子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
<< December 2016 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>



グリム童話(KHM04) 『こわがることを習いに出かけた若者の話』 とある英雄の弱み
始めは、恐怖話なのかと思ってしまいました。描写がおどろおどろしいのです。しかし、徐々に、英雄譚であるような様相を呈してきてきます。主人公の男は、はっきり言って無敵です。自分をこわがらせるものを探して、旅をするのですが、そんなものなど、この世に見当たりません。

しかし最後にどんでん返しが待っています。読後に思ったのは、読み始めには思いもしなかった、これって笑い話だよなあという確認です。お話しの展開のギャップの大きさに驚いてしまいました。



この第二版は、いくつかのお話しの合成となっているようで、初版では、第二版のいちエピソードが語られているに過ぎません。よって、全く別の話のようです。題名も初版では『ボーリングとトランプ遊び』となっています。

さて、その最後のどんでん返しですが、男性にとって、思わず苦笑いを浮かべたくなるような代物です。冒険の末こわいものなしの称号を得た男は、王女を手に入れるのですが、その王女が、彼を恐怖におとしいれるのでした。


JUGEMテーマ:グリム童話




19:47 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM03) 『マリアの子』 真実の告白
キリストの母マリアによって、よんどころなき事情から、天国に向かい入れられた主人公の娘は、とある約束事をマリヤと交わします。しかし、彼女は、それをやぶってしまうのでした。

主人公は、約束の不履行に対して、真実の告白をマリアに求められるのですが、嘘をついてしまったため、言葉を奪われ地上に戻されてしまいます。その後、彼女は、地上で、とある王国に妃として拾われます。

主人公は、その後、マリアから度々、真実の告白の機会を得ますが、嘘をついてしまうので、相変わらず言葉を口にできないままです。

そんな、主人公は、ある時王国での生活に支障をきたしてしまいます。とある嫌疑をかけられてしまうのですが、口で抵抗することもかなわず、処刑されようとしています。

そして主人公が最後の最後という時に、どことも知れないマリアに対して、心からの懺悔の気持ちを持った時、不思議と声が戻るのでした。すかさず彼女は真実の告白をします。するとすべてが許され、何もかもがうまく運んでゆくのでした。



なぜマリアは主人公から言葉を奪ったのか、最後の最後で、お話しの辻褄が合います。主人公は、真実の告白が必要だったのですが、それはとりあえず口を必要としませんでした。まずは、心ありきだったのです。懺悔の気持ちが、再び彼女に言葉を授けます。

むしろ口は、真実を語るのに邪魔になるということなのでしょう。口は真実を語りもしますが、嘘もつきます。王国で嫌疑をかけられた時、口がきけたとしても、申し開きができたとは限りません。


JUGEMテーマ:グリム童話




19:20 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM02) 『猫とねずみのとも暮らし』 動物寓話、道徳的視点
猫の旦那とネズミの女房の動物寓話です。よって、それになぞらえた人間が描かれているのでしょう。最後にネズミは猫に食べられてしまいますが、この物語をどうとらえるべきでしょうか。



いろいろな視点から読むことが可能ですが、動物寓話ですので、方向性としては、登場者それぞれの道徳が、どのように働いているか、という視点で読むのが妥当なのではないでしょうか。ここでは、さらに、ネズミの側に焦点を当ててみることにします。

ネズミは騙されたと知っても、道徳に反して、自らの正義を主張せず、我が身を守るために、最後まで猫の悪行に対して、知らないふりをしていたら、猫の道徳をぎりぎりのところで働いて、ネズミは食べられずにすんだわけです。

しかし、ネズミは、所帯を持ったからといって、してはならないはずの猫への信頼をよせたために(本来は、捕食-被食関係)、つまり言葉が通じる相手として接したために、愚かな結末を迎えてしまうのでした。

つまり、この視点は、道徳の及ぶ範囲には限界があるという、シニカルな結論に至る視点でもあります。

これは、あくまで、ひとつのお話の受け取り方であり、例えば、猫の側に立った視点での物語の享受も可能でしょう。



全体としてユーモラスに描かれていますが、この物語はもともと口承であったわけですから、意外と重い話の内容に、躓かないように配慮されているのだと思われます。


JUGEMテーマ:グリム童話




19:24 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
グリム童話(KHM01) 『かえるの王さま』 妖精物語とは
『かえるの王さま』はグリム童話の各版で冒頭を飾る、あまりにも有名な物語です。トールキンも自著『妖精物語について』の”妖精物語とは何か”の第五章目で妖精物語の逃避の機能との関係で、妖精物語(ファンタジー)としてのこの物語の引用をして、自身の思うところを代弁させています。

それは、妖精物語が果たしてきた逃避の機能に関して、どこまで実効性があるのかといったようなことです。

たとえば、逃避しようにも、どうしたって逃れられないように思われることがあります。ある種の苦痛がそうであるし、一番極端なものは死です。しかし、妖精物語は、それらの制約でさえ、ある方法で逃れることを可能にしてきたとトールキンは述べています。



この物語での、カエルとの結婚の約束は、どうしたって受け入れることのできない制約であり、主人公の王女は、文字通りの逃避を試みます。

しかし物語の進行に伴って、カエルが王子であることが分かり、幸せな結婚をするという、ハッピー・エンディングを迎えるわけですが、トールキンは、この物語の眼目を、ありえないカエルとの婚姻と考えるのではなく、数々の妖精物語が繰り返し語ってきた、どんなに不条理なことであっても、約束は守るべきものであり、それが後々の幸せに結びつくという、一大テーマを、そこに見い出すべきとしています。



そう、物語を追っていくと、いつの間にか不条理な制約は高貴な約束にすり替わり、それに伴って、王女と、この物語に感情移入している読者である我々は、制約から逃れて自由になっていることに気づきます。この物語は妖精物語としての逃避機能を成功させて、その本領を十二分に発揮しているのです。トールキンが、この物語を、妖精物語として語りたがる気持ちが分かるような気がします。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:41 : グリム童話(KHM 001 - 030) : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
読書雑記 - 民話、昔話の読書について
トールキンは、論文『妖精物語とはなにか』第2章で、妖精物語だけに限ったお話しとはせず、神話や民話なども含む、物語全般の起源を考察しています。しかし、彼の関心は起源自体にはあまり向かわず、何故、ある物語が今日まで語り継がれてきたか、ということに論点のウエイトをおいています。

そしてトールキンは、時の語り手による、道徳的な禁制の配置などの、文学的な保存価値を考慮された、恣意的な取捨選択を経て、それらの物語が、後世にまで残るかどうかが定まる、と述べるに至っていました。その過程で、古くから伝わる民話(昔話)や神話を引用したりしています。

その際、トールキンは、民俗学者や人類学者が行う、分類学的な解釈を嫌いました。なぜなら、それらが、それぞれの物語の細部にあるものを、ないがしろにしてしまいかねないからです。

それはさておき、わたしも、そういった、いわゆる民話や神話などの説話に、人類に後世まで残されてきたものとしてのそれらに関心を持ちました。



民話や神話を考える際、いち日本人として、日本のものを扱ってもいいのですが、明治以降に西洋から輸入されたものも、広く日本にも浸透していて今に至っています。そして、現代では一般的に、日本の神話、民話と同じくらい、西洋のそれらも知名度があったりします。それらに迎合するわけではないのですが、わたしとしては、そちらの方に、まず興味が向きました。

例えば今は、学問の領域で言えばトールキンの先輩文献学者でもあるグリム兄弟が、口頭伝承民話を活字化した、いわゆるグリム童話というものに関心があります。これから、それらの物語を、読み進めていきたいと思っています。



ところで、このグリム童話、口頭伝承民話の活字化の過程で、さらには、それに続く改訂の段階で、口承であった時のエッセンスは少なからず失われてしまいました。しかし、グリム兄弟の功績は損なわれるものではありません。おかげで、グリム童話は世界中に広まりました。

なぜ広まったのか、そう、物語が、より説明的なものにされていく過程で、お話に厚みが出来て、物語に深みが増したのだと思います。

それに加え、童話とうたってはいますが、今述べた通り、実態は口頭伝承民話集であり、トールキンが述べるように大人だからこそ物語に込められる思いというものもあると思います。言わばグリム兄弟は、民話に再び息吹を与えたのです。



グリム童話集は第七版まであります。グリム兄弟、主に弟が口承に手を加えていったわけですが、現在一番新しい第七版が広く世の中に流通しています。

読書には、ある意味第七版を使うのがふさわしいのでしょうが、始めの版のほうが、民話としてのエッセンスがより多く残っており、口承に近く、素朴です。

そして、わたしにとって一番わかり易かったのが『語るためのグリム童話』という、語りに重点を置いた、第二版を底本とし、足りないところを第七版で補っている、再話版グリム童話でした。監修が大家である小澤俊夫さんのものです。

なので、この本を主に読書に用いたいと思います。



この世界一有名な民話集であるグリム童話集について、すでに物語として、知っているものも少なくないわけで、今更ながらなのですが、改めて頭の中を整理したくなりました。

読みこもうとすれば、これまで、読書一般について、それほどの量をこなしていないわたしにとって、語るに足る力もないのでしょうが、全体として簡略でも良いから、インデックスのようなものができたらと思っています。

また、このグリム童話、トールキンが、そうしたように、ファンタジーとして扱うことも出来なくはありません。わたしも、時には、それに習って読んでみたいと思っています。



そして、これは少し先の事になると思いますが、最終的には、民話としての日本の昔話を追っていく予定です。



追記
日本の昔話の読書には『日本の昔話』 おざわとしお再話 福音館書店 を用います。記事には、簡単なあらすじも載せますが、あくまであらすじです。昔話は他の文芸に比べて、実際に自分で読んで、あるいは人から聞いて五感で感じる部分を大切にする媒体です。あらすじは、参考程度にしてください。
2017年5月


さらに追記
グリム童話に始まりさらに日本の昔話を読んできて思うのは、昔話がこれほどファンタジーに富んだ物語であったのかということです。

日本人でファンタジー好きの方なら、ぜひ日本の昔話を改めて読んでみて、自らの基礎とすることをおすすめします。大変有意義な時間を過ごしています。

日本人であることのありがたみも再発見させられます。
2017年8月






JUGEMテーマ:グリム童話









18:38 : ■ 民話、昔話の読書について : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
読書雑記 - 『ピーターラビット』ひと区切り
印象に残ったポターの物語を、いち文と共に5つ取り上げてみたいと思います。本当はどれと選べないほど愛着のある作品たちです。どれも読めば心が和みます。



グロスターの仕立て屋』(1903年作)
これまで恵まれなかったとある仕立屋とネズミたちの心温まるお話しが、神の福音を思わせるような不思議な出来事になぞらえられて大団円を迎えます。

ベンジャミン バニーのおはなし』(1904年作)
孤独だったポターが、唯一心の拠り所とした湖水地方への愛情が、痛いほど伝わてきます。他の物語にも、こういった視点は随所にあるのですが、私はこの物語のそれが好きです。

ティギーおばさんのおはなし』(1905年作)
最後に夢の世界なのでは、という種明かしさえなければ、なんとも不思議な世界に連れ出してくれます。

ジェレミー・フィッシャーどんのおはなし』(1906年作)
絵が好きです。お話しも惹かれるものがありました。それよりも、個人的にカエルの物語が好きだという理由が大きいかもしれません。

あひるのジマイマのおはなし』(1908年作)
ノーマンのことで傷心のポターが、あひるのジマイマと重なって見えて切ないです。でもこの物語を経て、彼女は立ち上がったのだと思います。



いずれも初期の作品ばかりになってしまいました。これらの作品に彼女の才能の輝きを感じます。ポターの物語はまだありますが、『キツネどんのおはなし』で私はひと区切りつけます。翌年、彼女は結婚と共に出版した『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし』をビアトリクス・ポターとしての最後の物語とします。そして、ヒーリス婦人として、農場経営に仕事をシフトさせてゆきます。


JUGEMテーマ:絵本紹介




18:28 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
読書雑記 - ビアトリクス・ポター の日記をめぐる話
『ピーターラビット』の物語を読み進むにつれ、気になっていたことがあリます。それは、ポターの物語の一部にある、どこか覚めたような視点の存在です。

ポターの評伝を掲載している猪熊葉子さんの『ものいうウサギとヒキガエル』を読んだのですが、それによると、このような受け取り方もありなのだなとあらためて思った次第です。そこには、生得的なものか環境か、その両方であったと思うのですが、彼女の克服できなかった内向性が影を落としています。



ところで、ポターは、15歳から31歳まで、自身の作った暗号で記された日記をつけていたことも、この猪熊さんの本を読んで知リました。今では暗号は解読されすべてが読めるようです。

その日記には、さぞ、彼女の幼年期からの抑圧された感情が記されているのでは、と思いきや、全く違い、まるで写真のような写実的な記録の羅列だそうです。

彼女自身、この日記のことを暗号で書いてあるため”これを誰も読まない”と自分で断言しているのですが、そのような隠し立てするような内容でもないものに、なぜ暗号を用いなければならなかったのか、この日記には、そういったことを含めて、いろいろな憶測があるようです。



猪熊さんも色々と推測していますが、そのなかで、暗号の件とは別件ですが『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルの日記との相似性を取り上げている箇所があリます。

猪熊さんは、この写実的な記録について、当時の人々に、そのような共通の趣向があったことを認めた上で、あえて、ふたりの、非個人的情報のスクラップブックのような内容の、日記の共通性に注目しているようです。

そして、猪熊さんは、ふたりの共通性は、日記だけにとどまらないことを述べています。何かを求めるようにキャロルは写真にのめり込み、ポターも写真を撮ったようですが、それより彼女は、あの写実的な絵に、自身の衝動のはけ口を求めているのです。

さらに猪熊さんは、ふたりが、ともに、ファンタジーの創作に向かったとしている指摘は面白かったです。そして、ファンタジーの生まれる土壌としての、彼らの心理の分析が、少しですがなされていました。



もっとも、このふたりをファンタジー作家とするかは意見が別れるところでしょう。例えばトールキンは認めていません。そこら辺のことは猪熊さんの自身の訳書、トールキンの『妖精物語について』に詳しく書かれています。一方、そんな意見に対して猪熊さんの主張はファンタジーであるとのことです。



JUGEMテーマ:児童文学





18:45 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
−1912年− 『キツネどんのおはなし』 ビアトリクス・ポター 福音館書店
この本が出版された年1912年、ポターは自身の印税収入の増加に伴って始めた、ナショナルトラストへの支援のために購入した湖水地方の土地の管理を1909年から任せていた、弁護士のウィリアム・ヒーリスからプロポーズを受けています。そこにまたしても両親の反対があります。理由は毎度のことで、家格の違いです。彼女の両親の、行動規範を司る価値観の全ては、ここにあります。

こうした人たちは理解に苦しみます。自分の生きている狭い世界での価値観を全てと思い込んで、その世界の外にあっても、自分たちの価値観を押し付けてくるのです。大抵の場合、彼らは、無邪気です。自分たちの外では、それらの価値観が無効であることなど夢にも思いません。押し付けられたほうは、たまったものではありません。

ポターの両親がとる行動は、当時の歴史的背景を考えると、当たり前だったとする考察が多いようですが、これは彼女の両親側にたった考えだと思っています。

そして、ポターと両親の関係は、拡大解釈するならば、何時の時代にもある、世代間の断絶として考えられる余地も、少なからずあると思っています。ならば本人も抵抗したようですし、ポターの言い分が少しは通ってもいいのではないでしょうか。

ポターは弟の援護もあって、翌年の1913年に、ヒーリスと結婚しています。彼女は創作活動から農場経営にシフトしてゆく境の年とも言えるでしょうか。彼女は、自分の創作活動の限界を感じていたのかもしれません。

イギリスの作家グレアム・グリーンは、ポターが、この作品において、ペシミズムの頂点に達したと指摘しています。



彼女の創作意欲が、とてつもなく強くて創作を続けていたのなら、その創作傾向から察して、彼女は、今にもまさる偉大な作家になっていたでしょう。

とはいっても、彼女にノーマン・ウォーンが編集者として、寄り添っていた時のような、初期の作品の作風の延長線上でのことを言いたいのですが...。

その延長線上にある作品は、動物を用いて、空想による、とある新しい現実の再構築したものになるでしょう。ある意味ファンタジーです。

もし、そんな作品が実現したのなら、その作品の完成に至る道は、おそらく遠く計り知れません。なので彼女の意欲を奪ったであろう、彼女のペシミズムが残念でなりません。また、そのおおかたの原因であった、彼女の両親のあり方が残念です。



さて、それはさておき『キツネどんのおはなし』です。ポターは初めて物語に入る前にことわりを入れています。”ふたりのいやなひと”を書きますと...。

もうすでに述べた通り、これは、ずっと彼女の心の重しになっていた、両親のことだと思われます。ポターは、”これまでおぎょうぎのいい人ばかりを書いてきました”とも書いています。

そう、いわゆる嫌な人として、キツネどんとアナグマ・トミーは描かれます。

物語では、ベンジャミンの子どもたちが、アナグマ・トミーに誘拐されて食べられそうになるという展開ですが、きっかけはベンジャミンの父親です。

今では、ベンジャミンの父親はおじいちゃんになってしまっています、かつては、あの『ベンジャミン・バニーのおはなし』の最後で、子どもであったベンジャミンとピーターを嚴しく躾けている、あの威厳のあった父親の姿は影をひそめてしまっています。彼は老いぼれて愚かになってしまっているのです。

ベンジャミンとピーターは、アナグマ・トミーとキツネどんの、愚かな争いのすきを突いて、子どもたちを助け出します。それぞれの登場者が危機に対して取る行動が巧みに描かれていて、面白い作品になっています。

しかし冒頭にも述べた通り、絶頂期にはあった、ポター独自の感性は失われかけているかも知れません。


JUGEMテーマ:絵本紹介




18:22 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
−1911年− 『カルアシ・チミーのおはなし』 ビアトリクス・ポター 福音館書店
ポターの本は売れ続けて、その名は、母国イギリスばかりか、アメリカでも知られるようになります。そして、それら、遠くの熱心な人からのファンレターも届くようになりました。

彼女は、この物語で、それらアメリカの人たちを喜ばせようと、新たに、アメリカに生息している、動物のキャラクターを登場させています。そう、この物語のメインキャラクターには、ハイイロリスを、その他には、シマリスやクロクマなども描いています。



主人公は、ハイイロリスのカルアシ・チミーです。彼には奥さんのカルアシ・カアチャンがいます。二匹は、他のリスたち同様、冬支度にクルミの実を集めています。すると渡り鳥の群れがやってきて、彼らに悪気こそないものの、結果としてチミーに災難がふりかかることとなり、二匹は別れ別れになってしまいます。



出来事を語るということは、こういうことなのでしょう。いろいろな作用点が重なって、複雑な織物を作り上げてゆきます。そこには、相互作用だけが存在していて、安易に善も悪も特定することはできません。

ご存知のように、ポターの物語は、善や悪が単純に割り振られません。世間一般では、子供向けというと、そこら辺が割と白黒はっきりしています。子供には複雑なことはわからないという、大人の子どもへの配慮からなのでしょうけれど、いらぬおせっかいかもしれません。

ポターのように何も包み隠すことなく、灰色は灰色のままを、子どもたちに差し出せばいいのだと思います。そうなれば、子どもは子どもなりに考えるでしょう。この物語で、リスたちが冒険の末、知恵を身につけていくように。


JUGEMテーマ:絵本紹介




19:15 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
−1910年− 『のねずみのチュウチュウおくさんのおはなし』 ビアトリクス・ポター
『フロプシーの子どもたち』での、子どもたちの救い主、のねずみのチュウチュウおくさんが主人公です。

おくさンは、たいへんなきれい好きなのですが、少々困っていることがあります。それは、彼女の家の招かざるお客のことです。様々な虫達、それに、蜜をねだる歯なしのガマガエルのジャクソンさん。いつとも知れず、彼女の家にやって来て、埃や足跡などを残し、彼女を困らせます。しかし、その様子は、半ばユーモラスに描かれていて、読者は和んでしまうのですが...。

最後の方では、ジャクソンさん対策が取られて、彼は彼女の家の中には入れなくなります。しかし、その代わりに、内側からチュウチュウおくさんに飲み物を差し出してもらって、ジャクソンさんは満足。のどかな日常が描かれます。

初めて昆虫類が、意識して描かれたのではないでしょうか。ポターは絵を、動植物に対しての学術的研究の手段にも用いていた人です。よって綺麗であるばかりか、ご存知の通り正確さも持ち合わせています。よって、この物語は、描かれている昆虫の、そのリアルさゆえに、虫嫌いの人は苦手とするかも知れません。


JUGEMテーマ:絵本紹介




19:34 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
−1909年− 『ジンジャーとピクルズや」のおはなし』 ビアトリクス・ポター 福音館書店
この物語の背景はソーリー村です。出版当時、村の人の間では、それとわかるような風景がたくさんあって話題になったそうです。

文章には登場せずとも絵を見ると分かるように、これまでポターの物語に登場してきたキャラクターがほぼ全て描かれています。



さてお話しです。猫のジンジャーと、テリヤ犬のピクルズの雑貨屋は、品揃えはいいし、かけ売りをするので評判です。接客にも気を使い、ネズミのお客には、恐がらせないように、猫のジンジャーではなく、テリヤ犬のピクルズがつくなどして万全です(猫とネズミは、捕食-被食関係。ポターは、こういった自然界の法則を、隠してしまおうとする感傷を持ち合わせていません)。おかげで売上こそ上々なのですが、お客さんが、つけで代金を払わないので商売が成り立たなくなり、店じまいを余儀なくされます。

物語中盤、猫のジンジャーが、ネズミのサムエルに請求書を送ろうとするくだりは、ユーモアが感じられておかしかったです。店で一番借りを作っているのが、なんと、ネズミのサムエル夫婦(現実の自然界では捕食される側)ということになっているのです。

そんなネズミ夫婦に商売の為とはいえ、いらぬ気遣いをしていた猫のジンジャーの、ある種の自己欺瞞が描かれているのでしょう。あるいはポターがネズミに対してもっているイメージが、そのまま描かれていものと思われます。ネズミの、生きていくことへのたくましさというイメージです。

村にある、もう一軒の雑貨屋、タビタおくさんのお店は、売上こそ彼らの十分の一ですが、決してかけ売などせず現金売りなので安泰です。



ここにはある種の不条理を見いだせますが、これが世の中というものです。かけ売りをして、接客にまで気を使って、人気の店としたにもかかわらず、潰れてしまうという結末。そんなことが描かれています。


JUGEMテーマ:絵本紹介




18:46 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
−1909年− 『フロプシーの子どもたち』 ビアトリクス・ポター 福音館書店
ポターが子どもたちのリクエスト、”もっとうさぎの物語が読みたい”との声に答えて生まれたお話しです。



ピーターラビットに、ベンジャミン・バニー、ピーターの妹フロプシーはすでに大人になっての登場です。ベンジャミンとフロプシーは結婚していて子沢山、彼らには6羽の子どもたちがいます。そんな彼らの日常が描かれていきます。

生きてゆくには食べ物を得なくてはなりません。そしてそれらは綺麗事だけでは済まされないのです。今日はマクレガーさん宅のゴミ捨て場あさりです。のどかで平和な自然の中で繰り広げられる風景の細部には、食べてゆくことの厳しい現実が描かれていきます。

ポターの物語には、いつもこの厳しさが存在しています。この平和と厳格さのコントラストこそ、彼女の作品の持ち味ですが。



一方、振り返って、読者である我々にも、生きてゆく上での、綺麗事だけでは済まされない厳格さがあります。例えば、人は動物にも同じ地球で生きる友としての、命の公平性を与えてはいますが、それと同時に、彼らを食用としている事実もあります。

ポターは、47歳で遅い結婚をしてビアトリクス・ポターという名を惜しげもなく捨てて、ヒーリス婦人として農場経営者の道を歩むのですが、農場の動物を市場に出す時には、生産者としての揺ぎない態度を示したと言われています。

経済動物と愛玩動物を、自身のなかできっちりとわけて考えることのできる人でした。


JUGEMテーマ:絵本紹介


18:32 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
−1908年− 『ひげのサムエルのおはなし』 ビアトリクス・ポター 福音館書店
ポターのヒル・トップ農場において、ネズミは手におえない相手でしたが、その一方、彼女は、この最も腕の良い盗人たちを愛せずにはいられませんでした。

よってこの物語は、昔、飼っていたお気に入りのペットのネズミに捧げられています。「サミーの思い出のために−迫害されし(ただし決してへこたれない)種族の代表、ピンクの目をした知性あふれるサミー、私の大事な友達、そして泥棒の名人。」となっています。

彼女が愛好するものは、やはり自身の趣向を満たしてくれるものなのでしょう。その献辞から、物語に込められた彼女の気持ちが伝わります。



お話しは、いたずら小僧、子猫のトムの、冒険と受難の物語です。『こねこのトムのおはなし』に登場する、タビタおくさんひきいる猫の一家と、ネズミの夫婦サムエルとアナ・マライアたちのやりとりです。

ポターは、猫とネズミが対立関係にあることを、たとえ子どもの読者であっても、隠してしまおうという感傷を持ち合わせていません。



その恐ろしい体験の後、トムは大きくなっても、ネズミを怖がる猫になってしまうのですが、優れた動物寓話になっていて、ひとに置き換えてみても、いかにもありそうなお話になっています。


JUGEMテーマ:絵本紹介




18:19 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
−1908年− 『あひるのジマイマのおはなし』 ビアトリクス・ポター 福音館書店
この物語を読んでいると、私は、なんとも悲しい気持ちになってしまうのです。確かに、一般に言われている通り、ポターのヒル・トップ農場と、そこで生活することへの希望が描かれた美しい物語なのですが、評伝などで知った、彼女の生きてきた現実を重ねてみると、アヒルのジマイマはポター自身を思わせ、その自嘲が垣間見えてしまうのです。

出版は1908年ですが、この物語が実際に書かれたのは1906年、婚約者ノーマンとの悲しい出来事のすぐ後のことです。もし、彼女自身を物語に登場させたという見方が正しいとするならば、それは、この物語が初めてと思われます。



物語での、ジマイマが、自分で自分の卵を抱いて、ひなをかえしたいと思って、農場を後にし、卵を生む場所を探す行為(農場では、自分で自分の卵を抱いて、ひなをかえすことは許されていません)や、初めて空を飛ぶという行為は、ポターが、不自由な実家を出て、ノーマンと婚約するという行動と重なります。

また、狐に騙されて(文章上では狐という言葉は出てきませんが、絵でそれと分かります)、ジマイマが丸焼きにされ食べられてしまいそうになり、助かったのは良いとして、大事な卵を失ってしまうという場面は、ポターがノーマンを永遠に失ってしまったという現実に重なってみえてしまうのです。



この物語では、農場とは、彼女にとって道徳がはたらく場のようなものを表していて、そこではルールには従わなければならず、そこを出ることは人の道に反することであるように描かれます。

現代で考えると、農場の外にだって人の道はあるよと思われるでしょうが、ポターが生きた当時のイギリスは、そんなことを人々に思わせていた時代だったのかもしれません。少なくとも彼女はそう感じていたのでしょう。彼女の実家も、この農場という場に、含まれているといってもいいと思います。



「ジマイマは馬鹿でした」と書くポターの気持ちを考えると複雑です。ポター自身も自分に対する同情のような愛しみと、自分のしでかした行為の結果の愚かさ、この、二つの感情の間を揺れていたのではないでしょうか。

しかし物語の結びでは、ジマイマは農場で、卵をかえすことを許されたのでしょう。全ての卵をかえすことはできませんでしたが、四匹のひなを得ています。これは読者を安心させることが主目的なのでしょうが、それと同時にポター自身の現実での、その後の希望を描きたかったのだと思います。



なお、ポターのこの物語は、赤ずきんちゃんを下敷きにしています。ペロー童話では、赤ずきんちゃんも、おばあさんも食べられて終わってしまっているので、それに比べると救いのある物語になっているのですが(グリム童話でも猟師に助けられています)、彼女の作品は、1905年にノーマンを失って以来、人生の厳しい現実を見る目がますます強くなっていくようです。

1906年出版の『ジェレミー・フィッシャーどんのおはなし』にも、自然界の厳しい、弱肉強食のテーマが垣間見られていました。


JUGEMテーマ:絵本紹介




18:24 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
−1907年− 『こねこのトムのおはなし』 ビアトリクス・ポター 福音館書店
鋭敏な作家はポターのこの作品を読んで早くも彼女の異変に気づいています。イギリスの作家グレアム・グリーンは

(アヒルの)パドルダック氏の創造は、新しい段階のはじまりを画していることがわかる。…ポター女史はその天才の性格を変えるような感情の試練を体験したにちがいない。この試練の性質を詮索することは無礼なことかもしれない。だが、彼女のケースは奇妙にもヘンリー・ジェイムズのそれに似ている。何事かが起こって、この二人はみかけで人を信じることができなくなったのである。

と推察しています。感情の試練とはノーマンとの婚約に対する両親の反対、それに続く彼の死が当てはまるでしょう。

ポターの両親は、共に綿織物で財を成した家族の二代目です。生活のために働く必要がなく、一生涯、職にはついていません。人は物事を推し量るのに、その価値感が強固であればあるほど、自分の価値観でしか判断することができないものです。

彼らの価値観は、身分やお金です。それらは持つ者にとって強大な価値観となりえます。そうなったら、よっぽどのことが起こらないかぎり、他人が介入する余地はありません。

ポターが、いくら自身の気持ちを説明しても無駄でしょう。まるで、壁にでも話しかけているように、たとえ泣き叫んで訴えても、ポターの気持ちは全く通じななかったものと思われます。何をいっているのか、理解すらされないのです。

これが、彼女の幼少時からの苦しみの本態だと思います。両親は、その価値観から、結婚に反対します。この状況に、頼みの綱の婚約者まで失ってしまったのです。彼女が、人間不信に陥っても、何の不思議もありません。



さて、その、アヒルのパドルダック氏ですが、ネコの三兄弟モペット、ミトン、トムたちにとっては、たまたま出会っただけの存在であり、物語からは、登場しなくてはならない存在としては描かれていません。

確かに、このようなキャラクターは、以前の作品にはありませんでした。グレアム・グリーンは、ポターの変化について、このことをいっているのでしょうか。パドルダック氏の描写は確かに楽しいものではあるのですが、その他の登場者とは関係性が希薄です。

また、ネコの三兄弟と、その母親タビタおくさんとの関係ですが、子猫たちは母親の言うことを聞かず、母親の催したお茶会を台無しにしてしまいます。読みようによってですが『パイがふたつあったおはなし』同様、この物語からも、社交の無意味さをうたった、ポターの諷刺とも読み取れる展開がなされます。この諷するという態度、この時点でのポターなら、十分にありえます。


JUGEMテーマ:絵本紹介




18:17 : ビアトリクス・ポター : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
■ホーム ▲ページトップ