子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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グリム童話(KHM41) 『コルベスさん』 おそらく存在するであろう物語の隠喩
めんどりとおんどりが、あるとき旅に出ることになり、おんどりが美しい馬車を作ります。馬車は四匹のネズミに引かせました。

物語が綴られてゆく過程で、この一団には、新たな成員が、猫、石うす、卵、あひる、留め針、縫い針という具合に加わっていきます。

そして、彼らは、コルベスさんのところへ向かっていることが、突然明かされます。そして、留守にしている彼の家につくと、各員は所定の位置に着くのでした。

そこへ、コルベスさんが帰宅すると、次々に彼を襲います。しかし、コルベスさんが襲われる理由が、一切説明されません。



第七版では、はっきりと、コルベスさんが、一団によって殺されたという記述があります。しかも物語の最後に、”コルベスさんはきっと、とても悪い人だったんですね。”と取ってつけたように、コルベスさんが襲われる理由を示す一文が添えられているのが気になりました。

これは明らかに、改訂の際に物語をわかりやすくするためのものでしょうが、物語が語らんとするものを決する大きな一文です。もっと、慎重に扱うべきものだと思いました。第七版に至るまでの改訂は、ある結末への、恣意的な誘導に見えてしまいます。強引にそうしたという感じがぬぐえません。

そう、この物語、版が若いほど、何が言いたいのか、よくわからないのですが、版を重ねるたびに、それを補う修正が施されます。しかし、修正前の物語は、物語が語られた、当時の民衆の間では、何らかの隠喩として機能していた可能性があります。



例えば、これは深読みかもしれませが、コルベスさんが襲われる根拠が、はっきり説明されていない以上、コルベスさんは無実の人だった可能性もあるのではないでしょうか。

すると、第七版へ向けられた改訂は、有無を言わせない、多数派の正義のようなものが連想されてきて、出版当時には、世間に肯定的に受けいられたことが予想されますが、多様性を重んじる現代人においては、この物語を後味の悪いものと、しはじめます。このあたりが、恣意的な誘導と感じられる部分でもあります。



また、この物語の、初動を司っているめんどりとおんどりは、このブログでは扱いませんでしたが、(KHM10)『ならずもの』のそれを思い出させます。わたしは、そこで、めんどり、おんどりを、トリックスター的なものとしてとらえました。つまり創造と破壊を司るものとしての登場者です。

この切り口からも物語を読み解いていけるだろうと思いますが、類似の物語がまだあるので、後の課題としておきます。


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18:26 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM40) 『盗賊の婿どの』 語り継がれる知恵としての女性的直感
何かを判断する場合、現代では、とかく思考が優先されるので、それは、申し訳程度につけられるくらいの根拠にしかならないかもしれません。それは直感ともいうべきものです。この物語では、その直感が、モチーフの一つとして、重要な役目を果たしています。

そして、この物語では、特に、女性の直感が扱われます。女性の勘と呼べばよいのでしょうか。鋭いと言われるそれですが、世の女性に、民話として語り継がれてきた、知恵として考えることもできると思います。

勘というと聞こえが悪いかもしれませんが、直感とは、ある意味、出来事の始めから、全人的な判断を可能とするものです。

つまり思考を伴った客観的判断は、分析的で、判断材料がそろわないと、いい判断が出来ないのに対して、つまり初動には不利があるのに対して、直感は、間違いを伴いますが、始めから遠くを見通すことが出来るのです。



主人公の父親は、条件から考えて、娘の結婚相手に、ある男を申し分ないと判断します(ここでは金持ちか、そうでないかという客観的判断)。

ところが本人は、直感的に、これを避けようとします。実際、父親が娘の結婚相手に考えていた男は、人殺しであったわけですから、娘の直感は正しかったわけです。そして、この物語の結末では、娘の婿になるであろうだった男は裁かれています。

つまり、この物語は、女性の配偶者選びの、重要な判断基準に、直感を採用し、ハッピー・エンディングに導かれていることとなります。



また、このブログでは飛ばしましたが、(KHM38)『奥さん狐の結婚式』の奥さん狐の配偶者選びは、外観の特徴を選択基準にしたものでした。

そして、この外観が、果たして自分に有効であるのかを判断していたのは、女性の直感でしょう(思考を伴った客観的判断ではなく、それが、好きか嫌いかという、直感を伴った主観的判断だと思われます)。

そう考えると、直感は、この物語でも、女性の配偶者選びに、重要な役割を果たしている、ということになります。



しかし、直感は、冒頭で述べたの理由から、実際、現代の女性が、これをどれくらい頼りにしているのかは、疑問ですが...。


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20:06 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM39) 『こびとと靴屋』 現実に紛れ込む異界からの使者
グリム童話には様々な小人が登場します。わたし自身、お気に入りの小人が、たくさんいます。人を助けるもの、ちょっといたずらをするもの、彼らは人のかたわらに現れては、人とは違う次元で行動しています。それが人々に不思議な出来事をもたらします。



ビアトリクス・ポターの『グロスターの仕立屋』は、この物語を下敷きにしたのではないでしょうか。小人をねずみに...、出来上がる靴を仕立てる洋服に置き換えると、お話の大筋がピッタリと重なります。

また、この物語、第七版までには、更に、違った小人のお話が二話加えられて、三部構成の物語となります。



話が飛びますが、トールキンが、自身の作品で創造したホビット族も、小人の一種でしょう。これは、彼の空想(ファンタジー)の産物ですが、物語の中で、実にいきいきと活躍していました。

小人とは、ファンタジー小説のパーツとしては、かなり好まれているのだと思います。彼らは、物語の中で、非常に魅力的な存在として動き出します。

わたしが子供の頃好きだった、日本初のファンタジー小説、佐藤さとるの、『コロボックル物語』のシリーズも小人の話でした。

この、グリムの物語にしても、ファンタジーとして読める要素があると思います。



これらの物語に登場する、小人という存在を、どうとらえたら良いのでしょう。それらは、我々の一元的な自然科学的思考の中では存在できません。しかし、彼らは、確かに我々の生活の影に潜んでいるように思われてなりません。

我々はもう少し現実というものを、広くとらえてもいいのかもしれません。


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18:39 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM37) 『おやゆびこぞう』 異界の者のとぼけた冒険
お百姓夫婦には、子どもがいませんでした。そこで二人は親指ほどの大きさでもいいから、子どもがほしいと願います。するとなんと、奥さんが身籠ります。そして生まれたのが、夫婦が願った通りの、親指ほどの大きさの親指小僧です。

彼はすくすくと立派に育ちます。とは言っても大きさは相変わらず親指サイズですが...。はっきり言って,異界の存在であることは明白です。小人のたぐいでしょうか。彼のキャラクターは、飄々としていて、つかみ所がなく、ユニークで読む者を、あるいは聞く者を楽しい気持ちにさせてくれます。



親指小僧は、夫婦を助けよく働きます。しかし、そんな様子をこっそり覗いていた、通りがかりのとある男たちは、親指小僧を見せものにして、金儲けをしようと、良からぬ計画をねっています。

そして男たちは、夫婦に小金を掴ませて親指小僧を貰い受けようとします。夫婦はもちろん目に入れても痛くないほど、かわいがっていた親指小僧を手放すつもりはありません。親指小僧はというと、持ち前の怖いもの知らずの気持ちから、両親に売っちまいなよと気楽なことを言っています。

親指小僧は、夫婦の子どもに違いないのですが、やはり異界の存在でもあります。その超人的能力から、何も心配することはないのかもしれません。何よりすばしっこく知恵者です。親指小僧は夫婦に金を受け取らせ、自分は逃げてくるからといって出かけてゆきます。



しかし思うようには、なかなか行かないものです。親指小僧を襲う、災難に次ぐ災難。こうしてこの物語は、親指小僧が夫婦のもとを離れてから帰ってくるまでの、とあるユニークな冒険譚となります。

親指小僧の冒険は、始めの男たちの元を逃れると、次には泥棒との掛け合い、そして牛の胃袋の中、そして狼の胃袋の中と、次々と場面を変えて、自分に試練を与えるものとの、とぼけたやりとりを交わしながら、それらをかわしてお話は進んでいきます。そこがユーモラスに描かれます。

かわすというのは、決して逃げているわけではなく、状況に新しい有意義な切り口を開いている、とでも表現しておきましょうか。また、これらを読むと、彼が、ある種の自由の体現者であることが感じられます。

そしてやはり狼の胃袋は、『狼と七匹の子やぎ』『赤ずきん』のお話と共にグリム童話のお約束のごとく、最後にハサミで切り開かれてしまうのでした。親指小僧は、狼の胃袋の中からお百姓夫婦に助けられて、ようやく彼らのもとに戻ります。そして、服が傷んでしまったので、新しくこしらえてもらいました。



これからも、この親指小僧を主人公としたお話は、時々出てきます。楽しい物語です。日本の『一寸法師』は類話と思われます。


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19:11 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM36) 『テーブルよ食事のしたく、金ひりろば、こんぼうよ袋からとびだせ』
正直者である三人の息子たちが、家で飼っている嘘つきのやぎに、おとしめられて、仕立て屋である親に、家から追い出されます。息子たちは、独立せざるおえません。



そして、それぞれ修行して、これで堂々と家に戻れると思いきや、上二人の息子たちは、修行の成果である宝物を、途中立ち寄った宿屋の亭主に奪われ、元の木阿弥です。

三人目の末っ子が、これを正して、宿屋の亭主を懲らしめます。冒頭に登場したやぎも、それ相応のバチが当たり、正直者が報われるというお話しになっています。

民話によくある、末子が活躍するというお話の類型でしょう。



また、グリム童話で、数々の物語に登場する仕立て屋ですが、この物語では主人公ではありません。主人公の息子たちの父親という設定です。このような登場も仕立て屋には数多くみられます。このような場合、いつも仕立て屋に割り当てられていたキャラクターは表に出しません。



なお、題名が異常に長いです。三人の息子たちが、修行して、それぞれに得る宝物の羅列ですが、日本語訳の各位は、内容を伝えるべく、工夫をこらして訳しているようです。この題名で、物語の内容を察することができるので、記事の副題は考えませんでした。


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18:13 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM34) 『かしこいエルゼ』 ハンスの物語の女性主人公版
(KHM32)『ものわかりのいいハンス』の女性主人公版とも言える物語です。ハンスとは、人間のタイプが異なりますが、愚かな女性主人公エルゼが描かれます。彼女は、両親にかしこいと言われ続けて育ったようです。それで自分でもそう思い込んでしまったのでしょうか。それはともかく、読者には、彼女が賢いという根拠は、伝わらないでしょう。



確かに彼女の意識は細かいことによく気づきます。しかし、そこで立ち止まってしまって、思考がその先へ進んでいきません。ゆえに多角的な思考はもちろん、反省的な思考も出来ません。

そして、不思議なことに、この家の両親、及び、その取り巻きが、娘と同じような思考回路をもっていて、彼らは、本人に反省をうながすどころか共鳴してしまうのです。



両親は、年頃になった彼女を、結婚させようとするのですが、タイミングよくハンスという男が遠くから現れます。ハンスは、そんなにかしこい娘なら結婚しましょうと承諾します。

しかし、しばらく彼女と暮らしてみて、その実態をまざまざと知ると、家から追い出してしまいます。彼女は、例の思考癖から、自分が誰なのかすらも分からなくなっています。そして、追い出された彼女は、村を出て行ってしまいました。その後の消息は書かれていません。



冒頭で述べた通り、この物語には、『ものわかりのいいハンス』のハンスにも通じる、一種の狂気を感じます。共に登場人物の多くが、どこかおかしいのも共通です。

この物語群、憶測に過ぎませんが、近親婚を重ねて、遺伝的な障害が発生してしまっている、家族と近隣の物語なのでは、と疑ってしまいました。

民話は実話をモチーフにすることもあります。よって、ヨーロッパの貴族の中で行われていた、近親婚を皮肉ったものなのでは、とも考えられないでしょうか。

また、この物語でも、愚か者ではありませんが、遠いところから、ハンスが登場しています。何かを暗示するためなのではとも思ってしまいました(グリム童話でのハンス=愚か者という多くの事例から)。遠いところから、というところにも、引っかかるものを感じます。深読みですね。こうして読むと、謎がどんどん深まります。

しかし、一方、これらは、民話が、口承から記述となった時の、一種の弊害であって、単なる笑い話であったという可能性もありますが...。



それにしても、この結末、現代人なら、もう少し救いのあるものを望むのではないでしょうか。彼女を見捨てることは簡単ですが、救いあげることも出来たのではないでしょうか。

例えば、その場合、彼女のキャラクターから、現代小説における、ドストエフスキーをはじめとする作家が用いる、白痴のテーマのようなものを想起したりしてみました。しかし、やはり民話ですので、そこまで複雑なものは望めませんね。


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18:21 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM33) 『三種のことば』 人間のとある根源的な欲求を叶える者
とある伯爵が自分のおろかな息子に手を焼いていたため、機会を与えて、名高い大先生のもと、習い事をさせる話ですが、一人目の先生からは犬の言葉、二人目の先生からは鳥の言葉、三人目の先生からは蛙の言葉しか習得しません。

伯爵は呆れて、息子を殺してしまおうと家来に命じます。伯爵の家来はそんな無慈悲なことができずに伯爵の息子を密かに逃します。



それにしても、読みながら、伯爵の判断こそ表層的であり、おろかなのではと思いました。

ことのはじめにまず、動物の考えることがおろかなことだと誰が決めたのでしょう。人間中心主義ですよね。伯爵の息子は、彼らの声をを聞くことができるのです。また彼らに頼み事もできるのです。動物とは、人と違った優れた能力をもっているものです。

人間の古くからある願望として、動物と言葉をかわしたいという欲求があります。動物寓話の歴史をたどれば、それは明らかなことです。この物語の根も、そこに通じているものと思われます。このモチーフはグリム童話なら『忠義なヨハネス』でヨハネスがカラスのことばを解する場面にも見られました。



そもそも大先生達も、動物達の言葉を知っているということが前提ですよね。大先生だからこそ、それらのことが可能であったということもできると思うのです。これは、動物の言葉を解するということはまれなことであるという立場からです。

そして彼らは伯爵の息子の適性を見抜いていたのではないでしょうか。そして伯爵の息子はそれぞれの大先生から合わせて三種も言葉を覚えてしまいました。



伯爵の元を離れた息子は、これら覚えた言葉を使って難事を解決し、最終的には法王となります。改めてイメージしてみてください。この、ある意味、超人的な能力の使途は、法王としての伯爵の息子にふさわしいと思いませんか。


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18:14 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM32) 『ものわかりのいいハンス』 ハンスにくくられるキャラクターの謎
ここに登場するのは、幼稚園児のような、ママのいうことをよく聞く”おりこうさんのハンス”なのですが、明らかに年齢設定は高く、結果として、常人が描かれているようには思えません。



ハンスは、その時その場ですべきことには、おおよそ頭が回りません。

それを母親に指摘されるのですが、その指摘は、もうすでに終わったことに対するものであるにもかかわらず、ハンスは、次の行動で、それらの助言をそっくりそのまま実行するのです。ここが、ものわかりのいいと言われる所以なのでしょう。しかし、それらの行動は場違いも甚だしいものとなります。

お話し最後には、子牛や羊の目玉を繰り抜いて、グレーテル(恋人?)の顔に投げつけるなど、ハンスには人間性さえ感じられません。

ものわかりのいいとはなんと皮肉な題名なのでしょうか。彼は、愚か者そのものです。

そんな息子に軽く注意するだけで、たいして咎めもしない母親の人格も疑われます。また、お話し最後にグレーテルは”ハンスのお嫁さんになることをやめました”と発言していますが、こんな小事で、このお話しが結ばれていることにも違和感をおぼえます。



よって、これらのことから、この物語の登場人物すべてに、狂気さえ感じられるのでした。ここに語られているものの正体を判断しかねています。民話というものはたいてい、最終的に聞くものの共感を得るべくして形をなします。だとするなら、この物語は笑い話のたぐいと考えればよいのでしょうか。

ハンスの、この特有のキャラクターはグリム童話第一巻に顕著です。



また、このハンスですが、ヨーロッパ民話にも、よく出てきます。そこでも、やはり愚か者である片鱗はうかがわせるのですが、大抵は、我々の想像できる、血の通ったキャラクターとして登場します。

時には、感動さえ覚える物語の主人公として描かれることもあります。しかし、時折、このグリム童話第一巻にみられるようなハンスも登場します。これをどう受け止めるべきなのでしょうか。

そしてなんと日本にも類話があります。『だんだん教訓』です。日本の物語では主人公は最後死んでいます。





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18:52 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM31) 『手を切られたむすめ』 信念を持つ者と持たない者
悪魔と、粉屋が契約を交わします。しかし、結果的に、それを粉屋は悪魔に騙されたと思ったのでしょう。もしくは彼の早とちりがそういう状況を招きました。彼は窮地に立たされます。彼は自分の娘を、悪魔に売り渡していた事になっていました。

この娘の父親は、悪魔に対して、抵抗はするものの、最終的には我が身の命を守ることしか考えませんでした。娘の清めのおかげで、彼女に近づくことができない悪魔に脅されて、自分の命惜しさに、とうとう娘の手首まで切り落としてしまいます。

これで悪魔は、娘が自分を身を清める手段を失ったであろうと考えたようですが、そうはいきませんでした。悪魔は相変わらず娘に近づけません。

父親は、手を切り落とされた娘に対して、せめての償いのつもりだったのでしょうが、悪魔からもらった金品で、一生楽に養ってやる、などと口にしていますが、金だけ与えていれば、人生は安泰になるわけでもなし、よくもこんなことが言えたと、彼の、人生に対する感受性のとぼしさに人間性を疑います。

娘は、こんなことをされて、もうどうして一緒に暮らして行けるでしょう。娘は家を出て、放浪します。親子関係は破綻します。



この不幸な成り行き、この父親には何が足りなかったのでしょう。それはどんな境遇であれ、日々を肯定し、満足して生きている人間なら自然と身につくものと思われます。それは、信心深さと、しっかりとした信念です。

この物語の父親は、貧しいなら貧しいなりに、正直に暮らせばよかったのです。そうすれば悪魔に付け入られる隙も、与えることはなかったでしょう。



この父親と対極の存在として現れるのが、この国の王さまです。手無し娘が父親の家を出て、放浪していたところを見つけ、彼は手のない娘の姿など怪しみもせず、その信心深い本性を見ぬき妻にします。

王様は戦に出てしまいますが、悪魔の介在などがあり、戦地で、娘に”とりかえ子”が生まれたなど聞かされますが動じません。言い方を変えれば、彼は神様の子である人間をやめなかったのです。強い信心と信念の持ち主です。

しかし戦争が長引く中、しつこい悪魔の妨害で、とうとう、手無し娘と、彼女の子どもは、城を追放されることとなりました。これは、心優しい、王の母親のとった最善の策でした。



またしても、手無し娘は放浪します。しかし、彼女は、森の中の天使の家にたどり着きます。すると、そこで、なんと失ったはずの手が生えてくるではないですか。

やがて、戦争を終えた王さまも、手無し娘を探して旅に出ます。そして、王様も、天使の家にたどり着くのでした。二人は再会します。そして、子供を含めた三人で再び城に向かい、ハッピー・エンディングを迎えます。

これら、すべて、強い信心や信念のなせる技として描かれています。物語に、強い道徳性を感じます。

日本にも『手なし娘』という類話があるようです。



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18:31 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM001-030) リンク
グリム童話(KHM01) 『かえるの王さま』 妖精物語とは
グリム童話(KHM02) 『猫とねずみのとも暮らし』 動物寓話、道徳的視点
グリム童話(KHM03) 『マリアの子』 真実の告白
グリム童話(KHM04) 『こわがることを習いに出かけた若者の話』 とある英雄の弱み
グリム童話(KHM05) 『狼と七匹の子やぎ』 優れた勧善懲悪の物語
グリム童話(KHM06) 『忠実なヨハネス』 民話とファンタジーの共通項
グリム童話(KHM08) 『旅芸人のいたずら』 とある自由気ままな生き方
グリム童話(KHM09) 『十二人の兄弟』 試練の物語、道義的に求められているもの

グリム童話(KHM11) 『兄と妹』 ハッピーエンディングを指向する民話
グリム童話(KHM12) 『ラプンツェル』 語られる民話から書かれた童話へ
グリム童話(KHM14) 『三人の糸つむぎ女』 存在感のある三人の醜女
グリム童話(KHM15) 『ヘンゼルとグレーテル』 民話にしては目を引く文学的装飾
グリム童話(KHM17) 『白いへび』 動物との会話
グリム童話(KHM18) 『わらと炭とそら豆の旅』 由来譚の物語
グリム童話(KHM19) 『漁師とその妻』 欲かきのお話し
グリム童話(KHM20) 『ゆうかんな仕立て屋さん』 皮肉の込められた題名について

グリム童話(KHM21) 『灰かぶり』(シンデレラ) 強い共感性を持つ普遍的物語
グリム童話(KHM22) 『なぞなぞ』 権力者の、道徳的なものに関する、心の持ち方
グリム童話(KHM24) 『ホレおばさん』 世界に広く同系の型を持つ物語
グリム童話(KHM25) 『七羽のからす』 兄を救う妹という類型
グリム童話(KHM26) 『赤ずきん』 グリム童話におけるステレオタイプな狼の末路
グリム童話(KHM27) 『ブレーメンの町楽隊』 逃走の先にある楽しい世界
グリム童話(KHM28) 『うたう骨』 運命を司る異界の存在
グリム童話(KHM29) 『三本の金髪を持った悪魔』 徳を持つものと持たざるもの


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グリム童話(KHM29) 『三本の金髪を持った悪魔』 徳を持つものと持たざるもの
思ったのは、徳を持つものと、持たざるものの差でした。持つものとはもちろん主人公の男の子のことです。持たざるものとは性悪な王さまのことです。



男の子は生まれからして違っています。貧しいながらも福の子として生を受けています。将来は王さまの娘と結婚さえするということわりです。それを聞いた王さまは嫉妬し、男の子を、生みの親から離し、川に流して殺してしまおうとします。そんなところを男の子は親切な夫婦に拾われて大切に育てられます。

歳月が過ぎ、王さまは男の子が生きていることを知リます。そして、またしても男の子を殺そうとするのですが、うまくいきません。男の子は無敵です。その強運からか、関わるもの全てを、仲間にしてしまいます。強盗でさえも...。そしてついに王さまの娘と本当に結婚までしてしまいました。

しかし王さまは承服できません。娘と結婚するには、悪魔の頭に生えている三本の金の毛を、地獄から取ってこなくてはならないと言い出し、男の子はこれを承諾することとなります。



旅の途中、男の子は困っている人々から、相談を持ちかけられるのですが、その回答は一旦保留して、決まって私が戻るまで待ってくださいとの言葉をかけます。

そして悪魔の根城に着き、男の子は悪魔のおばあさんでさえ見方につけて、おばあさんの計略により、まんまと悪魔の三本の金の毛を手に入れます。

しかも、ここに来るまでの間に、旅の途中で出会った、困っている人々の問題の解決法を、悪魔に、そうとは知れず、答えさせてもいます。男の子は帰途、困っている人を助けて、お礼に金を手に入れます。



男の子は役目を果たして王国に帰ると王さまはやっと満足し、娘との結婚を許します。王子の誕生です。

さらに王さまは男の子がついでに手に入れた金に目が眩んでいて、その入手法を男の子から聞き出します。男の子はちょっと意地悪ですが王さまをはめます。

これによって、王さまは、いち領民となってしまうのです。こうして早速新しい王さまが誕生しました。もちろん主人公の男の子です。



徳を、持つものと、持たざるもの、それぞれの登場者が、本来あるべきところに収まったといったところでしょうか。


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グリム童話(KHM28) 『うたう骨』 運命を司る異界の存在
かしこいものは高慢になりがちです。おろかなものはそれを補うべく優しさを身につけるのではないでしょうか。

抜け目のない、ずる賢い兄が高慢な気持ちから、一方、無邪気で、おろかな弟が優しい気持ちから、王様の催すイノシシ退治の冒険を引き受けます。



小人からあるアイテムを受け取った弟が、それを使って手柄をあげ、イノシシを狩ることが出来ました。その手柄を、兄が計略によって横取りする話ですが、いずれも兄弟はひどい死に方をします。

弟は、文字通り兄という肉親の手にかかって、兄は、死んだ弟の成れの果てである、歌う骨の真実の暴露によって、生きたまま王さまに水に沈められています。



弟は善人です。最後は弟が改めて手厚く葬られたとされていますが。この物語、正義の問題だけが語られているのでははないと思います。

因果応報の物語なら弟は生かされる展開になるでしょう。しかし、物語では、どっちも殺されています。



鍵を握っているのは小人だと思います。状況を手のひらの上で転がすようにコントロールしているのです。

そう、小人は、因果応報などの、諸々の人の考えが及ぶ法則をことごとく無効とし、それを超えたところにある、運命をコントロールする存在として、描かれているのではないでしょうか。

小人によって引き起こされた結末は、当然、人が納得の行くものではありません。よって読者も少し混乱します。



小人に出会わなければ兄妹は違う関係を結べていたかも知れません。少なくとも弟は兄に対して悪意をもっていませんでした。

古今東西、物語に登場する小人などの異界の存在は、いろいろな役目を担って登場します。文章にして三行足らずの登場でしたが見逃せません。


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グリム童話(KHM27) 『ブレーメンの町楽隊』 逃走の先にある楽しい世界
これも、おなじみの物語です。グリム童話の中で二番目に好きです。人間と共生してきた動物たちが、主人に裏切られ、積極的な逃走を企てるというものです。



逃走とは、トールキンの言葉を借りるならば、同じ逃げでも「囚人の逃避」とは違い、「脱獄者の逃避」を指し、前者の卑怯で臆病な振る舞いとは、対極の英雄的行動を言い表しています。(『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 5”回復、逃避、慰め”及び"結び"の記事を参照)

そして、この後者の逃避とは、小さな自我に凝り固まった、前者の逃避の挙動不審な行動とは正反対の、一人ですでに複数人であるような者が行う、自己の追求過程の、ひとつの方便とも言えます。

逃走の過程では、個人の中での、多様性の熟成がなされます。そして、もし、これが、なされれば、人は、視野を広く持つことができ、大抵のことにつまずくことはないでしょう。

これらのことを、物語に当てはめるなら、主人から逃げてきた動物たちを、自己の中にいる複数人の構成者と考えるとうまく説明がつくでしょう。

しかし、物語で、動物たちがそれぞれ違うパートをこなしながら、同じ目標を追っていたように、それらは統合されている必要があります。まさに町楽隊ですね。



さて、改めて、物語を順を追って読んでいきます。物語は、動物たちが主人公なので当然なのですが、始めから、動物視点で描かれていて、その際、人間たちのエゴが浮き彫りにされていきます。

主人公たちも、人間社会の成員とするなら、そのヒエラルキーの最下層の住人のお話しともとれます。物語では、これらの成員の連帯が、前面に押し出されています。

しかし、なんと、自由で楽しい物語なのでしょう。結末は、動物たちが、盗賊たちのアジトを乗っ取り、自分たちの居場所としてしまいました。



この物語を読むと自然と力が湧いてきます。それは物語の背後にいる、多数の逃走者が、自分の外にも内にも見えてくるからでしょう。

時に物語は、その存在自体を媒介として、逃走を企てる者たちが集う、力を蓄えるための、いっときの場であったり、その他色々な意味での共有空間となり得ます。


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グリム童話(KHM26) 『赤ずきん』 グリム童話におけるステレオタイプな狼の末路
おなじみの物語です。気づいた方も大勢いると思いますが、登場者である狼の末路が、同じくグリム童話の(KHM05)『狼と七匹の子やぎ』と酷似しているのがわかります。

そう、狼が主人公たちを飲み込み、腹一杯でいい気持ちで寝ているところを、主人公たちの救護者にハサミで腹を切られ、主人公たちは助け出されますが、主人公たちの代わりに、石を大量に詰められた狼は死ぬ、というあの有名な結末です。

この類似によって、素人目にも、『赤ずきん』のエンディングが、グリム兄弟によって付け加えられた創作であることが疑われます。



また、このエンディングですが、第七版では、『狼と七匹の子やぎ』とそっくりではいけないと、グリム兄弟が思ったかどうかは定かではありませんが、もうひとつのエンディングが添えられています。これもエンディングが創作だと疑われる理由となります。

『狼と七匹の子やぎ』とこの物語、どちらかは原話である可能性はありますが、創作の連用の可能性だってありえます。



このように、純粋な口承でないことをうかがわせる部分が、存在しているわけですが、グリム童話は創作童話ではなく、民話の採録が主目的であったという前提を崩してしまいかねない要素を、この物語だけでなくグリム童話第一巻を読んでいると時々感じます。



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グリム童話(KHM25) 『七羽のからす』 兄を救う妹という類型
(KHM09)『十二人の兄弟』同様、一番末の妹がカラスに変身させられた兄を救うというお話しです。グリム童話という限定を外すなら、世界にも類話がたくさんあるようです。

物語、あるいは昔話の分類体系の世界標準であるアールネ・トンプソンのタイプ・インデックスでも同じ分類番号がふられています。



民俗学者や人類学者が行う、このような分類で、物語、昔話を語ることを、トールキンは嫌っていました。それぞれの物語の細部にあるものを、ないがしろにしてしまいかねないからです。

これらの分類の成果は、物語そのものだけでなく、物語が語られたり、書かれた背景など、広い範囲に及んでいるようですが、文字通りインデックスであり、さらなる物語の鑑賞には別の考察があってもいいのではないでしょうか。

しかし、この分類によって、世界の物語、昔話が、ある意味、整理されたことも事実ですが...。



さてお話です。『十二人の兄弟』で妹は、口を利けず感情も顕に出来ない試練を与えられていましたが、この物語では、妹に過酷な旅が課されています。

旅の途中で、グリム童話(民話)にしてはスケールの大きな背景、例えば太陽、月、星などが用いられていて、そのへんが、ある意味異色です。これからも、時々このような背景の物語が登場するようです。


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グリム童話(KHM24) 『ホレおばさん』 世界に広く同系の型を持つ物語
『ホレばあさん』または『ホレおばあさん』とも呼ばれます。そっくり同様の筋のお話が世界に無数に分布していて、このグリム童話の『ホレおばさん』を代表して”ホレおばさん型”と言っているようです。モチーフで分類するなら、それこそ、おびただしい数のお話が類話とされるでしょう。内容を平たく言えば、民話、昔話によくある、典型的な因果応報の物語です。



そのお話の型について、メモしておきます。

正直者が虐げられている中、大抵は穴のようなところに誤って物を落としてしまいます。このお話では井戸に糸巻きですね。それを取りに地下世界に行くと、ホレおばさんに代表される登場人物のところへたどり着きます。正直者はそこで言われた通りに真面目に仕事をします。そして地上世界に戻される際には、大変な宝を授かります。

一方、それにあやかろうとする怠け者が、あとに続くのですが、地下世界でも相変わらず怠け、そして、地上世界に戻されるときは、とんでもない罰がくだされるという展開のお話です。

日本の、隣の欲張り者の猿真似をして失敗する昔話も、亜種の類話としてもいいのではないでしょうか。



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18:29 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM22) 『なぞなぞ』 権力者の、道徳的なものに関する、心の持ち方
わたしが読書に使っている『語るためのグリム童話』という本は、第二版を底本としていますが、大変わかり易いです。監訳の小澤俊夫さんが、本の題名通り、人に語ることを前提に、話の筋が通るように再話されているからかもしれません。

この物語、以前、第七版の翻訳を読んだことがあるのですが、話の辻褄が合わず、意味も汲み取れなかったのを覚えています。この物語は、初版にはなく、第二版からの追加なのですが、なぜこの物語が第七版まで残ったのか、疑問に思うほどでした。



それはさておきお話です。あるところに、とても高慢で、いつも人を困らせてやろうとしている王女がいました。王女は誰でもいいから、わたしになぞなぞを出しなさいというお触れを出します。もし女王が、なぞが解けなければ、そのなぞを出した人物の妻になるということでしたが、もしこれを解いてしまったのなら、その人物は処刑されるとのことです。王女は美しかったので、危険を顧みず、多くのものが参加しました。すでに九人処刑されています。

この話を聞いた、ある商人の息子も、これを聞いて挑もうとしますが、家族が許しません。家族は、どうせ死ぬのなら、ここで死ねばいいと、彼に毒を盛ろうとします。

この毒がすべての始まりでした。この商人の息子は、王女の元への旅の途中、この毒が原因で、持ち馬を失います。さらに三羽のカラスが死に、さらに森の山賊が十二人死にます。このエピソードが、そのまま商人の息子が、王女へ出す、なぞなぞになっています。

王女は当然ですが、商人の息子がたどってきたエピソードなど知る由もなし、当然答えることなど出来ません。しかし王女は汚い手も使います。商人の息子に寝言を喋らせて、答えを聞き出そうとするのです。そして、それがなんと、うまく行ってしまいました。しかし、王女の不正は、証拠とともに明るみに出され、商人の息子と王女は結ばれて、物語は閉じられます。



簡単な、あらすじを書いてしまいましたが、この本の翻訳でしか、わたしは話しの内容を汲み取れなかったので、ここに簡単にメモしておきます。

語られているのは、権力者の、道徳的なものに関する、心の持ち方を問題としているのでしょうか。


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19:17 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM21) 『灰かぶり』(シンデレラ) 強い共感性を持つ普遍的物語
『灰かぶり』(シンデレラ)とは広い地域で古くから伝えられる民話で、グリム兄弟以前にもパターンを少しづつ変えながら採録されています。



『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 2”起源”でトールキンは妖精物語に限らず神話や民話を含む物語全般の起源のことを述べようとしながら論点をずらして、物語の本質について述べていたのだと思います。

そして物語とは、人に備わっている帰納と抽象という能力によって、我々の内部にある精神や言語を、外部に再構成したものだとも述べていました。

物語の材料となったものは、歴史上の人物であったり、過去に人類がもうけた禁制などが含まれます。重要なのは、その禁制に含まれるであろう、モラルのたぐいです。

範囲が限られていますが、わたしが、このブログで扱う物語においては、物語を聞く、もしくは読むという行為は、そこに含まれるモラルに共感したり、改めて考えてみるということを一つの大きな課題としています。

そして、わたしは、こうしてまた、この有名な物語に、それらのことを追体験しているのでした。

モラルが、その人をどのくらい感化しているのか、にもよるのでしょうが、一般的には、この『灰かぶり』という物語、我々に強い共感性を引き起こします。そこは読むたびに感心させられます。



さてお話ですが、シンデレラの試練の原因は実の父親によってもたらされます。実際に行うのは、例によって継母なのですが、この父親の無邪気さは取り上げてもいいでしょう。

男とは、子育てに関してはある意味劣等種です。現実でも、こんな父親、もちろん立派な父親の割合に比べたら少数でしょうが、いないわけではありません。こんな父親にあたってしまった子どもは、この物語同様、ある意味試練に晒される運命にあるのではないでしょうか。しかし、この試練が、シンデレラを幸福に招きました。

シンデレラは、父親の再婚相手である継母に、ことあるごとにいじめられるのですが、そんな生活を憂いながらも、正直に生きています。

しかしそれも、もう限界かと思われたときに、どこからともなく現れたのが、不思議な鳩たちや、天から見守ってくれている、実母の意思を継いだハシバミの木などです。彼らは、そんな窮地に立たされた彼女を救ってくれるのです。

彼らは、シンデレラに対して、彼女が、日増しに美しくなることや、最終的には王さまの后となることなどをもたらしてくれます。

彼らを実在の登場者として扱うのは、少し抵抗があります。お伽話特有の描写と割りきってしまうことも出来ますが、シンデレラは、憂鬱な毎日を過ごしているうちに、空想(ファンタジー)の存在である鳩たちや、ハシバミの木を、自ら現前させたと考えてみるのも良いかもしれません。空想は時に人を救います。


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13:42 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM20) 『ゆうかんな仕立て屋さん』 皮肉の込められた題名について
何時頃からかは分かりませんが、ヨーロッパ圏では「仕立屋七人で男の一人前」という句があり、仕立屋は、弱い男のなる職業というイメージがあるようです。今の今まで知りませんでした。

この物語もそうですが、以前、記事にしたビアトリクス・ポターの『グロスターの仕立屋』もこういった背景を気にとめて読むべきなのかもしれません。



それはさておき、このお話し序盤で、まず思うのは、主人公の仕立て屋と、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャとの類似性のことです。あくまでキャラクターが醸しだす雰囲気のことですが...。

ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャは現実と物語の区別がつかなくなって騎士の道を歩みますが、このお話しでも、同様に、現実とフィクショナルなものの区別ができなくなっている主人公の仕立て屋の姿を感じ取ることが出来ます。

仕立て屋は、たかがジャムパンにたかったハエをはたいて、七匹殺したことに自分で感心し「ひと打ちで七つ」と豪語し、王に仕えます。考えてみると「ひと打ちで七つ」とは「仕立屋七人で男の一人前」の逆になっているのですね。

一見、可笑しみを感じさせるキャラクターも、ドン・キホーテと共通だと思います。しかし共通なのは序盤だけのようです。



彼の冒険物語は、徹底した頭脳戦です。しかも打つ手の正邪を問いません。ハッタリもありです。

王は、いともたやすく自分の与える試練をくぐり抜けてくる彼を、突き放そうとしますが、うまくいきません。そして彼は自身の運命を切り開き、后を手に入れ、王子の地位を獲得します。

実際に描かれている通り、王の立場なら、この、どこか得体がしれず、気味の悪い婿を、御免こうむりたいと思うのは自然でしょう。よって、主人公への共感はあまりわかず、王様に同情してしまうのでした。



また、題名には、ゆうかんなとありますが、残念ながらわたしは、この物語を、そうとは読み取れませんでした。また、導入部の展開から愉快な物語を期待していたのですが、ずる賢い主人公の振る舞いが、羅列されるばかりで、裏切られたような気分です。

もっとも、この題名には、グリム童話によくみられる、皮肉が込められているのかもしれません。それは、(KHM32)『ものわかりのいいハンス』や、(KHM34)『かしこいエルゼ』にもみられます。いずれの主人公も愚か者ですが、反対の意味の形容詞が題名につけられているのです。



これからも、グリム童話には、数多くの仕立て屋が登場します。その中で、彼らが主人公をつとめるものは、ときに共通するキャラクターを感じることがあります。例えば、このブログでは扱う予定がありませんが、(KHM35)『天国の仕立て屋』が、これにあたるでしょうか。

そのキャラクターは、世間に多くを依存し、その中から自分を富ませるであろうものを見つけると、無理やりにでも、分け前を、かすみ取ろうという根性が見え隠れし、そんな様子を例えるなら、過剰に即物的な思考の持ち主といったらよいのでしょうか。

このお話の仕立て屋の、ずる賢さという特性も、そうゆうところから派生してくるものでしょう。


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18:29 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM19) 『漁師とその妻』 欲かきのお話し
とある漁師が釣り上げたヒラメは、言葉を解し、”自分は王であり、魔法でこのような姿にされている。だから、私を逃がしなさい”としゃべりました。

言葉をしゃべるヒラメなんて、気色悪いし御免だとばかりに、ヒラメの言う通り逃してやる漁師ですが、家に帰り、奥さんにそのことを話すと、目ざとい奥さんはこう言います。逃してやった見返りに何か願い事をしてこいと...。

しぶしぶ漁師は、海に戻って、再びヒラメを釣り上げると、妻の言いつけ通り、逃がしてやる代わりに願い事をしました。すると、どうでしょう、なんと、その願い事が叶ってしまうのです。

これに目をつけた奥さんは一連の出来事を繰り返そうとします。そして、奥さんの願い事は際限なく大きくなってゆくのでした。そして、ついに、その欲が最大限に達すると、元の木阿弥、振り出しに戻されるという、よくある欲かきのお話しです。



欲が大きくなるほどに海は荒れます。天候と欲の大きさは一種の等価交換であり。願いが叶っても、漁師の命の危険が増えるわけで、事の始まりから終わりまで、全体としては、何も変わっていないのかも知れません。

だとしたら、最後に振り出しに戻された時の天候は、穏やかなものだったのでしょうか。そこは描かれていません。もし天候が荒れたままであればバチが当たったとすることもできるでしょうが、気になります。



このお話しは口承を採録したのではなく、文献から写しとったもののようです。どおりでお話しの展開が安定しています。


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グリム童話(KHM18) 『わらと炭とそら豆の旅』 由来譚の物語
そら豆の、模様の理由についての由来が、物語られます。一般的には、これらのお話を、由来譚という分類に属するお話とするようです。



物語最後に、そらまめが弾けてしまうところなど、想像すると哀愁を誘います。そこを旅の仕立屋が通りかかり、そら豆を縫ってくれて一見落着となります。そして、この縫い目が、そら豆の模様の由来だというのです。

こういうタイプの物語も、民話には多くあるようです。確かに、人の好奇心をそそり、それを面白おかしく満たしてくれる物語です。



興味が湧いたので、第七版も読んでみました。第七版では登場者が増えて、物語は、厚みを増します。その登場者とは、おばあさんなのですが、主人公たちに対して力を振るう人物として描写されます。例えば、主人公たちを民衆とするなら、おばあさんは為政者のようにも例えられるでしょうか。

第二版のシンプルさもいいのですが、第七版のお話の膨らませ方も、全体の印象は少し変わりますが面白いです。

日本にもほぼ同じ話である『豆と炭とわらの旅』があります。



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19:10 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM17) 『白いへび』 動物との会話
物語は、主人公の若者が、白いへびを食べることによって、動物と言葉をかわすことが可能になるというものです。若者は旅に出るのですが、その特技を活かして、方々で動物の助けになるようなことをします。

そして、さすらいの末、自分がとある窮地に立たされた時に、これまでに助けた動物たちが恩返しをしに来るというものです。そして、彼は救われ幸せを得るのでした。



この物語、あまり深くは立ち入ることが出来ませんでした。グリム童話は、語り継がれてきた民話を、口承の保存に重点を置いて編纂したものなので、現代の我々が読み物とした場合、ストーリーが散漫に感じられてしまうところがあるのは、しかたがないことなのかもしれません。書かれた物語としての説明がどうしても不足気味なのです。

なにも、創作文学並みの説明を求めているわけではありません。民話であることは承知しています。最低限の情報が欲しいだけです。



例えば、まず、題名にもなっている白いへびですが、現代の我々が読んだ場合、物語の、きっかけを作ったに過ぎません。タイトルになるだけの理由がもう少し欲しいところです。

しかし、口承で語り継がれていた時代には、これらのことが、人々の間で、ある共通の意味を共有できていた可能性が少なからずあります。しかし今となってはそれを知るよしもありません。



また、若者は動物を助けもしますが、犠牲にもしているのです。果たして若者は、物語の趣旨に沿ったふさわしい主人公なのかという懸念が起こります。

助ける動物と犠牲にする動物の選択は、気ままになされているようにも思えますが、実は、ある線引がなされていて、それゆえ若者は幸せを得るべき存在であるのだという、ある、共通認識があったのかもしれません。

なにゆえ鴨や持ち馬は主人公に容赦なく殺されなければならなかったのか? そのへんが、うまく読み取れませんでした。ストーリーに説得力のある理由が見つけられないのです。



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18:39 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM15) 『ヘンゼルとグレーテル』 民話にしては目を引く文学的装飾
皆さんおなじみの物語ですね。貧しい木こりと、その妻による、生き残るための、口減らしに出される兄妹の物語です。

グリム兄弟が民話収集の際に『兄と妹』と同名のタイトルであったため、こちらの物語を改題して『ヘンゼルとグレーテル』としたようです。

またしても悪い継母が登場します。木こりの妻が継母という設定です。しかし初版から第3版目までは実母として描かれています。残酷さを軽減するための修正が行われたわけです。



それにしても、何度読んでも切ない気持ちにさせられます。口減らしのために仕方なく妻に説きふされてしまう父親、森に捨てられる運命を知りながら両親のいうことを聞く健気な兄妹。それでも何とか助かろうと知恵を絞るヘンゼル、しかし知恵もつきて、兄妹は森の魔女に捕まって食べられてしまう運命に。そこをなんとしてでも切り抜けようとするるグレーテルの機転。

グレーテルの機転で、魔女は逆に、返り討ちにされ、焼き殺されてしまいました。そして、分からなかった帰り道が開けて、家に帰ると継母は死んでいたとなります。勧善懲悪ですね。



苦境とそこからの脱出までの落差、つまり物語から得られるカタルシスが割と大きいです。それに加え、民話にしては文学的装飾が際立っているように思います。それゆえに、本という媒体だけでなく、舞台、アニメーションなど各媒体で再話されたりするのでしょう。


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18:22 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM14) 『三人の糸つむぎ女』 存在感のある三人の醜女
やはり、初版とそれ以降の版で、登場人物の、役割りが少し違っています。題名も初版は『苦しみの亜麻紡ぎ』ですし、題名だけ比べてみても明らかに伝えようとしているものが異なるのでしょう。第2版以降はいくつかのお話の合成のようです。

いずれにしてもお話しは、山のようにたくさんある麻を、3人の醜女が超人的な能力で紡ぐことで進みます。



初版とそれ以降、どちらのお話の展開も好きです。

初版に出てくる、こうるさい王は、小さな男に思えますし、后の手のひらの上で踊らされているのがお似合いだと思いました。

第2版以降の、怠け者の町娘の描き方だって、人は人それぞれですし、誰であっても、彼女の幸せになる権利を、奪うことはできないでしょう。しかしこの場合、別になくてもいいとは思いますが、童話らしい、訓話としての要素が欠落することとなリます。要は『ラプンツェル』の場合の時の改訂とは逆に、ある意味、童話化の度合いが低い改訂になったということになります。



それにしても、この3人の醜女の正体はいかに...。こういう得体の知れない登場人物が、グリム童話には時々登場しますが、妙に惹かれてしまうのでした。そして、グリム童話は、もともとは民話なのだという証を実感しています。


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18:48 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM12) 『ラプンツェル』 語られる民話から書かれた童話へ
グリム童話の、初版と、それ以降の版で、表現されているもののニュアンスが異なる物語の代表格といえるでしょう。

いわゆるグリム童話は、『子どもと家庭の童話』として刊行されました。そのため、初版での、この物語の、主人公、ラプンツェルの描かれ方が、童話にふさわしくないとのことでしょう。彼女が、自身のとりことなっている王子を誘惑し、逢瀬を重ね、妊娠する場面が、編纂の対象になりました。第2版以降で、修正されています。

これに伴って、ラプンツェルを塔の中に閉じ込めるものを、初版では妖精だったものが、魔女とされるなどの修正も同時に行われます。

しかし、このような配慮は、読者によって、異なった読解を許すような、物語の豊かさを、だいなしにしてしまいがちです。口承で伝えられてきた民話を、書かれた童話とするには、やはり無理があるのだと思います。物語が口承で伝えられてきた時代には、話をする人の語り口や、そのさじ加減で、聞き手の子どもから大人まで、臨機応変に対応できた問題のはずです。



そもそも、グリム兄弟が収集した民話は、童話という子どもの独占物ではありませんでした。この辺りに関連することを、ファンタジーの物語についてですが、『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 3”子どもたち”の記事に書きました。

それによると、民話も、ファンタジーと同じような運命をたどってやしないでしょうか。同じく、大人には不要と判断された民話が、子供に押し付けられたのではというような印象です。良し悪しは別にして、そこにあるのは時代の流れですね。グリム兄弟の功績が損なわれるものではありません。


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18:37 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM11) 『兄と妹』 ハッピーエンディングを指向する民話
この物語の類型は広く世界に伝えらています。そのなかで最も有名なのが、グリム童話に取り上げられている、この物語でしょう。なお、主人公の明確な年齢区分がなされていないため、タイトルを『姉と弟』とすることもあるようですが、読んでみると、なるほど女性主人公のほうがしっかりしていてうなずけます。

世界の民話では、継母を魔女とする物語が少なくないのですが、この物語もご多分にもれません。地上には人を不幸に導く存在というものがあり、西洋の民話では、一般的に、それを魔女という存在が代弁しています。この物語においてもそう描かれています。ここでは嫉妬の権化と化した魔女が、その魔術を駆使し、主人公たちをおとしいれます。



しかし魔女にも色々な登場パターンがあって調べて分類すると面白いかも知れません。例えばこれはグリム童話ではありませんが、記事にしたことがある、アーサー王物語の一つ『サー・ガウェインと緑の騎士』では、物語全体の俯瞰者として、その存在は機能していました。

もし主人公が魔女の果たした試練に耐えられなければ主人公を不幸に導いていたかも知れません。しかし主人公が試練に耐えたため、魔女は出来事の種こそ巻きましたが、只の物語の俯瞰者としてその存在を終えます。言わば魔女が超越者として描かれ、人は試されるのです。



話が横道にそれました。戻します。物語はハッピーエンディングを迎えるのですが、そこへ導く存在は地上の魔女に対して天上の神様です。これは民話の物語り方の一つの定形であり、民話とは、そもそも、始めからハッピーエンディングを志向している物語であるとも言えます。これは、このブログでも扱うファンタジーとの共通項でもあります。


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グリム童話(KHM09) 『十二人の兄弟』 試練の物語、道義的に求められているもの
民話の類型として、”超越者に試練を与えられる主人公”という型は定番です。



マリヤの子』では、主人公が超越者と呼ぶべきマリアに言葉を奪われる試練を与えられていましたが、この物語でも、やはり超越者を思わせるおばあさんが登場し、主人公に言葉の使用を禁ずる試練を与えています。

『マリヤの子』では、嘘を封じるために主人公は言葉を奪われましたが、この物語でも、それは同じでしょう。ただこの物語では強制的にではなく、自らの固い意志でそうしなければなりません。それに加え、この物語では、言葉と共に笑うことさえ禁じられます。これは、ある種の感情を封じたものと思われます。主人公には、偽りや感情に対して、真実や論理が求められるのです。

こういうタイプの物語では、忠義を求められるものも多いです。グリム童話ではありませんが、このブログで記事にもした『サー・ガウェインと緑の騎士』などがこれに当てはまるでしょうか。当然これに反する行為として、裏切りが想定されているのでしょう。



それぞれの物語は、道義的に求められているものの獲得をテーマとしています。そして、何れも主人公は、それらを獲得して、ハッピー・エンディングを迎えています。


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グリム童話(KHM08) 『旅芸人のいたずら』 とある自由気ままな生き方
なんとも飄々としていて、自由気ままな、とある旅芸人のお話しです。彼は自身の情動に忠実です。



旅芸人は、森で退屈をしていたために、誰か話し相手を探そうと、バイオリンを弾いて気を引こうとするのですが、集まってくるのは、バイオリンを習いたいと言ってくる動物たちばかり。退屈を紛らせるには役不足でした。

旅芸人は、彼らを騙してその場に足止めさせて置いてけぼりにしてしまいます。これがあまりにひどい仕打ちなので、動物たちのことを思うと、少し気の毒な思いもなくはないのですが、旅芸人は、そんなことどこ吹く風。

そして、やっと自分の話し相手として申し分のない人間である、とある貧しい木こりに出会います。旅芸人はその演奏で木こりを夢中にさせてしまいます。

そんな中、先程ひどいことをされた動物たちが復讐にやってくるのですが、旅芸人は、自身の虜にしてしまった木こりに、動物たちを追い払わせて難を逃れます。彼の旅は続きます。



旅芸人は、いわばトリックスターのような存在ですね。場の登場者を、ひっかくだけひっかき回して、悪ぎもなく去ってゆく。そういう、どこかとぼけた存在でもあります。

グリム童話にはこれからもこのようなトリックスター的な登場者が時々現れます。ブログで扱わないものを含めていくつか挙げるなら、(KHM10)『ならずもの』(KHM41)『コルベスさん』(KHM80)『めんどりの死んだ話』に登場するおんどりめんどりなどがこれに当たるでしょうか。



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グリム童話(KHM06) 『忠実なヨハネス』 民話とファンタジーの共通項
数多の物語に存在し、このブログでも取り上げた、アーサー王物語の『サー・ガウェインと緑の騎士』にもあったような、忠義に対するテーマがこの物語にも存在します。同じように、この物語の主人公ヨハネスも、自身の命をかけて、それを貫き通しました。

この古くからあるテーマの起源を問うても仕方がないでしょう。おそらく動物とは違う人間的なものであって、人間という存在が確立した時点で、同時発生的に生じる、ひとつの価値観なのだと思います。

どんな物語にも多かれ少なかれ、このような内在的道徳がテーマとして存在しています。このブログで扱おうとしているファンタジーという枠組みだと、ほとんど必須と言ってもいいものと思われます。

また、グリム童話は民話なわけですが、民話のお話の展開は、ファンタジーに通じるところがあると思っています。そこで、もう少しファンタジーと民話、昔話の共通項についてメモしておきます。



これらのお話によくある突飛な表現が、どうにも受け付けられないという方がおられます。いや多数おられます。例えば、この物語ですと、ヨハネスがカラスの言葉を解することなどが、それに当たるでしょうか。ファンタジー、民話、昔話にはお馴染みの展開です。どうしてこういうシーンが必要になってしまうのでしょうか。

こうして表現されるものの根には、人間の根源的な願望が関与していて、これらを表現し、理解するには、全人的な思考を必要とするとしか言えません。すると、現代の我々大人のスタンダードである自然科学であるとか経済学などの分析的な思考法が、かえって邪魔になるのです。

ちまたにある、一般的なファンタジー、民話、昔話が、こういった思考法の素地のない子どもに親和性があるのがご理解いただけると思います。



では大人がこれらの物語を読むことはできないのかというとそうではありません。中世に遡りますが、冒頭で述べたアーサー王物語の一つ『サー・ガウェインと緑の騎士』はファンタジーとして読んだ場合、大変良く出来た物語でした。不思議な世界観を無理なく表現しています。

ファンタジーという表現形式に限って言えば、それらは人間の叡智を総動員して考えを尽くさねば成立は困難であり、それを実行する者は少ないとトールキンは述べています。ファンタジー愛好者は、この困難な作業を厭わない、来たるべき書き手を待ち望んでいます。


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『サー・ガウェインと緑の騎士』 J.R.R.トールキン(訳) 原書房
この物語は数多にある、アーサー王物語の一つです。よって古英語のオリジナルの物語を、まずトールキンが現代語訳して、それをさらに日本の訳者さんが日本語化するという手順を踏んでいます。ちなみに、トールキンはアーサー王物語群を妖精物語(ファンタジー)の一つとして考えています。

なお、私は、文学などを学業として収めてこなかった人間なので、原文がどうのとか、現代語訳がどうのとか、またそれを日本語訳にするときの問題点などへの配慮には、全く疎くて分かりません。ただ、この日本語訳だけが頼りです。あしからず。

また、私がこの本を読んだ動機は、トールキンのまとまったファンタジー論である『妖精物語とは何か』を理解するためでした。彼は、この著書の中で、妖精物語を構成するものの一つの大きな柱として諷刺を上げているのですが、一つだけ諷してはならないものがあると述べます。それは魔法です。その理由を説明するために、トールキンはこの物語を取り上げています。



ではお話です。物語は、まず、アーサー王が催す、クリスマスの宴に突然現れた、巨躯で全身緑色の騎士の存在が、迫真の描写で、実在性をもって描かれてゆきます。

緑の騎士は、アーサー王を辱めるために、とある試練を王に持ちかけてきます。その試練に王を煩わせてはならないと、いち早く察した、王の甥であり、この物語の主人公ガウェインは、王の代わりに、その試練に挑戦することとなります。それは命を張ったやりとりでした。

物語最後で、ガウェインが試練を乗り超えた時に、この緑の騎士は、旅の途中、ガウェインが世話になっていた城の城主であること、今現在の緑の姿は城の魔法使いのしわざであリ、そもそもの事の始めの企てから、この試練は、この魔女によって仕組まれたものであったことが、彼の口から明かされます。

言わばガウェインは、物語の始めから終り迄、超越者と呼べるような存在に、志を試されていた事になります。



ではこの物語の中世の無名な作者は、こういった枠組み(トールキンはこの枠組みを妖精物語と言いたいのでしょう)を使って何を描こうとしていたのでしょう。この緑の騎士という異界の存在を、もっともらしい説明など加えずに、そのまま受け入れるということは、まさに人智を超えたものに対するような、謙虚な姿勢を我々に要求するものです。

こういった姿勢は、頭でっかちな人間という存在にとって、時には必要なことなのではないでしょうか。様々な意味で...。この物語は、我々を自然とそういう姿勢に導いてくれます。



冒頭で述べた、魔法を諷してはならないというトールキンの着眼点は、西洋のキリスト教圏においては、神と人間の関係にも関わる重要なことなのでしょう。我々日本人の伝統的な感覚に従えば、神の代わりに自然がそれに当たるかもしれません。

しかし現代では洋の東西を問わず、自然科学が発展して、我々の思考法の主流を占めると、そういった姿勢は失われがちです。ですが本当のところはどうなんでしょう。いくら科学が発達しようが、我々人間には、根源的に畏怖するものが消えてしまうことはないのではないでしょうか。

我々には昔と変わらず、畏怖すべきものに対する謙虚な姿勢が必要なのです。

トールキンは、そのような存在を、諷したりせずに、自身の創作にも取り入れていました。そして我々は、それらの創作から何がしかの開放を得ているのです。そして、トールキンが目指しているものと、この物語の中世の無名の作者が目指したものは、同じなのではないでしょうか。



改めて、魔法を諷してはならないという警告ですが、トールキンが自著を理解するための参照先に、この物語を取り上げた意図もよく汲み取れます。そんな警告を簡略に表すような、物語最後の一文が印象的です。

悪く解する者よ、恥辱にまみれよかし。

また、この物語。トールキンの他のオリジナルの作品に通じるところがあると思います。物語を読み進めてゆくと、主人公が、あまたの試練をくぐり抜けて、その高潔な人柄を浮かび上がらせてくるところなど…。彼の創作作法の核のようなものも感じ取ることができます。

だとすれば、この現代語訳が、彼の死後に遺稿として家族に残された意味もうなずけます。



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