子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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宮沢賢治童話全集 4 注文の多い料理店 リンク
よくきく薬とえらい薬』 宮沢賢治童話全集 4 より - 寓話的手法を用いた童話
』 宮沢賢治童話全集 4 より - 労働の楽しさをうたった明るい物語
タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』 宮沢賢治童話全集 4 より - 母親の愛情
注文の多い料理店』 宮沢賢治童話全集 4 より - 風刺から醸しだされるユーモア
土神ときつね』 宮沢賢治童話全集 4 より - 恋愛の暗部を扱った童話らしからぬ物語
チュウリップの幻術』 宮沢賢治童話全集 4 より - 心象スケッチから浮かびあがるもの
茨海小学校』 宮沢賢治童話全集 4 より - 賢治の空想作法
ガドルフの百合』 宮沢賢治童話全集 4 より - 理想世界への挫折と希望





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18:25 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ガドルフの百合』 宮沢賢治童話全集 4 より - 理想世界への挫折と希望
旅人ガドルフは、惨めな旅の黄昏を、激しい雨に降られ、何もかもむちゃくちゃだと思いながら歩いています。やがて辺りは夜になり雷が明滅します。もう歩けそうもないと思い、ガドルフは、路傍の大きくて真っ黒な屋敷に避難しました。

そこには、人が住んでいた形跡はあるものの無人のようです。皆どこかへ避難したのかと思いながらが中に入りまました。濡れた着物を脱ぎ、乾いた着物に着替えると、背負っていた背嚢を下ろして、中の小さな機器を確かめます。



ふと、二階に誰かいるかも知れないと思い確かめに行くと、雷光に照らされて、窓に白いものが五つ六つ浮かび上がります。

住人が帰ってきたのかも知れないと思い、唯一の乾いていた着物が濡れるのも構わず、窓を開けて挨拶しようと思い、窓から体を乗り出すと、果たしてそれは、白い百合の花でした。百合は雨と雷光の中に凛として立っています。

ガドルフは俺の恋は今あの百合の花なのだ。砕けるなと祈りました。しかしやがて一本が折れてしまいます。ガドルフは俺の恋は砕けたのだとと思いました。彼はいつの間にか目を閉じてまどろみます。



すると突然大きな物音がして、闇の中で二人の男が上になり下になり格闘していて、ついにガドルフに突き当たってきたかと思うと彼は目を覚ましました。それは幻でした。

ちょうど雷が落ちて、窓の外が照らされると、勝ち誇ったように百合の群れが見えます。濡れた着物を担いで歩くのは、厄介だけれども仕方がない。雨がやんだら次の街へゆこう。俺の百合は勝ったのだとガドルフは考えました、と物語は結ばれます。





ガドルフの旅は賢治の生き様の行方を暗示しているのではないでしょうか。嵐の中を背嚢に何か小さな機器を背負って、次の街へ向かいます。小さな機器とは賢治の創作を表しているように思われてなりません。



気になったのは、嵐の中で、百合の花が一本折れてしまった時、突然俺の恋は終わったのだというつぶやきにも似た叙述がなされるところです。これは何を意味しているのでしょうか。

賢治の挫折の一つを表象しているものと思われますが、果たしてそれは具体的なことなのか、それとももっと大きな事柄、例えば理想世界のようなものへの恋なのか。

具体的なことを指すなら、賢治が十八歳の時に、肥厚性鼻炎手術で入院中に出会った、一人の看護師さんの存在が挙げられているようです。賢治の初恋です。

しかし、そうなると、なんともこじんまりとした物語になってしまうので、必ずしも固定的には考える必要はないと思います。たとえ、これらの現実の出来事を題材にしたとしても、作品が表象する射程はもっと広大だと思います。



なので、ここで言い表される恋とは賢治が理想とした世界全般への恋と考えています。その恋が、挫折しようとしているのでしょう。

しかし、その恋が、半ば幻影も交えた、この嵐に見舞われた屋敷で、繰り広げられ出来事の中で、つまり賢治の心の葛藤の中で勝利し、次の町へ、もとい次の目標に向けて旅立とうとしているのです。

なんだか童話らしからぬお話ですね。



生前未発表
現存草稿は大正12頃





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18:30 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『茨海小学校』 宮沢賢治童話全集 4 より - 賢治の空想作法
農学校の教師のわたしが、火山弾の標本を取るためと、そこにはありえない、野生のはまなすが生えているとの噂を確かめるため、茨海(ばらうみ)の野原に向かいます。

はまなすは見つけることはできませんでしたが、わたしが見つけなかったからと行って、その存在を否定することはできません。しかしわたしが見つけたなら証拠となりましょう。だからわからずじまいです、と述べられます。

ところで、手頃な火山弾はひとつ見つけました。しかしこれは、これからわたしが向かうであろう、茨海きつね小学校の校長先生に寄付させられてしまうでしょう。

その茨海きつね小学校の存在ですが、作中のわたしは決してきつねに騙されたのではないといいます。なぜなら騙されたのなら、きつねが女や坊さんに見えるはずで、彼らはきつねの姿のままであったというのです。そして、きつね小学校は存在するのです、と述べられます。



しかしここで断りが入ります。それはきつね小学校が存在するといっても、それはわたしの頭の中にあったというのです。

にわかに限定的な答えとなりました。また、わたしの言うことを聞いて、同じように考えるなら、みなさんの頭の中にも存在するのです、とまで述べられました。

そしてわたしは、時々、こういう野原を一人で勝手に歩くのですが、こういう旅行をすると、後で大変疲れることを告白し、みなさんも、こういう旅行の話を聞くことは一向に構わないのですが、度々出かけてはいけませんと注意が促されます。



以下、後半、主人公のわたしが、茨海きつね小学校に迷い込んでしまい、そこでの授業参観、そして学校を去るまでが語られます。しかし、賢治による空想が込み入ってて、ややこしいので、この部分のあらすじは、煩雑になると思い割愛します。皆さんオリジナルにあたってみてください。

最後に、わたしは、結局のところ、茨海きつね小学校では、一体どういう教育方針が取られているのか、さっぱりわかりませんでした、と物語は結ばれます。



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前半は、わたしなる人物を通して語られる、賢治の空想に対する作法なのではないでしょうか。ある意味賢治の創作作法です。ここは、賢治の物語の中でかけがえのないところだと思います。『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』序の、作品論に通じるところがあります。



それに続く、後半の茨海きつね小学校での出来事は、大部ですが、賢治の空想が、存分に発揮されています。

学校では高等な教育が施されているようですが、人間からしたら論理の飛躍や、間の抜けたところもあり、ユーモアを誘います。こうなるとどうも作中のわたしは結末で、一体どういう教育方針が取られているのか、さっぱりわかりませんと降参してしまうのでした。



しかし我々読者には、この物語で何が行われているのかがわかります。学校の教育方針は、きつね世界から人間世界を見ているので、おおむね人間世界での教育方針と逆のことが語られます。

ここに風刺が入リ込む余地があるでしょう。この視点転換は、偏見の是正につながっています。『雪渡り』と同じ仕掛けが用いられているといっていいでしょう。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正12年頃



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18:22 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『チュウリップの幻術』 宮沢賢治童話全集 4 より - 心象スケッチから浮かびあがるもの
洋傘直し兼研師が、農園のすももの垣根に沿ってやってきます。彼は、垣根の隙から見える花に誘われて、農園の中に入って行きました。

(ここにお前の仕事はあるまいに)

すると園丁が出て来るので、洋傘直しは、なにか御用はないか、研ぎ物はないかと尋ねました。園丁は主人に聞きに行きます。



そして園丁はいくつかの研ぎ物を持ってきました。値段交渉をして、洋傘直しは井戸の傍らで預かったものを研ぎ始めます。ひばりが、空に登って鳴きました。あたりは、輝く五月の昼過ぎの景色です。園丁が研ぎ物の追加を持ってきました。それは自前の剃刀でした。

やがて、その剃刀も研いでしまうと、洋傘直しはチュウリップの方に近づきます。すると園丁が飛んできて、仕事の代金を持ってきました。そして洋傘直しをお茶に誘います。

洋傘直しは、その誘いを辞退しますが、園丁が、ぜひ自分が作った花を見て行ってくださいというので、拝見することにしました。



園丁は、丹精込めて作った様々なチュウリップを、楽しそうに紹介しましす。洋傘直しと園丁は詩情豊かに会話を交わしました。

チュウリップの幻術にかかっているうちに、よほどの時間が過ぎました。洋傘直しは農園を後にしました、と物語は結ばれます。





洋傘直しと園丁の会話によるチュウリップを題材とした会話が、まるで宴に酔った詩人のもののようです。

賢治は自身の作品を、すべて心象スケッチと呼んでいますが、まさにこの作品はそんな印象を色濃く出しています。

この物語の中心は、チュウリップをめぐって交わされる会話の描写が、並べられて形作られています。



よく日本の物語で問題となることで、読後、頭に、ストーリーが残らないという批判があります。しかし、批判されている対照は、そもそも、ストーリー自体が希薄なのではないのではないでしょうか。

状況描写が並べられて、そこを読者の視点が移動していくような仕掛けで、物語がつづられていくのです。この物語なら、チュウリップが醸しだす幻術に、読者は寄り添うのです。

この叙述法は、頭には残りづらくとも、書き方次第で強い印象を残せます。論理ではなく直感に訴えるのです。洋の東西、昔話を読んできましたが、よくわかります。

賢治の物語たちは、そんな仕掛けを、多く含んでいるように思います。まさに心象スケッチです。



生前未発表
『若い研師』第二章が、『研師と園丁』となり、本作品で完成したものとみられます。
現存草稿の執筆は大正12年頃
『若い技師』第一章の系列の完成は『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった





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18:43 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『土神ときつね』 宮沢賢治童話全集 4 より - 恋愛の暗部を扱った童話らしからぬ物語
一本の美しい女の樺の木がありました。彼女には、正直かも知れないけれども、粗野で野暮な、乱暴者の土神(土地の神)と、不正直ではあるかも知れないけれど、いっけん気配りができて上品な、似非物知りのきつねという、ふたりの男友達がいました。

彼女はあまり自分の意志を示しませんが、どちらかというときつねの方を好いていました。



初夏のある晩、きつねが樺の木を訪れて、天体や、ツァイスの望遠鏡の話をして、帰りにはハイネの詩集をプレゼントしました。

翌朝には、土神が、樺の木を訪れて、突然何やら訳のわからない真面目な質問を、彼女にぶつけます。

こまった樺の木は、昨日のきつねのことが頭にあったので、彼なら答えられるだろうと思って、うっかりきつねさんにでも聞いてみたらいかがでしょうと言ってしまいます。

すると土神は、きつねへの劣等感から、神様らしからぬ嫉妬心に火をつけてしまい、畜生の存在でと、きつねの悪口を言い始めます。

樺の木は気を取り直して、祭りの話をしました。すると土神は、近頃では人間は供物もよこさないと愚痴り始め、再び彼女を困らせます。

嫉妬や怒りを抱えた土神は、自分の住む谷地に帰っても、それらが治まらず、空ゆく鳥や、通りがかりの人間にも意地悪く当たりました。



八月のある晩、土神は、この頃では、樺の木を恋しく思い、なんとも言えず寂しくて樺の木を訪れることにしました。

すると、すでにきつねが訪れていて、きつねは例のごとく衒学的な話を樺の木相手にしていたのです。

きつねに対する劣等感と、自分が神であるとのプライドから、自分が何をしでかすかわからなくなった土神は、走って逃げ帰ります。そして大声を上げて泣きました。そして時が経ちます。



秋になりました。気候が変わったせいか、土神はすっかり上機嫌です。自分を苦しめていた感情からも開放されているようです、樺の木ときつねの仲も受け入れるつもりでした。

そして土神は樺の木のもとに向かいました。そして彼は、今の心境を正直に樺の木に伝えます。しかし、その重苦しい話の内容に、樺の木は返答に困ってしまいました。

そこへきつねがやってきます。土神のことを妬ましく思い、帰るわけにも行かず、きつねはいつもの調子で樺の木と会話を始めると、樺の木に約束していた本を渡しました。そして早々に、土神には挨拶もくれず、立ち去ります。

きつねのこの態度に、土神はおさえていた感情を爆発させてしまいます。心の奥底ではきつねに対する暗い感情が依然としてくすぶっていたのです。そしてきつねの後を追うと殺してしまいました。と物語は結ばれます。





賢治の作品の中には少数ですが、恋を扱ったものがいくつかあります。そしてそれらのものは、大抵は恋人たちを微笑ましく見守るようなものがほとんどです。

しかしそんな恋物語の中にあって、この作品は異色です。恋愛のどろどろしたところが描き出され、しかもそれが三角関係の中で行われるのです。童話らしからぬ展開ですね。



土神は、頭では嫉妬の愚かさを知り、きつねを受け入れようとしますが、激情にかられて殺してしまいます。

きつねは、偽りを言う自分の愚かさを知りながら、樺の木を喜ばせようと軽薄なことをしてしまいます。

理性では知りながら、感情で流されてしまう恋ゆえの矛盾が描かれます。

それぞれのキャラクターですが、現存草稿の表紙に、土神を退職教授、きつねを貧なる詩人、樺の木を村娘とメモしてあります。まさにその通りに描かれています。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正12年頃





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18:23 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『注文の多い料理店』 宮沢賢治童話全集 4 より - 風刺から醸しだされるユーモア
狩猟に来た、虚栄心が強くて、独りよがりな東京のふたりの若い紳士が、それぞれ猟犬を連れて山に入ります。ところが獲物は見つからず、しかも猟犬がどうゆうわけか泡を吹いて死んでしまいます。

そんなわけで、ふたりの紳士は山を下りることにしました。ところがふたりは道に迷っていることに気づきます。そんな折、ふたりはなにか食べたいと思っていたところ、忽然と一件の西洋料理店が現れ、ふたりは立ち寄ることにしました。



ところがふたりの前に次々と現れるのは、店主の奇妙な注文が記されたいくつもの扉と、長い廊下ばかりです。

やがてふたりは自分たちの置かれた状況に気づきます。つまり西洋料理店という謳い文句は、来た人に食事を食べさせるところではなく、店主の山猫に彼らが料理されるべく、こちらが注文を受け、食べられてしまうことを指していたのです。

ふたりは恐怖で声も出せず、震えだし、泣き出してしまいます。しかし間一髪のところで、死んでしまったはずの二匹の猟犬が登場し、西洋料理店は煙のように消えてしまいます。



ふたりは気づくと草原の中に立っていました。専門の漁師が現れて、ふたりはやっと安心します。猟師に団子をもらい、帰り道の途中、手ぶらで帰るのをいささか恥じたふたりは、山鳥を買って家路につきます。

しかしふたりは恐怖で紙くずのようになった顔だけは元に戻りませんでした、と物語は結ばれます。





お馴染みの童話です。童話集『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』の中の、九篇の童話の一つとして、賢治が、生前、数少ない発表を行った作品のうちのひとつです。

なお、この童話集について少し言っておくと、賢治が生前発表した、唯一童話集であり、その中には、これまでブログで取り上げてきたもののうち、『どんぐりと山ねこ』が含まれています。

イーハトーブ(イーハトーヴ)とは、賢治の造語で、故郷岩手のことであり、郷土主義的立場を打ち出し、それを超えようとする賢治の意志を指す言葉であると同時に、彼の心象世界を表象する名辞です。賢治が、現実を理想に結びつけようとする際の、観念世界の名称といってもいいでしょう。



さて、この童話の傑作との評価には、枚挙に暇がありません。殺生を道楽とする狩猟家への鋭い風刺から醸しだされるユーモアが、この物語の主旋律です。

物語の展開としては、児童文学としても読めますが、この物語の発端と結末で登場する猟犬が、異界の入口と出口の通路を形作っていて、優れたファンタジーとしても読めます。

しかし、猟犬が一度死んでいますから、一見矛盾が生じていますが、ファンタジーのさらなる仕掛けとしても解釈可能です。物語冒頭から、すでに山猫が見せていた幻影と考えればいいのです。

賢治が物語の中で身をおいていた場所は、当然、山猫の側でしょう。虚栄や虚勢に満ちた、ふたりの紳士の生は諷されて、山猫の側にある、豊穣なる自然の生が讃えられるのです。



それにしても、ふたりの紳士は、この出来事のあと、東京に戻っても、紙くずのようにシワシワになってしまった顔が元に戻りません。これはそのまま、この表現が示すように、人の老いともとれます。念の為言っておくと、ここでいう老いとは、肉体的な老いや、精神的成熟とは何も関係ありません。(老いについての考え方は、トールキンの『妖精物語とは何か』第五章”回復、逃避、慰め”及び"結び"の記事を参照してみてください)

彼らは、山で遭遇した豊穣な世界に当てられて、自分たちの愚かさを、まざまざと自覚させられると、この先、何をするにも、行き詰まった状態に陥ってしまったとも考えられます。それは老いと表現するに、ふさわしい出来事でしょう。

ふたりには老いの傾向が、もうすでに、はじめからありましたが、まだ回復可能だったともいえます。この物語の出来事が決定的に、遥か彼方の不可逆的な老いにふたりを導いてしまったのです。

彼らのような偽りの生活者には、これらの出来事が受け止められず、豊かな人間になら、機転を利かせて貴重な経験とすることができたものを、毒としてしまったのです。



初出『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』大正13年12月1日
初稿の執筆は大正10年11月10日





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18:19 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』 宮沢賢治童話全集 4 より - 母親の愛情
主人公のホロタイタネリは、でまかせのうたをうたいながら、冬中かかって凍らして、細かく裂いた藤づるを叩いていました。それを母親が織る着物の繊維にするため、口で噛砕くのがタネリの仕事のようです。

ところで、タネリは早春の野原の明るさに誘われて、とうとう森に入るなという母親の言葉を背に、叩いていた藤つるをひと束持って、それを、口でにちゃにちゃ噛砕きながら野原に出ていきました。

タネリは柏の木や、ひきがえるや、栗の木、鳥のときなどに声をかけながら散策していくと、いつの間にか不気味な暗い木立の森を前にして、そこに犬神を見とめます。タネリは恐ろしさのあまり一目散に家に逃げ帰りました。

タネリは家に着くと、藤づるは噛んだかと母親に尋ねられます。気づくとタネリは、それをどこかへなくしてしまったようです。しかし、確かにいち日中、噛んでいたとぼんやりと答えました。

すると、それならいいと母親はタネリの顔つきを見て安心し、家事を続けました、と物語は結ばれます。





藤づるを叩いて、さらに噛みぐだき、繊維にして、着物を織るなど、この一家の生活は極貧であることがうかがわれます。そんな貧しい人々に心を寄せる賢治らしいお話です。

タネリ一家は、その時代の農民一般を描写したものと考えられますが、主人公のタネリその人は、その空想癖などからして、賢治そのものが投影されているものと思われます。

タネリは、母親に頼まれた仕事を最後までこなせなかったわけですが。その言い訳が物語タイトルになっているようで、ユーモアを誘います。

そしてそんなタネリを叱りつけることなく、息子の無事を心配する母親の愛情が感じられる優しい物語でもあります。



子どもを、ある枠組みにはめようとするつもりがないなら、たとえ貧乏でも子どもは育てられます。

賢治は裕福な家庭で育ち、その跡取りという枠組みで縛られていました。しかしその枠組みは、ある意味、役には立ったものの、多くは賢治の足かせになったのではないでしょうか。

子どもは親とは別人格であり、枠にはめたりして可能性を狭める必要はないのだと思います。親次第で、子供の可能性は広がるのではないでしょうか。

同じ童話作家のアンデルセンの幼少は極貧でした。しかし世界で一番成功した童話作家になっています。『マッチ売りの少女』のモデルはアンデルセンの母親だといいます。愛情あふれる母親さえいれば、それでいいのだと思います。

もっとも、消費に時間をかける現代社会においては、必然的に母親の役割は変わっています。



生前未発表
『若い研師』第一章が『若い木霊』に改作され、さらに『サガレンと八月』をも包摂して本作品となったようです
大正13年春頃の執筆





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18:44 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『車』 宮沢賢治童話全集 4 より - 労働の楽しさをうたった明るい物語
ハーシュは午前中、街角に立っていましたが、どういうわけか仕事がなく、昼の弁当を食べ始めました。

すると、赤ひげのの男からテレピン油(塗料などの溶剤)を買いに頼まれます。ハーシュは男に道を聞いて、よぼよぼの車を引いて行きました。



道の目印となる松林のそばに来ると、水色の水兵服を着て空気銃を持った、縮れ毛の可愛らしい子どもに、車に乗せてくれとせがまれます。

子どもを乗せて車を引いていく途中、車の具合が良くないため調べてみると、車輪のくさびが抜けていました。このままでは車輪がはずれてしまいます。



難儀していたところ、百姓屋に続く小さな道を見つけ、そこに入って行くと縄を見つけました。

それを車の修理のために拾おうとすると、後ろから百姓のおかみさんの声が聞こえてきて、それはわたしらが一生懸命なったものだ。それを黙って持っていくなと怒られます。もっともなことでした。

仕方なく、抜けたくさびを探しに、来た道を戻ると、くさびは無事見つかります。そして車の修理を済ませました。



無事工場にたどり着くと、技師長兼職工が出てきて、届けが遅くなってしまっていることを詫ましたが、ハーシュはただの頼まれごとで来ただけなので事情は知りません。

技師長は、ハーシュが載せてきた子どもに、どこに行っていたんだと声をかけます。どうやら載せてきた子どもは、技師長の子どものようです。子どもは、車が遅くてねと冗談を言いました。技師長は笑いました。ハーシュも笑いました。

ハーシュは午前中仕事がなかったのも忘れて、働くことの悦びを噛み締めました、と物語は結ばれます。





中程で登場する百姓のおかみさんの苦労も語られますが、全体としては、働くことの喜びを表現した明るい作品になっています。それを示すように、お話最後の子どもの軽口が、印象に残ります。



生前未発表
大正12年秋ころ清書、初稿か否かは不明





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18:27 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『よくきく薬とえらい薬』 宮沢賢治童話全集 4 より - 寓話的手法を用いた童話
清夫は、今日も森の中へばらの実を取りに行きました。森の鳥たちが、それを見て、清夫の病いの母親の具合を心配したり、病の薬であるばらの実が取れたかと案じてくれます。

しかしその日は、ばらの実が一向に集まらず、かごの底が隠れません。おひさまは空の真ん中まで登ろうとしています。木が水を吸い上げる音がしました。

疲れた清夫はぼんやりと立ちながら、ひと粒のばらの実を唇に当てます。するとどうでしょう、体中がなんともいえず、すがすがしい気分となりました。

清夫はそのばらの実を見ると、なんとその実は透き通っていました。清夫は飛び上がって喜び、早速それを持って、風のように家に帰りました。帰宅して母親に飲ませてみると、病はたちどころに全快します。

このはなしは広まり、きっと透き通ったばらの実は神様が清夫にお授けになったものだと噂されます。



ところで近くの町に、大三という太ったにせ金使いがおりました。大三は、近頃頭がぼんやりしていけないと思い、医者に尋ねると、食べ過ぎとのことでした。

しかし大三は医者の言うことなど聞かず、逆に医者を困らせていました。そこで自家薬籠にと、頭がすっきりとし、息切れを止めて、体のだるさを治す薬を求めました。

そこに、清夫の噂を聞いたものですからたまりません。早速百人の人を雇い、朝から雇い人といっしょに、林で透き通ったばらの実を探します。



鳥たちは呆れて大三をからかいました。大三は薬さえ見つかれば林など焼いてしまうと鳥たちに脅します。

しかし透き通ったばらの実は、夕方になっても見つからず、大三は諦めました。そしてしばらく考え、自分でその実を作ればいいのだという結論に至ります。そして、ただのばらの実をたくさん持ち帰りました。



家に帰ると、ただのばらの実と、ガラスのかけらと、水銀と、塩酸を、るつぼに入れて真っ赤に焼きました。すると何やら透き通ったものができました。大三は喜んでそれを飲み込むとあっという間に死んでしまいます。

たいぞうの飲み込んだものは、昇汞(塩化水銀)という一番の毒薬でしたと物語は結ばれます。



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前半では、自然と共に生きる清夫へ、自然からの贈り物として透き通ったばらの実という良薬が与えられ、彼の病の母親が全快するお話しが語られるのとは対照的に、後半では、人間が自然の一部であることを忘れて、尊大に振る舞う大三が自分で作った薬を毒薬とも知らず飲んで、思いもよらず自死してしまうお話になっています。



前半は、賢治がよく用いる、木が水を吸い上げる音など(『ありときのこ』参照)、詩情豊かに語られるのに対して、後半はあっさりと形式的に風刺がなされるだけといった印象です。これは結末が簡潔な昔話によくある語られ方です。

この叙述の仕方は、賢治の童話としてはやや物足りない印象をうけますが、意図して昔話風にしたとも考えられるのではないでしょうか。語られることに寓意を強く持たせたかったのかも知れません。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正10年か11年頃



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18:22 : 宮沢賢治童話全集 04 注文の多い料理店 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
宮沢賢治童話全集 3 どんぐりと山ねこ リンク
貝の火』 宮沢賢治童話全集 3 より - 若き日の賢治が投影された物語
どんぐりと山ねこ』 宮沢賢治童話全集 3 より - デクノボウ思想の前身
鳥をとるやなぎ』 宮沢賢治童話全集 3 より - 子どもと詩人の感性
ふたりの役人』 宮沢賢治童話全集 3 より - 子どもの視点から見える大人
』 宮沢賢治童話全集 3 より - 消えることのない自然に対する畏怖を表現する物語
さるのこしかけ』 宮沢賢治童話全集 3 より - 現実に生成する空想
ほらぐま学校を卒業した三人』 宮沢賢治童話全集 3 より - 賢治の社会批判の原点
四又の百合』 宮沢賢治童話全集 3 より - 賢治の信仰イメージ





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18:16 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『四又の百合』 宮沢賢治童話全集 3 より - 賢治の信仰イメージ
お釈迦様が明朝に、ヒームキャの川を渡って、この町においでになることになり、王をはじめ民は感激と喜びに満たされます。

街では掃除をはじめ、もてなしの食事や、寝泊まりのための精舎の建築など、ひたすら手落ちのないように準備が整えられます。



お釈迦様が到着する朝方、王はお釈迦様にゆりの花を捧げようと思い、大臣にその調達を任せます。しかしゆりの花は辺りにはなく、一人の子どもが持っていました。

大臣は子どもに、ゆりの花をお金で譲ってくれるよう頼みますが、子どもは自身がお釈迦様に捧げるのだと言います。しかし子供は大臣にゆりの花を無償で譲りました。



川の向こうの青い林に、かすかに金色が登ります。王も民もひれ伏します。二億年ばかり前にどこかであったことのように思われます、と物語は結ばれます。





ゆりの花を持っていた子どもは、賢治自身が投影されたものでしょう。ゆりの印象として、ここで用いるのにふさわしいのは清浄でしょうか。物語は、賢治の信仰がイメージ化されたものとも取れます。



このお話の土台は、賢治の少年期の体験にあるものと思われます。賢治は盛岡中学三年の時に、暁烏敏という立派なお坊さんに仏様にあげるゆりを頼まれて、花巻の野原から取り集めて送ったことがありました。蛇足ですがヒームキャは花巻を連想させます。

また、仏教説話に、花売りから花を買い、仏に捧げることで成仏するというものがあります。これらの説話も下敷きとしているかも知れません。





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18:26 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ほらぐま学校を卒業した三人』 宮沢賢治童話全集 3 より - 賢治の社会批判の原点
競争に勝つこと、大きいことが立派だと教えるほらぐま先生の学校に、赤い手長のくもと銀色のなめくじと顔を洗ったことのないたぬきが入学してきます。

一年目は、くも、二年目は、なめくじ、三年目は、たぬきが、それぞれいちばんとなり、三人は卒業していきます。ほらぐま先生への謝恩会、自分たちの送別会を開いて別れました。三匹はそれぞれに、自分こそが一番となって、競争に勝ち、大きくなってやると、腹の中では相手を見下しています。



一、くもはどうしたか

くもは自分の家である楢の木に帰ると、空腹を満たすために網をかけ、虻の子を食い、盲目の巡礼のかげろうをペテンにかけ食い殺し、一息ついたところで女房をもらい、二百匹の子をもうけました。

しかし、たぬきに網のかけ方がまずいと注意され立腹します。そこで、あちこちに一生懸命網をかけることに精を出しました。

ところが、網にかかったたくさんの獲物を腐らせてしまい、その腐敗が自分たちに移って、くもの一家は全滅してしまいます。

つめくさの花が咲き、蜂が蜜を集めている頃のことです。



二、銀色のなめくじはどうしたか

帰宅したなめくじは、まず、自分が学校も出て、人が良く、親切だという評判を林中に広めました。

そして空腹のかたつむりを、食べ物で親切にもてなし、兄弟と言い合うほどの仲になったところで、戯れに相撲を取ろうと言ってかたつむりと投げ飛ばし、相手を殻ごと食べてしまいました。

またとかげの傷を治すと言って傷口を舐め体を溶かしこれも食べてしまいます。なめくじは途方もなく大きくなっていきます。

そんなことをしていると、次第になめくじに対する悪い評判が立ち始めました。

そんなとき、なめくじの前にあまがえるが現れて、相撲を取ろうと言います。なめくじはこのあまがえるも食べてしまおうと思いましたから、すぐその話に乗りました。ところがアマガエルの差金で土俵に塩をまかれ、なめくじは溶かされ消滅します。

蕎麦の花が咲き、蜂が今年の終わりの蜜を集めている頃の話でした。



三、顔を洗わないたぬき

さて、たぬきも自分の寺に帰りました。そして自分の空腹を満たすため、ひもじさを訴えに訪ねてきた来たうさぎを、念猫をとなえながら食い殺し、説教を聞きに来た狼をも、懺悔せよと言いながら食い殺してしまいます。さらに腹の中でわめく狼を鎮めるために狼の持参した、もみ三升も平らげました。

しかし、次第にたぬきの腹の中で育ったもみは膨れ上がり、たぬきがもみを食べてから、二十五日後にはこらえようもなく、たぬきの腹を裂いてしまいました。



ほらぐま先生は少し遅れてやってきて、三人とも賢い、いい子供らだったのに、実に残念なことをしたと言いながら、大きなあくびをします。

蜂が冬ごもりを始めた頃のことです、と物語は結ばれます。



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賢治の社会批判の物語です。ほらぐま先生の三人の生徒は、それぞれ例えるなら、商業資本家、偽りの人徳家、インチキ宗教家のようなものが想定され、それらが優勝劣敗の資本主義社会の産物であることがほのめかされているのでしょう。

またそんな資本主義社会の中での立身出世が、欺瞞に満ちたものであることが語られているものと思われます。それを示すように三人は自滅します。

また最後に、これらの原因を作った、ほらぐま先生の無責任ぶりが描写され、教育批判にもなっています。

しかしこの作品には、批判のみで、何ら建設的なことが語られないのが残念です。



この物語の前身である『蜘蛛となめくじと狸』は、『ふた子の星』と共に、賢治が若い頃に家族に読み聞かせたことから、賢治の童話処女作と考えることができます。その場合、賢治の創作の動機を考える上では重要な物語ととらえることができます。

その『蜘蛛となめくじと狸』からこの物語に変遷する過程で、章ごとの終わりに、蜂のエピソードが書き加えられていますが、三人の愚かな行いを印象づけるような役割を果たしていて、物語の完成度が増しているような趣です。



生前未発表
作品成立は、まず、『蜘蛛となめくじと狸』の内容で家族に読み聞かせたのが大正7年頃。題名不明『蜘蛛となめくじと狸』の内容で清書されたものが大正10念秋頃。『蜘蛛となめくじと狸』のタイトルで冒頭を書き改め全体に手入れがされたのが大正12年頃。これに蜂のエピソードを加えて手入れをしたものがこの物語です。
さらに『山猫学校を卒業した三人』のタイトルでさらに冒頭を書き改め、さらに全体に手入れがされたのが大正13年頃にあります。
また第二章を独立させ『ずるいなめくじのはなし』にしようとした試みもあります。





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18:48 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『さるのこしかけ』 宮沢賢治童話全集 3 より - 現実に生成する空想
主人公の楢夫は、夕方、家の裏にある、栗の木に並んで生えた三つのさるのこしかけを見て、そこに腰掛けている三匹の小猿の兵隊を空想をしていると、その小猿が顕現します。

小猿の大将は楢夫の年齢を聞き、よいところに連れて行くといいました。するとさるのこしかけのそれぞれに小さな穴が、栗の木の根本に楢夫が入れる程度の入り口ができます。

楢夫は栗の木の中に入るとそこは煙突のように空洞になっていて壁には小さな螺旋階段がどこまでも上の方に続いています。楢夫は一度に百段くらい上がるのですが小猿たちは思いのほか早くやっとの思いでついていきました。

突然目の前が明るくなり、そこは昼の種山ヶ原でした。そこでは猿の軍隊が演習をしていて、突然楢夫を縛り上げてしまいます。そして楢夫の体は高く胴上げされ地面に落とされました。

しかしそこに山男が現れ、楢夫は彼に受け止められ助かります。楢夫は山男によって草原に降ろされます。気がつくとその草原は、楢夫の家の前にある草原でした。家の中で母親が夕飯の支度ができたと叫ぶ声で物語は結ばれます。



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異界に連れ込まれる主人公の、ある意味ナンセンスな小話ですが、空想を交えた場面の切り替わりが鮮やかです。

しかし山男と小猿をを用いて、自然の違順二面を表現しているようにも思え、ただの妄想に終わらず、お話にリアリティを感じることもできます。

つまり、小猿が顕現する夕暮れ時の村と、山男によって小猿から助けられる昼の種山ヶ原が対比されていて、それぞれの場での、主人公の情感が表現されているようにも思えるのです。

このような空想による試みを、トールキンは、現実に生成する空想といっていたのではないでしょうか。



また小猿は、主人公を異界に連れ去るくだりで本人に年齢を尋ねています。これは、空想世界に一般的な年齢制限を設ける賢治の試みとも取れます。

雪渡り』を読んでも感じたことですが、賢治は、空想世界との親和性を持つ一般的な年齢の上限を、熟知していたのではないでしょうか。

さらに小猿の軍隊が、楢夫を縛り上げてしまうくだりは、どこか『ガリバー旅行記』を思い起こします。『ガリバー旅行記』がはじめて翻訳されたのは大正10年です。この年を目安にすると、賢治も何らかの形で読んでいたかも知れないですね。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正10年頃



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18:21 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『谷』 宮沢賢治童話全集 3 より - 消えることのない自然に対する畏怖を表現する物語
小学三、四年生のわたしは、馬番の理助に連れられてキノコ採りに出かけます。理助は白いものは筋が多いから褐色のものを選んで採れとわたしに指図します。

しかしそれは大嘘で、褐色のきのこは古いものでした。理助は、自分は白いものを選んで取っているのです。帰りがけに理助はすぐそばにある谷の崖を見せてわたしを怖がらせ、一人で取りに来る気をなくさせます。帰ってきたわたしは、兄に採ってきたきのこが全て古いものだと聞かされて、笑いものにされます。

冬になると理助は北海道の牧場に行ってしまいました。事実上あのきのこを採った崖っぷちは、わたしのものとなります。



次の年の秋にわたしはあの場所にきのこ狩りいいこうとしますが、危険な場所な上、地理にも疎かったわたしは、その場所を誰にも教えないという条件で、友人の藤原慶次郎を誘います。

慶次郎は、そのあたりの地理に詳しく、早速きのこの生えている場所にたどり着きます。しかし、そこは去年とは違う場所のようです。ふたりは、きのこを狩る場所がふたつできたと喜びます。

わたしは今日はもう遅いから、明日にでも兄を連れて、去年の場所も確認しようと言いましたが、慶次郎はこの場所を他の人に教えたくないようです。

そこで慶次郎は、今日のうちに去年の場所にも行ってみようと言い出し、谷の崖っぷちを探しました。ところが崖はすぐそばにありました。なんのことはない今きのこを採った場所は去年の場所だったことを知ります。ふたりはがっかりしました。

ふたりは帰りに谷に向かって叫び、こだまを呼んでいると、にわかに恐ろしくなって、足早にその場所を去りました。帰り道では何かに追われているような気配もします。

二人はそんな恐怖心から、次の年は兄に話して、一緒にでかけたと物語は結ばれます。



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鳥をとるやなぎ』、『ふたりの役人』と同じ原稿用紙が使われ、同様に友人の藤原慶次郎が登場し、小学生のわたしが主人公と、三拍子そろっていて同じ時期の作品と見られます。

自然への畏怖の感情が見え隠れし、『風の又三郎』に通じる、谷への恐れを指摘できるでしょうか。

そもそも、当初、理助が谷に通じる崖っぷちにわたしを誘ったのも、この恐れから逃れるためだったのかもしれません。

賢治の自然観を考える上では、欠かせない作品になっています。



賢治の自然への畏怖の感情の行方は、そのまま現代人の合理的思考の獲得の道に通じるものがあると思います。とはいっても、その畏怖は完全に克服できるものではありません。

それゆえ、その空隙には様々なものが入り込む余地があります。そこを埋めるものとして空想などは最も我々が広範に用いる手段です。賢治の文学にも優れた空想が随所に見られます。

賢治には、もうひとつその空隙を埋める手段を考えてもいいと思います。それは法華経です。宗教がそのひとの一部を形作ることは、世の中にたくさんの例を見ることができます。

無宗教と言われる日本人ですが、賢治は日本人にしては神様との距離がことのほか短かったのかも知れません。かつての西洋では神様の存在は人間にとっての一大事でした。今でもその存在との距離は我々よりは短いものと思われます。

自然科学万能の時代、空想、宗教など、これらのものを諷することもできますが、安易にしてはならないことのように思われます。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正12年頃





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18:31 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ふたりの役人』 宮沢賢治童話全集 3 より - 子どもの視点から見える大人
前記事『鳥をとるやなぎ』で登場の、友人藤原慶次郎とともに秋の風穂の野原へ、きのこや栗を取りに行った小学五年生のわたしは、東北長官一行が来るので入山禁止の立て札を見ます。

しかしふたりは好奇心から東北長官の風貌を見たいと思い、風穂の野原のはんの木の中に隠れて、その様子を見ることにしました。

しかし静まり返ったあたりに、次第に怖気づいたふたりは、気を紛らわすように、そこらに生えている初きのこを取り始めます。するとふたりの役人がやってきます。わたしと慶次郎は自分たちを捕まえに来たと思い恐怖におののきました。



しかし役人たちは、どうやらふたりを捕まえに来た様子はなく、栗の実などまいています。そして一人の役人が失敗だとつぶやきました。

こんな栗の木のないところに栗が落ちているわけがないというのです。どうやら東北長官一行にもてなしの一環で、栗拾いでもさせるつもりだったようです。しかしどうやら栗の木を一本見つけ、ふたりの役人はその木の下に栗の実を集めました。



役人たちの目的が自分たちの捕獲ではないと知ったふたりは、今のうちにこっそり逃げ出す算段を始めました。しかしその途中でふたりは、役人たちに見つけられてしまいます。そしてふたりが集めたきのこをを見て、きのこの在り処を役人たちは訪ねました。

しかしあちこちにはあるものの、ひとところにたくさんあるものではありません。役人たちは東北長官一行に手軽にきのこ狩りでもさせるつもりのようです。

そして私達の持つきのこに目をつけて、礼をするからそれを譲ってくらないかと提案しました。



役人たちは、それをひとところに再び生えているように生やし直しました。しかしどうもうまくは立たず、役人たちとふたりの子どもは思わず笑ってしまいます。

結局そこらにまとめて隠したあと、役人たちが摘んできたものとして、東北長官に差し出すことにしました。



後ほど聞いたことですが東北長官は大変満足して遊んで帰ったということです。以降二人の役人にふたりは時々会いましたが、二人はこちらのことをちゃんと覚えていないようですと物語は結ばれます。





いかにも小心、臆病、お人好しの小役人が、子どもの視点からユーモラスに語られます。子どもの大人に対する恐れもリアルに描かれています。気負いすぎた観念的なことが語られるわけでもなく、気軽に読める心象スケッチです。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正12年頃





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18:21 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『鳥をとるやなぎ』 宮沢賢治童話全集 3 より - 子どもと詩人の感性
小学校四年生の教室です。主人公のわたしに、友人藤原慶次郎が出し抜けに、鳥を吸込む柳の木の話をします。彼はその木をエレッキの柳の木と言いました。

エレッキとは電気のことを指しいるのでしょう、そこから電気磁石の効果による鳥を吸い込む光景が浮かべられ、慶次郎はエレッキの柳の木と言っているようです。

その話に、わたしは大いに興味を持ち、ふたりは約束して、その日の昼に、その柳の木を見に行くこととなりました。



河原には、大きな柳の木が並んでいますが、鳥は来ませんでした。しかし、しばらくすると、向こうの柳の木からもずの群れが飛び立ち、他の柳の木に落ち込むのを見ます。

そしてもずは、柳の木でしばらく鳴いていたものの、まもなく静かになってしまいます。死んでしまったかのようで、慶次郎は様子を確かめるべく、柳の木に石をほうりますと、再びもずの群れは飛び立ちました。それを繰り返します。

ふたりは、柳の木に、鳥を吸い込む力があることを、事実ではないとわかりながらも、そんなこともあるかもしれないと思い込みます。





知的な現実認識と、それを良しとしない空想を交えた、自然に対する畏怖の感情が交差します。少年少女期の独特の体験でしょう。

しかし大人になっても詩人である賢治は、これらの感情を身近に感じていたのかもしれません。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正12年頃





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18:26 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『どんぐりと山ねこ』 宮沢賢治童話全集 3 より - デクノボウ思想の前身
ある土曜日の夕方、一郎は山猫から裁判の仲裁を願い出るはがきを受け取り、翌日山の奥に出かけました。

かやの森を抜けると、馬車別当を従えた横柄な山猫が現れ、苦り切った様子で、手紙に書いてあった通り、どんぐりたちのらちのあかない争いを、どう裁いたらよいものかを一郎に相談しました。

どんぐりたちは、互いに自分が他のどんぐりに対して、いかに長けているかを主張して、われこそが偉いと譲らないわけです。そこで一郎は、自分が説教で聞いた話として、この中で一番馬鹿で、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのを一番偉くすればいいといいました。すると争いはあっという間に鎮まり、裁判は片付いてしまいます。

山猫はこれからも度々相談事があればきて欲しいと思い、その際の手紙の文言について話し始めました。しかしそれが場にそぐわないものとして一郎に笑われます。

山猫は一郎に、お礼として黄金のどんぐりをもたせ、帰りは馬車で遅らせます。ところで一郎が家に着くと、黄金のどんぐりはただのどんぐりに変わり、馬車も消えてなくなります。

それ以降、山猫からの手紙は来ませんでした。手紙の文言について、笑わずにいればよかったと一郎は思いました、と物語は結ばれます。



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一番偉いどんぐりを決める際、一郎は説教で聞いたお話として語り始めますが、説教とは法華経の「常不軽菩薩品」と思われます。

そしてこれは、賢治が、未来、理想としてかかげることになる、デクノボウ思想の前身が述べられているのでしょう。しかし未だ未熟で述べられていることは不完全です。説明不足でもあります。

そのため、物語全体からしたら、そこだけ浮いてしまっていて、取ってつけたような文章になってしまっています。

よってデクノボウ思想が述べられて、それをどんぐりたちが理解し、争いはおさまったのか、それとも、どんぐりたちのそれぞれが、誰しも馬鹿、もしくはそれに類するものになりたくなくて、争いがおさまったのか、よくわからないようなところがあります。

この作品の執筆当時、まだ、賢治は自己の思想を練り上げている途中で、作家としては未熟だったのでしょう。

そんな未熟さを残している作品を、もうひとつあげるとするなら、『ひのきとひなげし』などがあげられるでしょうか。やはり賢治の思想が述べられる箇所がありますが、文章全体からしたら、そこだけ浮いてしまっているような印象です。



話は変わりますが、一郎は山奥の裁判所への道を、途中で出会う自然物である、栗の木や、笛吹の滝や、ブナの木や、きのこの楽隊との会話によって方角を指図されてさまよい歩きました。また裁判が終わって帰る時も、きのこの馬車でわれ知らず送られています。

事実上山奥の裁判所はどこともしれない場所となっていて、そこは異界と言ってもいいでしょう。ファンタジーとしての仕掛けは、秀逸ですね。



初出『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』
初稿の執筆は大正10年9月19日



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18:21 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『貝の火』 宮沢賢治童話全集 3 より - 若き日の賢治が投影された物語
うさぎの子ホモイは、溺れかけたひばりの子を救い、そのお礼に、鳥の王から、貝の火という宝珠を受け取ります。

この宝珠は、透き通って、中で炎のような光が揺らめくのが見えます。そして、この宝珠を持つ者は偉人として崇められるのでした。

そして偉人としての役割を果たすなら、ますます輝きを増して、持つ者に一生つき従うと伝えられます。ホモイはこの宝珠を曇らせることのないよう大切に扱うことを誓います。



ところがホモイは、皆がかしずくのを調子に乗り、家来にしたずる賢い狐を伴って、罪意識もないまま悪行を重ねるようになります。

しかしどういうわけか貝の火は曇るどころか輝きを増しました。ホモイはその行動をエスカレートさせていきます。



しかしひばりを助けて貝の火を手に入れたのも忘れ、狐の悪巧みにそそのかされて、動物園を開くために小鳥たちを捕獲すると、その夜、貝の火はとうとう曇ってしまいます。

ホモイは慌てて父親と出かけ、捕まえた小鳥たちを開放しました。しかし時すでに遅し、貝の火はただの白い石になってしまい、ホモイの目の前で石は砕け、ホモイは失明します。

砕けた石は再び貝の火となったものの、どこかへ飛んでいきました。鳥達は一羽去り二羽去りふくろうだけが残って、たった六日しか持たなかったなと皮肉を言います。

ホモイの母親は泣き過ごし、父親はこんなことはよくあることだ、それを知ったお前は、いちばん幸いなのだと慰め、目はまた良くなるから泣くなと言って、物語は結ばれます。



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現存草稿の表紙には「因果律を露骨ならしむるな」とあることから因果律がテーマとして取り上げたのでしょう。ベースにあるのは仏教思想のようです。貝の火を法華経安楽行品第十四からのイメージとする説もあります。



また貝の火の所持は、賢治自身の立身の経験を表象していて、つまり東京での立身に失敗した賢治が、父にしか頼るところがないという状況は、この物語と重なるという説もあります。

その場合、賢治はホモイに、自身を投影していた事になります。そして、その結末は自身への自虐的な戒めになっているのかもしれません。

それにしても幼いホモイにとって、貝の火の所持は、あまりにも身に余る出来事であり、残酷でさえあります。



生前未発表
大正7年夏弟妹に読み聞かせ
大正10年に教室で読む
現存草稿は大正10年頃清書





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18:35 : 宮沢賢治童話全集 03 どんぐりと山ねこ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
宮沢賢治童話全集 2 ふた子の星 リンク
やまなし』 宮沢賢治童話全集 2 より - 独創的な空想力が高度に結晶化された散文詩
ありときのこ』 宮沢賢治童話全集 2 より - 緻密な観察眼から生まれる独自のユーモア
いちょうの実』 宮沢賢治童話全集 2 より - 旅立ちの希望と不安が語られる散文詩
雪渡り』 宮沢賢治童話全集 2 より - 大人と子どもの境界線
黒ぶどう』 宮沢賢治童話全集 2 より - 賢治の、知的、美的なものに対する嗜好
かえるのゴムぐつ』 宮沢賢治童話全集 2 より - 痛烈な風刺が込められた物語
気のいい火山弾』 宮沢賢治童話全集 2 より - デクノボウを表象する火山弾
ふた子の星』 宮沢賢治童話全集 2 より - 『銀河鉄道の夜』序章
めくらぶどうと虹』 宮沢賢治童話全集 2 より - 美を顕現するまことの力
黄いろのトマト』 宮沢賢治童話全集 2 より - 童心に寄り添う空想による一貫した手法





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18:23 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『黄いろのトマト』 宮沢賢治童話全集 2 より - 童心に寄り添う空想による一貫した手法
わたしなる人物が、子どもの頃、朝、学校に行くに途中に、博物館に立ち寄り、今では、博物館のはく製となっている蜂雀が、まだ生きていた頃のお話として語られる蜂雀を話者とした物語が、この作品の軸となっています。少し複雑な構成ですね。



ペムペルとネリの兄妹は畑を耕して、歌をうたいながら楽しく暮らしていました。蜂雀がもったいぶるように、始終この兄妹のことを可哀想にとつぶやきながら、ぽつりぽつりと話しを始めます。トマトに黄色い実がなったのを、兄弟は黄金製と思い込んでしまいます。

ある夕方に遠くの野原の方から、なんともいえない奇態ないい音色が聞こえてくるので、ふたりの兄妹は音のする方へ出かけていきました。音のするところへ到着してみると、どうやら何かの見世物のようです。

大人たちは金銀を払って見世物の小屋に入っていきます。二人の兄妹も入ることにしました。そこでペンペルは、自分たちの畑になった黄金のトマトを取りにうちへ帰りました。

ペンペルが行って戻ると、二人は入場口で、黄金のトマトふたつをを差し出しました。しかしトマトを差し出された大人は怒ってトマトを投げつけてしまいます。二人は傷ついて逃げて帰りました。



蜂雀はわたしには、もう悲しくて話せないといい、子供の頃のわたしなる人物の涙の回想と共に、物語は結ばれます。



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鉢雀の語るペンペルとネリの可哀想なお話ですが、誰しも子どもの時に、彼らと同じような経験をするのではないでしょうか。そう、大人に拒否される悲しみが描かれます。

ペンペルとネリは、黄色いトマトを黄金製と思い、それが通貨と同じ価値を持つと思ったわけですが、それらの思いは無残にも大人たちに傷つけられてしまいます。

読者がペンペルとネリくらいの少年少女なら、たいへん共感するのではないでしょうか。また、大人にも、ある種の通過儀礼の思い出として、切ない気持ちを呼び起こすかもしれません。



賢治の手法は、一貫して童心に寄り添います。それゆえ童話作家なのですが、一見大人に向けたであろう作品においても、その主張のされ方は、さほど変わりありません。

空想の足場が常に子どもの視点からなのです。あるいはそれらを純粋な視点といってもいいのかもしれません。ともかくそこからブレることがないのです。

空想は、我々を老いから防いで、子どもらしさのうちにとどめてくれるとはトールキンの言ですが、賢治の空想とその作品たちを、そんな角度から考察してみるのも面白いかもしれません。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正12年頃。一部大正13〜15年頃手入れ。



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18:24 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『めくらぶどうと虹』 宮沢賢治童話全集 2 より - 美を顕現するまことの力
季節は秋でしょう。城跡の真ん中の小さな四つ角山に、めくらぶどうの木がに虹のような実を実らせていました。そこへ、かすかな日照り雨が降り、大きな虹がかかりました。

めくらぶどうは、虹に語りかけました。虹への自分の敬いの気持ちを受け取ってもらいたい、そしてその美しさのためなら自分の命を百ぺん捧げてもいいとまで言わしめます。

しかし虹は、美しいのはあなたも同じだと、めくらぶどうをたしなめました。そして、すべての存在は、まことの力のなせる技で、現れては消えるけれど、皆限りない命であり、同じ喜びの発露であると語ります。

それを聞いても、めくらぶどうはおさまらず、わたしを導き、連れて行ってくださいと願うものの、虹は儚く消えていきます。





めくらぶどうの、美への求道的な探究心が語られます。そこには、賢治の生き方の姿勢が、端的に示されているのではないでしょうか。



まことの力とはなにを意味するのでしょうか。それは賢治にとって、美というものを顕現させる力に等しいものと思われます。具体的にそれは、やはり仏教思想から派生してくるものなのでしょうか。

賢治は終生それを頼りに創作活動を行ったものと思われます。それらすべての活動は、彼の作品世界に詩として昇華されます。



生前未発表
後に改題され『マリヴロンと少女』とし、大幅な手入れがなされます。登場者の植物、虹から人間へ変更されます





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18:27 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ふた子の星』 宮沢賢治童話全集 2 より - 『銀河鉄道の夜』序章
ふた子の星 一

天の川の岸の双子の宮で、毎夜星めぐりの歌に合わせて銀笛吹くことを役目としているチュンセとボーセ童子という小さな二つの星がありました。

ある朝、二人は空の泉に来てみると、大ガラスとサソリの星の死闘が始まりました。両者は相打ちになり、それを二人の童子が介抱します。

そして深い傷を負ったサソリを今夜の星めぐりに間に合うように二人の童子は送ってやりました。

しかし二人の童子は、自身の役目を果たすべく宮に帰るための時間がなくなりました。すると、空の王様の使者である稲妻が現れて、二人の童子を助け、時間に間に合うように運んでくれました。



ふた子の星 二

ある晩、乱暴者の彗星が、二人の童子をだまして連れ出し、海に落としてしまいます。二人の童子は、ヒトデとなって海底を這っていました。

しかし、二人が難儀していたところに海蛇が現れて、二人は、海の王様のところへ連れて行ってもらいます。海の王様は空の王様のしもべでもありました。

二人の童子は、海の王様の好意で、王様の使者である竜巻に連れられて、無事自分らの夜の役目を果たすべく宮にたどり着きました、と物語は結ばれます。



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賢治の童話処女作の一つです。もうひとつの童話処女作と思われる『蜘蛛となめくじと狸』が現実批判であるのに対して、この物語は純粋なる者への憧憬が語られます。その意味では『銀河鉄道の夜』の序章とも取れる作品です。

個人が世間に対する場合、こういうタイプの物語のほうが、かえって効力を持つものと思っています。批判は多くの場合、相対するものに、火に油を注ぐような結果におちいりがちになりかねないからです。

また、舞台は天上界であり、その幻想的世界は、視覚的にも感覚的にもたいへんファンタジックな描写がなされます。



さて、童話として子どもが読む場合にはなにも問題はありません。前述の通り作品世界は賢治が心の底で希求したものなのでしょう。ところが、大人が読む場合、この物語が処女作であるがゆえの、楽天性や甘さがいささか目につきます。

しかしそれが、いかに止揚されて『銀河鉄道の夜』にまで至るのかを考察することが、賢治の童話の骨格をどうとらえるかに関わる重要な問題になると思います。



生前未発表
大正7年に『蜘蛛となめくじと狸』と共に家族に読み聞かせた童話の処女作の一つ
現存草稿は大正10年頃



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18:10 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : - : チキチト :
『気のいい火山弾』 宮沢賢治童話全集 2 より - デクノボウを表象する火山弾
ある死火山の裾野に、ベゴとあだ名される、大きな丸い黒い石がじっとすわっていました。ベゴというあだ名は、そこら周りに散らばっている、角のある石によってつけられたものです。

べゴ石は、気が良く、温厚で、一度も怒ったことがない事から、周りの角のある石からは、からかわれ放題でした。

べゴ石は、周りの石ばかりではなく、隣に生えたおみなえしや、どこかから飛んできた蚊や、自身に生えた苔にさえ馬鹿にされる始末。



そんなとき地質学者がやってきてベゴ石を典型的な火山弾と認め、東京帝国大学に標本として送られようとしています。

べゴ石は、自分の行き先をあまり楽しいところではないとしながら、それぞれは自分にできることをしなければならないと受け入れ、人によって運ばれるところで、物語は結ばれます。





岩石に興味のあった、賢治ならではの物語になっています。賢治の故郷では、賢治によって叩かれたことのない石はない、とまで言われています。

ベゴ石という火山弾が表象するものは、賢治が創作活動で打ち出した、『雨ニモマケズ』のデクノボウというあり方を思わせます。

つまり賢治が理想とした存在のあり方を、端的に表現しています。賢治は、石という存在から、デクノボウというあり方に導かれていったのかもしれません。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正10年頃





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18:18 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『かえるのゴムぐつ』 宮沢賢治童話全集 2 より - 痛烈な風刺が込められた物語
林の下を流れる深い堰のほとりにカンがえる、林の中にブンがえる、林の向こうのすすきの影にベンがえるが住んでいました。



三匹は夏の夕方にそろって雲見をします。人間でいうところの花見や月見のようなものです。雲の形はべネタ形(平たい形)が理想でした。それは自分たちの顔や姿に似ているからです。

その雲見の時にヘロン(人間)界でゴム靴が流行っているとの噂が話しに登り、カンがえるは、以前チブスで苦しむのを助けたことのある野ねずみに、それを入手させます。

野ねずみは恩返しのために、それを請け負いますが、しかしそれは、恩を返しすぎたというほどの大変な苦労を伴いました。

早速カンがえるはゴム靴を加工して、自分の身の丈に合わせて整形しました。



翌々日の雲見の時、ゴム靴を履いたカンがえるは、ブンがえるとベンがえるの羨みの対象になりました。

またそこへ、美しいかえるの娘、ルラがえるが婿探しにやって来ました。ルラがえるは、ブンがえるとベンガエルのアピールには目もくれず、カンがえるを選びました。

それはゴム靴のなせる仕業です。それ以外かえる三匹の見分けはつかなかったからです。カンがえるとルナがえるは式の日取りを決めます。

カンがえるは有頂天です。ブンがえるとベンがえるは妬みの心から、カンがえるを痛みつけるための相談をしました。



さて式の日です。ブンがえるとベンがえるは式の前に、カンがえるの手を引いて、萱の刈り後を歩かせ、ゴム靴をボロボロにしてしまいます。

これではカンがえるがカンがえるである証が立ちません。しかし、なんとかルラがえるはカンがえるを見分け、式は取り行われました。

さらにブンがえるとベンがえるは、式の後、新婚旅行に同席すると称して、木の葉をかけて隠してある穴の上にカンがえるを釣れ出し、落とそうとします。しかしカンがえるが抵抗したため、三匹はそろって穴に落ちてしまいました。

ルラがえるは、父に助けを求めました。しかし、皆、酒に酔って寝ています。ルラがえるは、途方に暮れました。



それから数日後、ようやくルラがえるの父は目覚め、娘が青くなって寝ているのに気づきます。

父親は娘にわけを聞くと、娘は式後の出来事を話します。父親は皆を引き連れて、三匹のかえるを助けに行きました。そして三匹は穴から引き上げられます。三匹はもう半分死んでいました。しかし、皆の看護で生還します。

カンがえるの結婚生活は始まり、ブンがえるとベンがえるは改心したと物語は結ばれます。





賢治の思想が色濃く出た物語であると思います。三匹のかえるは、だれがどうのというのはありませんが、嫉妬、羨望、傲慢を表していて、それが戒められているのではないでしょうか。動物寓話によく見る展開ですね。

初期形ではタイトルも『蛙の消滅』であり、三匹のかえるは死んでいるので、賢治の激しい思いをうかがい知ることができます。

またべネタだのヘロンだの、かえるの間で用いられる言葉は、賢治の造語でしょうか。特定の作家にはよく見られる手法ですね。



生前未発表
初題『蛙の消滅』
初期形清書は大正10年秋頃





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18:28 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『黒ぶどう』 宮沢賢治童話全集 2 より - 賢治の、知的、美的なものに対する嗜好
赤ぎつねに誘われた子牛は、共にベチュラ公爵の屋敷に忍び込みます。子牛は書斎でシナの地理の本を読みたいと思ったり、衣装部屋では公爵の子どもが着ていた赤い上着を見てみたいと思うものの、赤ぎつねは無関心で先へ進まざるを得ません。

二階の一室でふた房の黒ぶどうを見つけた赤ぎつねは、子牛にすすめながら早速それを食べ始めます。ところが階下から音がして、人間が階段を登ってくると、赤ぎつねはさっと逃げ、子牛は人間に見つかってしまいます。

子牛は迷ってきたんだねと言われ、ヘルパ伯爵の二番目の娘に、黄色のリボンを結ばれようとするところで物語は閉じます。





大胆な赤ぎつねとナイーブな子牛の取り合わせが印象的です。赤ぎつねは現実主義者のそれで、花より団子。黒ぶどうに夢中です。

それに対して子牛は知的、美的世界に興味を示します。賢治はおそらく子牛の心情に心を寄せています。そして最後に、屋敷を訪れた娘によって、この子牛にリボンまで結ばせています。

また、赤ぎつねのずる賢さにも注目したいところです。なぜなら、賢治は前記事の『雪渡り』で、きつねに昔話などでよく描かれるステレオタイプな性質を与えず好印象に導きました。それに対して、この物語では、よく描かれるきつねを、そのままトレースしています。きつねのキャラクターの書き分けが見られるのです。



生前未発表
大正12年頃の清書、初稿か否かは不明





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18:26 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『雪渡り』 宮沢賢治童話全集 2 より - 大人と子どもの境界線
雪渡り その一(子狐の紺三郎)

雪がすっかり凍ってまるで大理石のように固くなった日、小さな雪ぐつをはいた四郎とカン子はキックキックキックと野原にでかけます。

そして「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。狐の子ぁ、嫁ほしい、ほしい。」と森にむかってさけぶと、森の中から白い子ギツネ紺三郎が出てきます。

紺三郎は狐が人を騙すのは嘘であり、「騙されたという人は大抵お酒によっていたり、臆病でくるくるしたりした人」だといい、二人を狐の幻燈会に招待しました。

この催しは、十一歳以下の人間が対象です。二人は、三人の兄たちも呼ぼうとしますが、年齢制限で叶いません。



雪渡り その二(きつね小学校の幻燈会)

十五夜の月が出て雪の凍った夜、四郎とかん子は、きつねにあげるお餅を持って幻燈会にでかけます。きつね小学校の生徒たちと一緒に『お酒を飲むべからず』、『罠を軽蔑すべからず』、『火を軽蔑すべからず』が上映されました。

そして、きつねの作ったきびだんごが四郎とかん子に振る舞われます。二人はこれを食べました。これを食べるということは、きつねが人を騙すということが嘘であると信じた証となるので、きつねたちは大喜びしました。

そして「大人になっても嘘をつかず、人を嫉まず、私どもきつねの今までの悪い評判をすっかりなくしてしまう」ことを期待する、という紺三郎の閉会の辞で幻燈会は幕を閉じました。

きつね小学校の生徒たちは感動して涙を流しています。子ぎつね紺三郎は今夜のご恩は忘れませんと言いました。四郎とカン子は、お辞儀をして帰りました。三人の兄たちが迎えに来ています。



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ぶどう水』同様、背景で四郎とカン子が冬の寒空の中を「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」と歌う童謡が、リフレインするような仕掛けがしてあります。これによって、賢治のファンタジー世界に一気に引きこまれます。



また、このお話も、『林の底』同様、土台には日本の昔話が参照されています。この物語では、あのステレオタイプなきつねのキャラクターに関することが問題とされているのでしょう。そう、あの人を化かすというきつねです。

創作童話をする作家は、どうもこの昔話の、ステレオタイプのきつねの設定を弄りたがるようです。賢治のこの物語に比べれば、まだまだ改変量は少なめですが、新美南吉の『ごんぎつね』も、そんな作品の一つでしょう。

お話は、子きつねの紺三郎に、四郎とカン子が大人になっても、嘘をつかず、人を嫉まず、きつねの悪評を正す人になるでしょうと結ばれます。

昔話では人を化かすきつねが、この物語では道徳を語っているのです。賢治の、きつねの心象を変えようとする試みと言ってもいいでしょう。



またこの上映会、十一歳以下の人間が対象で、四郎とカン子の兄たちは呼ばれません。

この線引きは、賢治にとっての子供と大人の境界線を意味しているのではないでしょうか。たいていの大人にはもう手遅れで、無駄口にしかならないものとしての、幻燈会の差別化の試みとも取れます。ともかく、この十一歳という年齢は、賢治にとって重要な設定であるように思われます。



初出「愛国婦人」(大正10年12月、大正11年1月)



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18:39 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『いちょうの実』 宮沢賢治童話全集 2 より - 旅立ちの希望と不安が語られる散文詩
高空を鋭い霜のかけらが風に流されてゆきます。

もう晩秋と思われき、寒い夜明け前のこと、母なるいちょうの木は、千粒の子である、いちょうの実との別れに際し、寂しさのあまりすべての葉を落としてしまいました。

子であるいちょうの実も、母の慈愛に感謝し、兄弟姉妹との別れを惜しみ、口々に今日の旅立ちの希望と不安を述べます。

やがて朝日が登り、北風が吹いて、母親と子供たちは、散り散りバラバラになりお別れです。



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感じられるのは、去っていく季節への情感であり、それは、時の経過を含んだ散文詩の形をとっています。その意味では『やまなし』と同系統の物語とも言えます。

また、実際の賢治の家族の物語としても読めます。故郷を出て東京に向かった時の、賢治の母に対する思い、それに兄弟姉妹への思いが吐露されているのではないでしょうか。

賢治はいちょうの実の一つであったのです。彼の東京での旅立ちの希望と不安が語られているように思われます。

さらには、千粒のいちょうの実は、賢治の創作した童話にも例えることができるでしょう。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正10年頃



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18:17 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ありときのこ』 宮沢賢治童話全集 2 より - 緻密な観察眼から生まれる独自のユーモア
夜明け前、苔が一面を覆い霧が降る、そんな中をありの歩哨(見張りの兵隊)が任務を遂行しています。そして向こうからやってくるありの伝令(命令を伝える兵隊)を銃剣を突き付けてくまなく調べ、何事もないと分かると伝令を通しました。

やがて霧が少しおさまり、あちこちで草や木が水を吸い上げる音が聞こえてくると、さすがのありの歩哨も眠気でふらふらしました。

そんな時、そこへ二人のありの子どもがやってきて、突然現れた大きな物体に驚きます。二人は、眠気でふらふらしているありの歩哨に、それが何かと訪ねました。

言われて気づいた歩哨は自分の任務不行き届きを隠すように、子どもたちがさぞ大変な発見をしたとばかりに褒め称え、二人を中佐と陸地測量部に伝令に出します。

一人の子どもはそれを中佐に知らせると中佐は笑いました。子どもは、それがきのこというものですぐ消えてしまうから気にするものではないことを知らされます。

陸地測量部に出向いたもう一人の子は、あんな物、いちいち地図に記入していたら、きりがないと言われます。

それを歩哨に伝えるべく二人の子どもは歩哨のもとに帰ってきました。歩哨は二人の子どもの話を聞き、きのこも知らない自分の至らなさに、きまり悪そうにしました。

そうこうしているうちにも、きのこはとぼけたように光を発し、地面から伸び上がってきます。二人の子どもは笑いました。

やがて朝日が差すと霧は晴れ、またありの歩哨は銃剣を南の方角に構えましたと物語は結ばれます。



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動物寓話ですね。ありの歩哨に例えられた人間が、風刺されているのです。

また自然の描写が優れており、物語りに引き込まれます。自然を緻密に観察している賢治ならではの作品です。夜明け前の草木が水を吸い上げる音など、いくら自然が身近にある人であっても、果たして注意を向けるでしょうか。

この緻密な自然観察眼は、人知れず生えてくるきのこの描写など、独特のユーモアに通じています。



初出「天才人」(昭和8年3月)
『朝におもむいての童話的構図』というタイトルもあり。賢治は当初から『ありときのこ』というタイトルで書いていたもののそれを消しています





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18:15 : 宮沢賢治童話全集 02 ふた子の星 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
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