マトノヒメノミコト)を妻とします。

しかしウタコリヒメノミコトと、マトノヒメノミコトは醜かったので生まれ故郷に返してしまいました。マトノヒメノミコトはそれを恥じて自死しました。


また垂仁天皇は多遅摩毛理(タジマモリ)という者を常世国(海の彼方にある不老不死の国)に遣わして「非時香木実(ときじくのかくのきのみ)」という不老不死になると言われている木の実を求めます。

しかしタジマモリが帰る前に垂仁天皇は崩御してしまいます。タジマモリは、木の実の半分を大妃であるヒバスヒメノミコトに献上し、残りを垂仁天皇の墓に供えて泣き叫ぶと死んでしまいます。この木の実は今でいう橘のことです。



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ホムチワケノミコは、垂仁天皇の後継からは外され、天皇に即位することはありませんでした。

それは母親のサホビメノミコトが皇后にもかかわらず、反逆者である自分の兄に加担をし、自死したことが要因になっているのでしょう。それでも垂仁天皇は、愛していたサホビメノミコトとの間に生まれたホムチワケノミコを、大切に育てたようです。

[上の巻]で活躍した大国主神が久しぶりに祟り神として登場します。重要な神様ですが、どんな神様だったか半分忘れてしまいました。[上の巻] 10 須佐之男命の系譜から[上の巻] 16 国譲りあたりを読みなおしています。





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18:30 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 07 第十一代 垂仁天皇(1)皇后・沙本毘売命の苦悩
伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリビコイサチノミコト)が天皇に即位します。第十一代垂仁天皇(すいじんてんのう)です。垂仁天皇は二人の后と五人の妃との間に十二神の王と三人の女王を儲けました。そのうち大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケノミコト)が第十二代景行天皇となります。



垂仁天皇は沙本毘売命(サホビメノミコト)を皇后としました。ところでサホビメノミコトの兄の沙本毘古王(サホビコノミコ)(兄妹は、第九代開化天皇の子、日子坐王(ヒコイマスノミコ)の子)は妹のサホビメノミコトに「夫と兄のどちらが愛しいか」と問います。

妹のサホビメノミコトは気後れし思わず「兄を愛しく思います」と答えるのですが、そこから悲劇が生まれます。兄のサホビコノミコははかりごとをねって、ならば二人で天下を治めようと妹のサホビメノミコトに鋭利な小刀を渡し、垂仁天皇の寝首を掻くよう命じました。



そんなことなど露知らない垂仁天皇は、皇后のサホビメノミコトの膝枕で休んでいます。そんなところを、サホビメノミコトは、三度小刀を振り上げて垂仁天皇の首を刺そうと試みました。しかしサホビメノミコトは悲しい心を抑えきれず涙が溢れ、その涙は垂仁天皇の顔に落ちました。

すると垂仁天皇は驚いて目を覚まし、皇后のサホビメノミコトに不思議な夢を見たと告げます。「沙本(奈良県佐保台あたり、サホビコノミコの居所)の方から大雨が近づいてきて急に私の顔を濡らした。また錦色の小さな蛇が私の首に巻きついた。これは何の兆しであろう」

それを聞いたサホビメノミコトは、隠すことはできないと思い、垂仁天皇にこれまでの経緯をありのままに告白しました。垂仁天皇は早速サホビコノミコの討伐の軍を起こします。サホビコノミコも戦いに備え稲城(稲を積んで作った城)を作って待ち構えていました。



ところが妹のサホビメノミコトは兄を哀れんで垂仁天皇のもとを離れ、兄のサホビコノミコのもとに向かいます。この時サホビメノミコトは垂仁天皇の子をみごもっていました。

垂仁天皇もサホビメノミコトを忍びなく思いすぐに攻め入ることはしませんでした。そうこうしているうちにサホビメノミコトは子を産みます。彼女はこの子を稲城の外において使者を立て「もし天皇の子と思し召されるなら引き取ってください」というのでした。



垂仁天皇は皇后の兄のサホビコノミコを恨んではいたものの、皇后のサホビメノミコトを愛おしく思う気持ちは変わらなかったので、兵の中から屈強なものを選んで、御子を取るとき母親のサホビメノミコトも奪ってくるよう、髪であれ手であれ服であれ掴んで引き出してくるよう命じます。

しかし、これを察知したサホビメノミコトは、そうはさせじと髪を剃り、剃った髪で頭を覆い、玉飾りを腐らせて手に三重に巻きつけ、衣服は酒で腐らせそれをまといました。

そのおかげで兵は子を引き取ることはできましたが、母親のサホビメノミコトを捕まえようにも、髪をつかめばそれはずり落ち、手をつかめば玉の緒は切れ、服をつかめばそれは破れ、ついには母親を得ることはできませんでした。



垂仁天皇は悔やみ、尚も未練を残しつつ、皇后のサホビメノミコトに聞きます。「子の名は母親がつけるものだが名をつけて欲しい」

するとサホビメノミコトは、稲城を焼くときに火の中で生まれた子だから、本牟智和気御子(ホムチワケノミコ)とするのが良いでしょうと答えました(ホは火のことを指します)。

続けて垂仁天皇は、いかに育てたらよいかとサホビメノミコトに尋ねると、彼女は子に乳を与える乳母と、子に湯を浴びさせる湯坐(ゆえ、入浴させる婦人)を定めて養育すべきでしょうと答えました。

また垂仁天皇はお前が結んだ下紐は誰が解いたら良いのかと尋ねると(当時、夫婦がお互いに下紐を結び合う習慣がありました)サホビメノミコトは、丹波比古多多須美知能宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシノミコ)の娘で、忠誠心の厚い兄比売(エヒメ)と弟比売(オトヒメ)を使えば良いと答えました。

そしてついに垂仁天皇は、謀反をおこしたサホビコノミコを殺してしまいます。すると皇后である妹のサホビメノミコトも自害してしまいました。



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サホビコノミコとサホビメノミコトの物語は『古事記』の説話の中でも、叙情性の豊かな文学作品として広く知れ渡っています。

サホビメノミコトが、夫である垂仁天皇と、兄であるサホビコノミコとの間で板挟みとなり、苦悩する心情や、サホビコノミコの反逆にもかかわらずサホビメノミコトを愛しく思う垂仁天皇の心情が複雑に絡み合い、人間的な苦悩が描かれます。





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18:43 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 06 第十代 崇神天皇 「初国知らしし御真木天皇」
第九代開化天皇(カイカテンノウ)崩御後、第三皇子であった御真木入日子印恵命(ミマキイリビコイニエノミコト)が即位します。第十代崇神天皇(スジンテンノウ)です。

崇神天皇は三人の皇后との間に十二神の皇子女をもうけました。そのうちの豊鉏比売命(トヨスキヒメノミコト)は伊勢神宮を祭りました。(これは未婚の内親王が伊勢神宮に奉仕する「斎宮」の起源を語ったものと思われます)そして伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリビコイサチノミコト)が皇位を継いで第十一代垂仁天皇(スイニンテンノウ)となります。


さて崇神天皇の御世には疫病が流行り、人民は死んで尽きそうになります。崇神天皇は悲しんで神牀(かむとこ)という、夢に神意を得るための、特別に清められた寝床で眠り、夢を見ます。夢には大物主神(オオモノヌシノカミ)が現れ次のように話しました。「これは我が御心である。意富多多泥古(オオタタネコ)に我が御魂を祭らせなさい。そうすれば神の祟も起こらず国は安らかに治まるだろう」と。

早速、崇神天皇は、早馬を四方に遣わせ オオタタネコなる人物を探させ、河内の美努村(大阪府八尾市上之島町付近)にその人を見つけます。

そして崇神天皇は彼に素性を聞くと、建御雷神(タケミカヅチノカミ、[上の巻] 03 神生み[上の巻] 16 国譲りを参照)を父に持つ、大物主大神([上の巻] 15 葦原中国の完成−我々の八百万的なものの中での共生の起源を思う[中の巻] 03 天つ神と国つ神の統合を意味する神武天皇の大后探しを参照)の末裔だといいました。

そして彼を祭主としてオオモノヌシノカミを三輪山に祭ります。すると疫病はすっかり止み国は安らかに治まりました。



さて、ここで、オオタタネコが神の子孫であることを語るために、大物主神の三輪山伝説が記されます。

三輪山伝説とは、蛇神である大物主(おおものぬし)による、活玉依比売(イクタマヨリビメ)の懐胎の伝承です。興味のある方は、ネットででも調べてみてください。たいへん有名な伝説で日本の民話にも、それをモチーフとしたものがあります。



また崇神天皇の御世には、地方の統治も行われます。第八代孝元天皇の御子である大毘古命(オオビコノミコト)を越国(北陸)に、 オオビコノミコトの子である建沼河別命(タケヌナカワワケノミコト)を、東方の十二国(東海地方中心とした諸国)に遣わして、従わない人々を服従させます。

また崇神天皇の兄弟である日子坐王(ヒコイマスノミコ)を丹波国に遣わして、玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺しました。

ところで オオビコノミコト越国へ向かう途中山城(京都府南部)で不思議な少女に出会います。彼女は奇妙な歌を歌います。オオビコノミコトは馬を返し、少女に歌の意味を聞きますが少女はただ歌っただけと言い残し消えてしまいます。

オオビコノミコトは、それを奇妙に思い、すぐに都に戻り崇神天皇に報告すると天皇は山城国に住むオオビコノミコトの腹違いの兄、建波邇安王(タケハニヤスノミコ)が邪心を起こしたしるしではないかと察して、オオビコノミコトに日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を従わせて遣わします。

案の定、タケハニヤスノミコは待ち構えていましたが、これを二人は平定し、続けて当初の命令通り、オオビコノミコトは越国も平定します。これにより天下は治まり人々は富み栄えました。



そしてここに、初めて徴税の制度が始まります。それ故に、この御世をたたえて「初国知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)」と称しました。また、この御世には灌漑用の溜池も作られます。



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オオモノヌシノカミが登場するのは、これで三回目です。一回目は[上の巻] 15 葦原中国の完成−我々の八百万的なものの中での共生の起源を思うの記事に書いた大国主神の国造りの協力者としての登場場面で、次に[中の巻] 03 天つ神と国つ神の統合を意味する神武天皇の大后探しの記事で書いた、神武天皇の大后の出自がオオモノヌシノカミに行き着く場面で、そして今回は祟り神としての登場です。

そして自分の末裔に当たるオオタタネコを祭主として三輪山に自分を祀ることを崇神天皇に求めています。これにより三輪山祭祀の形が確立したと考えられています。



そして崇神天皇の代にしてようやく大和国家による地方の統一がなされ様々な統一国家としての仕組みが始められたようにこの節はつづられています。

原文にも「初国知らしし御真木天皇」とありますが、これは素直に受け取ると崇神天皇を第一代天皇と捉えて考えることができます。

これが考えが正しいとするならば、古事記での神武天皇から欠史八代の天皇は、神代と人代をひと続きの物語とするための、後から作られた伝説と考えることもできるのです。





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18:25 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 05 欠史八代
天皇の家系は代々子に受け継がれてゆきます。これより原文では、綏靖天皇から開化天皇までの八代を、単に系図をたどるような記述が延々続くことになります。物語としては面白みにかけるといえばそういうことになるのでしょう。なのでわたしも御名だけを箇条書きでメモを残すに留めたいと思います。ここを飛ばしたとしても後の物語は理解できるはずです。

■ 第二代 綏靖天皇(すいぜいてんのう)
 神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)

■ 第三代 安寧天皇(あんねいてんのう)
 師木津日子玉手見命(シキツヒコタマテミノミコト)

■ 第四代 懿徳天皇(いとくてんのう)
 大倭日子鉏友命(オオヤマトヒコスキトモノミコト)

■ 第五代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)
 御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカエシネノミコト)

■ 第六代 孝安天皇(こうあんてんのう)
 大倭帯日子国押人命(オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)

■ 第七代 孝霊天皇(こうれいてんのう)
 大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)

■ 第八代 孝元天皇(こうげんてんのう)
 大倭根子日子国玖琉命(オオヤマトネコヒコクニクルノミコト)

■ 第九代 開化天皇(かいかてんのう)
 若倭根子日子大毘毘命(ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト)



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古事記では、第二代の綏靖天皇から、第九代の開化天皇までの八代の天皇について、系譜の他には何も物語られません。そのため「欠史八代」と呼ばれることもあります。

また、記事には書きませんでしたが、多くの豪族の祖が記されています。それは皆、天皇一族から派生して出た家系で、天皇中心で世の中が作られたことを示しています。

例えば、間もなく当時の政治に深く関わり、政権を掌握することになる蘇我氏は、その祖を第八代の孝元天皇の家系に求めることができます。





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18:43 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 04 神武天皇崩御後の後継争い
神武天皇が崩御しました。すると彼が日向にいた時に生まれた長男である多芸志美美命(タギシミミノミコト)が神武天皇の大后であった伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を妻にして王位を継承しようとします(義理とはいえ母親との結婚です。しかし当時は、先帝の后を妻にすることは、王位継承者であることを示す意味がありました)。

そしてタギシミミノミコトはイスケヨリヒメの実子つまり義理の弟を暗殺しようと企みます。しかし、それを知ったイスケヨリヒメは実子らにその陰謀を知らせるために歌を詠みます。

すると彼女の実子らは義理の兄の陰謀に感づいて、逆に義理の兄の抹殺を企みました。三人の実子の末の子で神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)が、すぐ上の兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)にその任を委ねました。

ところがその兄は、いざ実行しようとする段になると、手が震えてしまう有様です。そんなわけなので弟のカムヌナカワミミノミコトが、兄の武器をとってタギシミミノミコトを殺しました。

そんなわけで皇位は当初兄のカムヤイミミノミコトが継ぐ予定でしたが、兄はそれを弟に譲り、自分は弟の影となり祭りごとを行う者として仕えました。これによって、カムヌナカワミミノミコトが天皇に即位し天下を治めます。第二代天皇、綏靖天皇(すいぜいてんのう)です。



最後には、神武天皇の皇位継承権を持つ、イスケヨリヒメの実子で、皇位を継がなかった長子であるヒコヤイノミコトと、次のカムヤイミミノミコトを祖とする氏族の名が列挙されるのですが割愛します。

ですが神武天皇の皇子の後継ということで、大和朝廷とは緊密な関係を有する氏族たちです。



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神武天皇にしても綏靖天皇にしても実在したかは明らかにされていません。私としては、どちらかというと神話を歴史とは捉えず、物語として読んでいるので、どちらでも構わないのですが、興味のある方にとっては尽きない謎であり、その先に学究の試みがなされるのでしょう。

物語的には、カムヌナカワミミノミコトである綏靖天皇は末子です。よってこのお話は世界に広く分布する末子成功説話の一つと考えることができます。カムヤマトイワレビコノミコトである神武天皇にしても四神の末子でした。





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18:17 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 03 天つ神と国つ神の統合を意味する神武天皇の大后探し
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト、神武天皇)は、即位前に、九州、日向の地において、すでに結婚していて、御子がありました。多芸志美美命(タギシミミノミコト)と岐須美美命(キスミミノミコト)です。

しかし即位後、さらに大后とすべき少女を求めます。そして目にとまったのは、御諸山の上に座す大物主神(オオモノヌシノカミ、[上の巻] 15 葦原中国の完成−我々の八百万的なものの中での共生の起源を思うを参照、大和の氏神)がその美しさを愛でて娶った勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)との間に生まれた子である伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)でした。



その結婚に至るいきさつが、従者である大久米命(オオクメノミコ)を交えた歌物語によって進められるのですが、物語の筋を簡潔に追うには、ある意味冗長となってしまうので、ここでは割愛します。

歌について少し述べるなら、個人的に好きな小鳥(ツバメ、セキレイ、ホオジロ)を題材として、オオクメノミコの目尻の入れ墨の比喩に用いられている歌があり、興味を引きました



そしてイスケヨリヒメ との間に生まれた御子の名は日子八井命(ヒコヤイノミコト)、次に神八井耳命(カムヤイミミノミコト)、次に神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト、後の第二代天皇である綏靖天皇(すいぜいてんのう))の三神です。



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この節は、カムヤマトイワレビコノミコトとイスケヨリヒメの避けては通れない結婚の正当性を示すためのパートです。

この結婚はカムヤマトイワレビコノミコトが大和の氏神の娘であるイスケヨリヒメを娶ることで、天つ神と国つ神の統合を象徴していて、この地上世界の国の統治者に、よリふさわしい天皇としての血統が整えられたと考えることができます。

これまでも、統治者の血統について述べる節が、[上の巻] 19 海幸山幸などでもありました。





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18:27 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 02 続・神倭伊波礼毘古命の東征、八咫烏(やたがらす)の導き
建御雷神(タケミカヅチノカミ、[上の巻] 03 神生み[上の巻] 16 国譲りを参照)の霊剣を高倉下(たかくらじ)が受け取り、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト、神武天皇)に献上されたことにより、カムヤマトイワレビコノミコトは、難を乗り越えることができました。

すると高天原の高御産巣日神(タカミムスヒノカミ、{[上の巻] 01 天地のはじめを参照)はカムヤマトイワレビコノミコトに命令します。「ここより奥には荒ぶる神がとてもたくさんいるから、今から天より使わす八咫烏(やたがらす)の導きに従って進みなさい」と。

カムヤマトイワレビコノミコトはその教えの通り進むと、吉野で様々な国つ神に出会いますが、彼らは皆カムヤマトイワレヒコノミコトに服従し、難なく通り抜けることが出来ました。そして宇陀(うだ、吉野から奈良盆地に至る途中、奈良県宇陀市)に向かいます。



宇陀では兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)が待ち受けていました。兄宇迦斯は一行の導き手である八咫烏を、矢で射て追い返してしまいます。

二人の兄弟はカムヤマトイワレビコノミコトを迎え撃つつもりでしたが、味方につくものが少なく、十分な兵が集まらなかったので、兄はカムヤマトイワレビコノミコトを陥れる罠を仕掛けます。

ところが弟は怖気づいて兄を裏切り、そのことを事前にカムヤマトイワレビコノミコトに知らせます。そのため兄は自ら作った罠に自身でかかることとなり死んでしまいます。



さらにカムヤマトイワレビコノミコトは進むと、八十健(やそたける、多くの勇猛な者の意)が待ち受けています。しかしこれもはかりごとをめぐらして打ち倒してしまいます。

そしてカムヤマトイワレビコノミコトは、兄の五瀬命(イツノセノミコト)のかたきである、憎い登美毘古(とみびこ)に戦いを挑む決心をします。登美毘古はかつてのイツノセノミコトの望み通り、今では日を背にして戦える位置にカムヤマトイワレビコノミコトはいます。

しかしこの戦は、すでに登美毘古を配下に治めていた(なぜかは諸説あり)邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)という神が、カムヤマトイワレビコノミコトのもとに現れて、天つ神の子孫である証をした後、仕える意を示したため、戦わずして決着がついてしまいました。



こうして荒ぶる神々を説得して平定し従わないものは追い払って、カムヤマトイワレビコノミコトは大和の橿原(かしはら)という場所に宮殿をつくって天下を治めることになりました。

これにより、カムヤマトイワレビコノミコトの長い東征は終わり、初代天皇に即位し、後に神武天皇と呼ばれることになります。



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この節では、歌が多用されているのですが、お話をシンプルにするために、やむを得ず割愛しました。

大和平定と神武天皇の即位は、我が国の建国を意味します。現在二月十一日を『建国記念日』としていますが、これは『日本書紀』にそのような記述があるためです。

そして橿原宮は最初の皇居であり、我が国最初の都でもあります。古事記はこれ以降、天皇の統治がどのように行われてきたかが語られます。

『古事記』からは神武天皇即位の具体的な年代を特定することはできませんが『日本書紀』の記述によれば紀元前六百六十年ということです。

しかし考古学的には反論があり、三輪山周辺に前方後円墳が作られた三世紀初頭が大和王朝の成立の根拠となっています。



また、八咫烏は、ウィキペディアには神武天皇を熊野から橿原まで案内したとされる記述もあり、ここでは一度途中で追い返されたことになっていますが、最初から最後まで導き手として随行したと考えています。数々の難を超えられたのは、八咫烏のおかげなのではないでしょうか。





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18:18 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [中の巻] 01 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の東征
玉依毘売命(タマヨリビメノミコト、前節で登場)を母とする神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト、神武天皇)と五瀬命(イツセノミコト)の兄弟は、高千穂の宮殿で相談します。

弟のカムヤマトイワレビコノミコトが、「一体どこに住めば、平和に天下を治めることができるのでしょうか。東に行ってみませんか。」と提案すると、二神は早速、日向(九州南部)を発ちました。



筑紫の国(九州北部)へ向かう途中、豊国の宇沙(大分県宇佐市)で、土着の人である宇沙都比古(ウサツヒコ)と宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が、足一騰宮(あしひとつあがりのみや、(どのような構造の建物か詳細は不明))を造って二神をもてなします。

やがて二神は筑紫の国の岡田(福岡県芦屋町の遠賀川河口付近?)の宮殿に着くと、そこに一年ほど留まります。その後、阿岐国の多祁理(たけり、広島県府中市付近?)の宮殿に七年、また吉備(岡山県と広島県東部)の高島(児島半島に高島という地名あり)の宮殿に八年留まります。



そこから二神は、また東へ向かいます。その途中、速吸門(はやすいのと、明石海峡?)という潮の流れが早いところで、船の代わりに亀の甲にまたがり、釣りをしながら鳥が羽ばたくように左右の手を振って、こちらに進んでくる人に出会います。

彼は国つ神で、海の道に詳しいと聞き、カムヤマトイワレビコノミコトは、彼に、供につかないかと問うと、仕えましょうというので、彼に槁根津日子(サオネツヒコ)という名を与えました。彼は倭国造(ヤマトノクニミヤツコ、奈良盆地東部の豪族)の祖です。



こうしてさらに東へと向かい、やがて船は浪速之渡(なみはやのわたり、大阪湾沿岸)を経て青雲の白肩津(しらかたのつ、大阪湾沿岸の地のどこか)で船を泊めます。

この時、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ、登美毘古(トミビコ))が軍を興して待ち構えていたので、戦いになります。

そこで一行は船に用意してあった盾を取り、岸辺に降りて防ぎました。そこで、この土地を楯津(たてづ)といいます。



さて、登美毘古と戦った時、兄のイツセノミコトは、その手に矢を受けてしまいました。彼はいいます。

「我々は日の神の御子なのに太陽に向かって戦ったから(つまり太陽の登る東に向かって戦ったから)、いやしいやつに痛手を負わされてしまったのだ。次は回り込んで背に日を負って敵を打とう」

そして今度は、進路を南に取り、回り込んで、後ろから敵を攻める策に出ました。そしてそこらはイツセノミコトの傷ついた手の血を洗い落としたので血沼海(ちぬのうみ、大阪府南部に面した海)といいます。

さらに南下して紀国(和歌山県、三重県南部)の男之水門(おのみなと、大阪府泉南市男里?、古くは紀国に属していた)に着くとイツセノミコトは無念を叫んで死んでしまいます。イツセノミコトの御墓は紀国の竈山(かまどやま、和歌山市和田)にあります。



兄をなくしたカムヤマトイワレビコノミコトですが悲しむ間もなく紀国を回りこんで、やがて東へ進みます。そして熊野村(和歌山県新宮市付近?)につきました。

すると不思議なことが起こります。そこでは大熊が見えたり隠れたりして、そのうち見えなくなったりしました。この熊は熊野山に住む威力ある神で、その毒気にあたってカムヤマトイワレビコノミコトは急に体調を崩し床に臥せってしまいます。それだけではありません。従う兵士さえ、皆具合を悪くして寝込んでしまいました。

ところがこの時熊野の高倉下(タカクラジ)という名の者が、ひと振りの剣を持って現れ、その剣をカムヤマトイワレビコノミコトのもとに捧げました。

するとカムヤマトイワレビコノミコトは、じき正気づき、起き上がります。そしてこの剣を受け取ると、何もしないのに、熊野山の威力ある神をなぎ倒してしまいました。連れの兵士も起き上がります。

不思議な力を持った剣なので、カムヤマトイワレビコノミコトはタカクラジに、どういう経緯でこの剣を手に入れたのかを聞きました。すると次のように答えます。

「私は不思議な夢を見ました。天照大御神(アマテラスオオミカミ)と高産巣日神(タカミムスヒノカミ、[上の巻] 01 天地のはじめを参照)の二神が、建御雷神(タケミカヅチノカミ、[上の巻] 03 神生み[上の巻] 16 国譲りを参照)をお呼びになって『葦原中国(あしはらのなかつくに)はとても騒がしい、そもそもおまえが、以前平定した国なのだから、今度も降って欲しい』と言いました。するとタケミカヅチノカミは答えて『私が降るまでのことはありません。以前この国を平定した剣があります。その剣を下ろすべきでしょう。この剣を私の代わりに地上に降ろしましょう。ひとつタカクラジの住む倉に穴を開けて、そこから落としてやりましょう』こう言うと今度は私に向かって『タカクラジよ、おまえが朝になって目を覚ましたら、めでたい剣が手に入っているだろうから、それを持ってカムヤマトイワレビコノミコトにさし上げるといい』このように夢は教えるのです。朝になって倉をみると案の定、剣があったので早速お持ちしたのです」

カムヤマトイワレビコノミコトの東征はまだ終わりません。次回に続きます。





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18:34 : 『古事記』 [中の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [上の巻] リンク
『古事記』 [上の巻] 01 天地のはじめ
『古事記』 [上の巻] 02 国生み
『古事記』 [上の巻] 03 神生み
『古事記』 [上の巻] 04 黄泉の国

『古事記』 [上の巻] 05 天照大御神、月詠命、須佐之男之命の誕生
『古事記』 [上の巻] 06 天照大御神、須佐之男之命による誓約(うけい)生み
『古事記』 [上の巻] 07 天の岩戸
『古事記』 [上の巻] 08 五穀の種の起源
『古事記』 [上の巻] 09 八俣遠呂知(ヤマタノオロチ)
『古事記』 [上の巻] 10 須佐之男命の系譜

『古事記』 [上の巻] 11 因幡の白兎
『古事記』 [上の巻] 12 婚姻をめぐって迫害される大国主神
『古事記』 [上の巻] 13 大国主神による国造りの再開
『古事記』 [上の巻] 14 大国主神の妻問い物語
『古事記』 [上の巻] 15 葦原中国の完成−我々の八百万的なものの中での共生の起源を思う

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『古事記』 [上の巻] 17 天孫降臨
『古事記』 [上の巻] 18 天つ神に寿命が設定された瞬間
『古事記』 [上の巻] 19 海幸山幸
『古事記』 [上の巻] 20 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の誕生





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18:44 : 『古事記』 [上の巻] : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『古事記』 [上の巻] 20 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の誕生
ある日、海神である豊玉比売命(トヨタマビメノミコト、前節で登場)が葦原中国(あしはらのなかつくに)に戻った山幸彦(やまさちびこ)を訪ねてきます。

それは彼女が山幸彦の子を身ごもって産む時期が来たため、天つ神の御子を海原で生むのは良くないと思ってのことでした。



そして海辺の波打ち際に、鵜の羽を葦に見立てて屋根を葺き産屋を作りました。ところがその産屋がまだ屋根を葺き終わらぬうちに、お腹の子が生まれそうになったので、トヨタマビメノミコトこらえきれず、その産屋に入りました。

そして夫の山幸彦にこう告げました。「すべての異郷のものは出産の時になると、自分の本国の時の姿になって産むものです。それで私も本来の姿になって子を生みますから、どうか産屋を覗かないでください」



ところがその言葉を奇妙に思った山幸彦は、そのお産が始まるところを密かに覗き見してしまいます。

するとなんとトヨタマビメノミコトは、八尋もある大鰐に化して這いまわり身をくねらせています。この光景に山幸彦は驚き、恐ろしさのあまり逃げ去ってしまいます。



それを知ったトヨタマビメノミコトは、子のために、いつまでも海の道を通って、行き来しようと思っていたのだけれど、たいそう恥ずかしい思いをしたので、生んだ御子をそのまま残して、海の果ての境を塞いで海神の国へ帰ってしまいました。

このようにこの御子は、渚で鵜の葺草が葺き終える前に生まれたことからその名を、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト、鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアエズノミコト))と申しました。



しかしその後トヨタマビメノミコトは、覗かれたことを恨んだものの、夫を慕う恋しい思いに耐え切れず、御子を養育するためというゆかりを頼りに、妹の玉依比売命(タマヨリビメノミコト)託して次の御歌を献上します。

■赤玉は 緒さえ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
(赤い玉は 通す紐さえ キラキラと光って美しいもの けれど それにもまして 白い玉のように輝く あなたの気高い姿が 思い出されてなりません)

夫の山幸彦もこれに答えて歌を送ります。

■沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに
(沖にいる鴨が 寄り付く島のような あの綿津見宮殿で 共に眠った愛しい妻を どうして忘れることができようか わたしの命のある限り)

愛しあいながらも離れて暮らす二人は、歌をおくりあって心を通わすのでした。

さて山幸彦こと火遠理命(ホオリノミコト)はその後、高千穂の宮殿に五百八十年住まいます。そしてその御墓は高千穂の山の西にあります。



山幸彦の子であるウカヤフキアエズノミコトは、叔母にあたるタマヨリビメノミコト娶って子を生みます。子の名は五瀬命(イツセノミコト)、次に稲氷命(イナヒノミコト)、次に御毛沼命(ミケヌノミコト)、次に若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)、またの名を神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)といいます。

ミケヌノミコトは波の穂を超えて常世国に渡り、またイナヒノミコトは、母の国である海原に入ってゆきました。カムヤマトイワレビコノミコトは、初代天皇の神武天皇です。



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この節のお話の系譜は、禁室型説話形式と呼ばれます。俗にいう、見るなのタブーと呼ばれるモチーフを持つものです。

民話にも異類の女性と結婚した男が女の本来の国の姿を見て驚き夫婦関係が断絶するというお話は「魚女房」、「鶴女房」、「蛤女房」などあります。

根源は南方未開社会のトーテミズムや異族結婚制に由来する物語といわれます。



これで上の巻終わります。次の巻ではカムヤマトイワレビコノミコト、初代天皇の神武天皇のお話から始まります。





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