子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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『ホビットの冒険』 J.R.R.トールキン 岩波少年文庫
主人公は、ホビット族のビルボ・バギンズです。ホビット族とは、小人のいち種族で、物語では他にも、多種多様な空想上の存在が登場します。

彼の年齢は50歳ぐらい。50歳といっても、ホビット族の平均寿命が、人より長いという設定なので、人間に換算すると、相対的にもう少し若い年齢を想定して書かれているように思われます。

しかし、50年生きていることには変わりありませんので、良くも悪くも分別のある若者といったとらえ方をしてもいいと思います。そんな彼の冒険の物語です。



ホビット族とは、何事においても臆病なたちで、ビルボも例外ではありません。冒険など”お話の中だけに出てくる空想の出来事”であり、自分自身が成しとげるものとは夢にも思っていません。客観的に見ても、心身ともに冒険向きとは思えません。そんなホビット族の彼が、ガンダルフという魔法使いに見出されて冒険の当事者になってしまうのです。

ビルボの母方の血筋には、妖精小人と結婚したものがいるという言い伝えで、時々ホビット族らしからぬ変わり者が出て、冒険をしでかしたりしたそうです。ビルボもその素養を受け継いでいたのでしょうか、見えない力に突き動かされて、ためらいながらですが、ガンダルフの誘いを承諾してしまいます。

こうして、ビルボは、ドワーフ族の、いにしえに、竜に奪われし故郷奪還の冒険に、お荷物とばかりに思われながらも、忍びの者として合流することとなリます。そのお荷物ぶりは自身でも自覚していて、実際彼は、序盤に幾度となくくじけそうになります。

そもそもこの冒険は、ガンダルフが画策し、ドワーフ族の後ろ盾を引き受けていたのでした。そしてガンダルフだけが、ビルボはこの冒険に必要だと始めから確信しています。

しかし、やがて、ビルボは、冒険のさなか、自身の運命を変えてしまうような魔法の指輪を手に入れると、ガンダルフの思惑通り、次第に本領を発揮して、ドワーフたちからも尊敬を得るようになります。もちろんそこには、彼の内面的な成長があります。



この冒険譚、全くの架空のものですが、この物語の世界観は、多くの人を、魅惑してやみません。こうしてトールキンはファンタジーの世界に巨大な功績を残す事になります。

その世界観ですが、文献学者であったトールキンの深い構想の上に成り立っているようで、文学を勉強してきたわけでもない私の手には余り、追いきれません。

本格的に読もうとすれば、他にも参考にしなければならない本がたくさんあるようで、壮大であるばかりか細部にまで趣向が凝らされているようです。よって、子どもはもちろん大人まで、読者の年齢を問わず、それぞれに寄り添った読解ができます。



ところで、作者であるトールキンは、生きるということに対する傍観者でありがちな、ホビット族の主人公を冒険に導いたように、彼の物語は、読者を、読者自身の現実へといざなっているような傾向があります。

話がそれますが、そんな傾向は、彼に師事したダイアナ・ウィン・ジョーンズの作品においても、引き継がれているようにも思われます。こちらは女性向けですね。

彼の作品は、安易なファンタジーのように、物語の中だけのお話として閉じません。トールキン本人は、これら閉じてしまう物語を失敗作として、自著『妖精物語とはなにか』で手痛く断じていました。

つまり、妄想と空想は、はっきりと区別されます。ちなみに、空想は人間の健全な活動です。妄想は、その反対のものです。残念なことに、妄想を妄想と見抜けずに、現実に開いてしまう人もいますが、空想は妄想と違って、積極的に現実に生成すべきものです。トールキンの物語は読者にこれを成してくれます。ここでいう空想とは、正確にはトールキンの空想ともいうべきものですが...。



物語には、読者に内在する、とある力を誘い出すような仕組みが仕掛けられていて、その仕組みによってもたらされた力は、本の中で閉じず、読者自身の現実へと生成するのです。その仕組みとは、読者の、良くも悪くも単調な日常において、いつの間にか力を無くしかけている心に生気を与えくれるものです。

そう、その仕組みは、大切なことは、あくまで個々の読者の現実の中にあると言わんばかりに、本の外へ外へと誘います。内ではありません。ここがトールキンの真骨頂です。トールキンの物語を夢中になって、読み進めて行くと、本の中で作動している仕組みにとらえられ、読者は読後に本から離れて、自身の冒険をしたくなるのです。

トールキンは、自身の作品の価値を、あくまで読者の現実との等価の相乗効果にこそ見出しているような節があります。トールキンが導こうとしている場所に至るには、読者個々人が内部に、力を蓄える必要がありますが、作品は、その力を得るための装置になっています。そして、彼は、この装置を組み立てることを至上の命題として創作していたように思えてなりません。



最後に繰り返しになるかもしれませんが、少し踏み込んで、この物語を読むことで、読者に起こっているであろうことを、簡単にですがまとめおきます。まあ理屈ですね…。本当はもっとワクワクして読む物語です。



物語では、どこか懐かしく馴染み深い、しかしどこにもない、とあるリアルな空想の世界が展開します。その魅惑的な世界は、まず読者を引き込んで離しません。実はこの世界、現実の多層的認識によリ構築されています。ゆえに、読者にとっては、あたかも自身のリアルな内的現実が描かれているように感じられるのではないでしょうか。これがこの物語に引き込まれる大きな要因です。

そして物語を読み進めていくと、我々の思考のスタンダードである、自然科学や経済学などでつちかった、単層的になりがちな我々の現実認識の、反省的なとらえ直しが行われます。その時に、単層的認識という重しから解き放たれて自由になる力もあるでしょう。そして読者は、この物語の中で、自身の認識を再構築をします。これが物語を読むことで、読者が変化をこうむる中心的な部分です。

そして物語最後に、読者自身の現実でのハッピー・エンディングが予言されます。それはこうです。

ビルボは、すべてを成し遂げて、居心地のよい平和な我が家へと舞い戻ります。そして、こよなく愛している、この我が家であるホビット穴での生活で、素敵な食事と快適な睡眠を満喫するのでした。



これら読者に起きる出来事の過程は、”空想の世界だけの出来事”と思っていた冒険が、突然我が身に降りかかり、その当事者となってしまった、この物語の主人公ビルボのこととそっくりそのまま重ね合わせることができます。

こうしてビルボに寄り添って共に、変化をとげた個々の読者は、物語が終わってしまっても、物語で得た力をたずさえて、再び個々の現実へと舞い戻って行くのです。



追記

あとがきに、この本の訳者であり、日本の児童文学に大きな功績を残した、、故、瀬田貞二さんがトールキンのファンタジー論である『妖精物語とはなにか』から短い文章を残しているので、ここに読書メモとして追記しておきます。

おそらく瀬田さんは日本語訳のp93あたりのことを中心にこの論文を要約しているのだと思われます。

読むにこたえるファンタジーなら、子供の独占物ではなく、おとなこそよくその意義にこたえるだろうし、空想力はけっして科学の敵ではなく、むしろその親である。
『ホビットの冒険』あとがきより



更に追記

トールキンの物語は、あまりにも支持を受けたためでしょう、その影響は、現代のファンタジー小説の王道の一角を作るほどです。未だにコピーしようとする作家も多く存在します。

しかし、そのためか、いささかオーソドックスで古さを感じさせられることもあります。消費し尽くされてしまったのかもしれません。

媒体は違いますが、R.P.Gのゲームでは、その世界観、展開が、無数にコピーされています。


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18:23 : J.R.R.トールキン : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『星の王子さま』 サン=テグジュペリ 岩波書店
フランスの作家であり、郵便輸送の飛行機パイロットでもあったサン=テグジュペリは、様々な挫折を経て、この美しい物語を遺書とするように、第二次世界大戦時に空軍少佐としての飛行任務のさなか、忽然と消息を絶ちます。どこかに墜落でもしたのでしょうか? 捜索は行われましたが、自軍、敵軍とも、彼のその後を明らかにすることはできませんでした。44歳でのことです。美しい伝説だけを残すように...。

彼は、この童話の形態を借りた物語の献辞で、子どもたちにではなく、大人である”この世で最も大切な、ぼくの友だち、レオン・ヴェルトに捧げる”と述べています。

レオン・ヴェルトは、サン=テグジュペリの親友で、第二次世界大戦当時、フランスにおけるナチスドイツの侵攻下で、弾圧対象だったユダヤ系フランス人の美術評論家です。この献辞は、この物語に書かれていることのとある一面を象徴しているように思います。そのことは追々...。



いっけん、主人公の星の王子さまは、”子ども”を思わせる描写がされるのですが、この物語での、サン=テグジュペリに於いては、一般に言う”大人”、”子ども”といったステレオタイプな区分けは希薄です。王子さまは、不思議な魅力をもって描かれます。そんな王子さまが、あの有名な「大切なことは目に見えない」というメッセージと共に、物語は綴られていきます。

童話の形を取りながらも、これだけ広く、子どもばかりか、世界の大人にも愛された物語はないと思います。



一般的に、大人たちが、そのところどころ挟まれた挿絵などから、この本を読む最初の動機とするものは、多くの場合、読者自身の子供時代へのノスタルジックな追想への欲求だと思います。しかし、ページをめくっていくうちに、そんな期待は見事に裏切られます。全編通して見られる、大人への揶揄や皮肉。

それは次のようになされます。子どもとも大人ともとれない、星の王子さまのロジックは、あるいは、その透徹したその視点は、登場してくる大人たちの、大人の事情による思考や、行動と、どこか噛み合いません。そして、その大人たちは、王子様に皮肉られるのです。

これに、読者である大人は、思考の軸を揺さぶられます。そして考えさせられるのです。大人の事情を知ったうえで、考え行動することと、本当の大人になること、つまり、人間として、より完成に近づくこととは、全く別のことなのかもしれません。



また、この物語は、第二次世界大戦時に書かれたと述べましたが、戦争だって大人の事情によるものなのかもしれません。この物語は、それに対する、サン=テグジュペリなりの回答の一つだったとも考えられます。戦争を始めた大人たちは何をしているのかと...。

だとすれば、この童話形態をとった物語が、冒頭で述べた、大人である、レオン・ヴェルトという、一人の戦争における迫害されし友人に、捧げられた理由ともつながってゆきます。つまりこの物語は、彼への励ましになっているのです。そして、この物語は、あくまで童話ですが、一面、戦争の不毛を思う、まっとうに生きる大人たちへの賛歌にもなっているのです。

世間一般でいう大人になるという常態を、仮に心の老いてしまった状態と表現するなら、大人になるということは、大人の事情を知ったうえでも、老いてはならない、とのサン=テグジュペリのメッセージとも受け取れます。

その場合、何らかの手段を講じて、ある意味、思考の健全性を、自らのうちに留めておかなければなリません。サン=テグジュペリは、その手段を、苦境にいる友人に、童話の形態を借りた、この物語を捧げるという形で、提供したのではないでしょうか。レオン・ヴェルトにとって、この物語は、老いからの脱却手段となったはずです

J.R.R.トールキンも老いから抜け出す手段の一つに、ファンタジーを愛することをあげています。

両者の著述のジャンルは、トールキンがファンタジー、サン=テグジュペリが童話と少し違いますが、どちらも子どもに親和性があるとされるものです。もっとも、サン=テグジュペリの場合、童話は、この物語のみですが...。それにしても偶然でしょうか。老いとの関連で述べましたがわかりやすい結果となりました。両者の見解はほぼ一致しています。



それはともかく、この物語のテーマは多岐にわたります。生と死の問題や、友情についてなど...。今回の読書では、特に多様性と画一性の問題が、わたしの印象に残りました。

世間を見渡せば、色々な読まれ方があるようです。それが名作というものですね。わたし自身、子供の頃に読んだ感想も違ったものでしたし、未来に読んだ時に受け取るメッセージもまた、違ったものとなるでしょう。



最後になりますが、サン=テグジュペリの創作作法は、自身の経験によるところが大きいようで、彼のくぐってきた歴史や、個人的な経歴、エピソードを追うことで、物語のより正確な読解が期待できます。

例えば、三本のバオバブの木は第二次世界大戦下での日・独・伊の三国同盟を比喩したものであるとかいう憶測であるとか...。星の王子さまの愛したばらの花が妻のコンスエロのことなのではないかとか...。

しかし物語の豊かな読解への道が削がれてしまうのではないかとの思いもあり、もうこれ以上、物語成立の背景に踏み込むのは止めにしました。ちなみに、この記事も少し踏み込んだ状態にありますね。

ようは種明かしになってしまって、解釈が硬直してしまうのではないかとの危惧です。または、プルーストのいう”美しい誤読”が入り込む余地を残しておくぐらいのほうが、多様な読書経験が得られるのではないかとの思いへの配慮です。

こうすることによって、未来に再読する場合があったときにも、より多角的読解への道が開けるものと思っています。


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18:34 : サン=テグジュペリ : comments(0) : - : チキチト :
読書雑記 - ”美しい誤読”について、実践しているとある事
人はたいそう昔から、伝達手段を発達させてきました。しかしそれでも足りないのでしょう。個々の技術的な問題がありますが、それを取り除けたとしても、もどかしさを感じるのではないかと思います。

例えば、全く未知のことを相手に伝えるならば、まず、そこには物理的あるいは時間的限界があって、なんとかやっとというところでしょう。



たとえ、それらの限界を超えられたとしても、そもそも人が人にものを伝える場合、意味の届かない、つまり言葉などの伝達手段が届かない領域がどうしようもなくあって、それに伴う伝える側も意図しない誤解の入り込む余地が、少なからずあります。例えば、伝達者が持つ、無意識の広大な領域とか...。

よって、そこに提示された意味をを追うのには限界があります。もしかしたら正しい意味の解釈など存在せず、ただ個々の解釈だけがあるのかもしれません。誤解は避けられないのです。そして誤解にはふた通りあると思います。肯定的なものと否定的なものです。

肯定的な誤解は人と人をつなぐものです。否定的なそれは離反を招きます。



私はブログで本のことなどを扱っておりますが、ここで、今までの話を読書の話に置き換えてみます。著作というのも伝達手段の一つであり、誤解の話は読書における誤読の話に通じると思うのです。

人が人を誤解するのと同じように、本に対する誤読も、解釈の範囲を超えているとかいう意味ではなく、全くの別次元の問題として避けられないものと思っています。そして誤読にもやはり肯定的なものと否定的なものがあると思っています。

誤読にまつわる話として、フランスの作家マルセル・プルーストは次のように述べています。なお、この引用は、フランス現代哲学者ジル・ドゥルーズの著作『対話』の中からです。

美しい本は一種の外国語で書かれている。ひとつひとつの語の下に私たちのひとりひとりは自分なりの意味を盛り込み、あるいは少なくとも、自分なりのイメージを盛り込む。そのイメージは誤読になることもある。しかし美しい本のなかで作り出される誤読はすべて美しいのだ。
マルセル・プルースト『サント=ブーヴに反論する』より

また、この引用には誤読の存在理由に関する、一つのアウトラインも提示されています。著者は個々の読者のイメージの中にまでは入り込めません。そこに誤読が入り込む余地があるのです。よって、表現はある人からしたら完全たりえないものでしょう。しかし、人がプルーストのいう”美しい本”に出会えたとしたら、こんなの素晴らしいことはないのではないでしょうか。

この引用は多くの示唆に富んでいると思います。肯定的誤読は、本と人の間で相乗効果を生み、本の内容以上の何者かが両者の間を通り過ぎます。否定的な誤読とはその逆です。そして、肯定的誤読に恵まれる機会とは、ある意味まれなことでしょう。残念ながら比率的に多くを占めるのは、否定的誤読と言えるかもしれません。できることなら、プルーストの言う”美しい本”に、多く出会いたいものと心から思っています。

よって、否定的にうつった本は、一旦置きます。これらの本は、後日また手に取るかもしれません。不思議なことに、読書の場合、時を経て再会してみると、思いのほか、面白かったりすることもあリます。私がその本に巡りあうタイミングが悪かっただけなのかもしれません。

以上のことを、多くある本の選別法としています。


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19:08 : ■ ”美しい誤読”について、実践しているとある事 : comments(0) : - : チキチト :
『思い出のマーニー』 ジョーン・G・ロビンソン 岩波書店
境遇がそうさせたのでしょうか。自分から、なにも”やってみようともしない”無気力な女の子、アンナの救済の物語です。

彼女は、幼くして親を失います。甘えたい年頃なのに、それを押し殺して生きています。

親を失った代償は、ロンドンでの育ての親プレストン夫妻との生活の中では埋められず(プレストン夫妻は決して悪い人達ではないけれども)、アンナは次第に孤独癖をつのらせてしまいます。もちろん友達も出来ません。

ついに殻に閉じこもって、誰にも心を閉ざしてしまいます。とうとう学校にも通わなくなってしまいました。

そんな彼女の、孤独な人間にありがちな、ちょっとひねくれた妄想が、吐露されてゆきます。

やがて、アンナのことをを心配したプレストン夫妻は、イングランド東部のノーフォークにある、入江に面した村リトル・オーバートンに住む古い友達、ペグ夫妻のもとに彼女を預けることにしました。

ここでのアンナの生活が物語の骨子です。



リトル・オーバートンでのアンナの生活は、始めのうちこそ、相変わらずでしたが、しだいに”しめっ地やしき”と呼ぶ、海辺の古い屋敷に引きつけられてゆきます。童話によく出てくる異界と呼ぶべき場所でしょうか。そして彼女は、そこに、どんな人が住んでいるのだろうと興味を持ちます。

そして、足しげく”しめっ地やしき”に通っているうちに、ここで、マーニーという不思議な少女と出会います。

アンナは、日を重ねてマーニーに会っているうちに、彼女を、心を許せる唯一の友達だと知ります。

やがてアンナはマーニーの虜になり、彼女なしではやっていけないぐらいに執着します。そして、毎日、彼女の姿を追って生活を送るような日々を過ごす事になります。

二人は永遠の友情を誓い合います。アンナはこの交友の中で、これまでのことを癒してゆきます。そして不意に訪れる不思議な別れ。アンナは命をかけて再会を果たそうとしますが叶いません。



マーニーとはいったい何だったのでしょう。アンナのこれまで抑圧して、向き合うことを避けていた自分の分身のような存在なのではないでしょうか。アンナの無気力は結果として、マーニーと向き合うことで、いつの間にか解消されてゆきます。そして、マーニーは、ことが済んだら去っていってしまいました。

以来アンナは、周りの出来事が別世界に感じられるようになります。活気も出てきました。なにも”やってみようともしない”彼女は過去のものとなります。アンナはこれまでの出来事と和解します。同時に彼女に関わってきた周りの人々とも…。そして未来に出会うであろう人とも…。

アンナのちょっとひねくれた妄想は、物事の受け取リ方の裏反分に由来するものに過ぎなかったのです。彼女の境遇からくる、心の癖のようなものだったのでした。

彼女は表半分にも目を向けました。すると全てが受け入れられるではないですか。彼女の性格は、ほぼ180度変わってゆきます。天真爛漫といっていい程に…。



最後にマーニーの本当の正体が明かされます。マーニーは、今は亡き、アンナの実のお祖母さんでした。アンナのリトル・オーバートンでの大きな成長は実は、お祖母さんの自分が果たせなかった思いへの孫に託された希望が姿をとったものでした。

そして、アンナとマーニーとの間で交わされた出来事は、もしこういう言い方が許されるなら、アンナの不安定な時期を、架空の世界の中で、お祖母さんであるマーニーが支えていたということなのだと思います。

また、先程マーニーの自分が果たせなかった思いと書きましたが、マーニーは、全てを持っているようで、実はあまり幸せな幼少時代を送っていないのです。時は隔ててもお互いがそれぞれを求め合っていたとも言えます。

この物語は幾重にも層が折り重なり、読み手に、まだまだたくさんの解釈を許します。子供はもちろん大人にも十分読み応えのある作品です。また、もしも私が女性なら、ディティールまで、もっと共感できた部分もたくさんあったものと思います。


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18:36 : ジョーン・G・ロビンソン : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『まぼろしの小さい犬』 アン・フィリッパ・ピアス 岩波書店
表題の一部にもなっている”まぼろし”とは、心理的レベルでとらえるなら、それは現実に属するものといってもよいものと思われます。

この物語では、一匹の犬の姿をとった、その”まぼろし”が、一人の少年の愛情の深化を背景に、彼の成長へのトリガーのような役割を担って、リアリスティック描き出されます。このフィリッパ・ピアスの曖昧なものをリアリスティックに描く手法は、『トムは真夜中の庭で』同様、健在です。

そして、人が、思い通りにならない現実を愛することができるようになるには、いかに多くの深い体験を重ねなければならないかが物語られます。



● ベンとおじいさんとの約束 

ことのきっかけは、主人公ベンの誕生日プレゼントに一匹の犬をと、離れたところに住まう、ベンのおじいさんが彼に約束したことにあります。結果をいってしまうと、その約束は一時お預けです。

ベンの住むロンドンでは犬を遊ばせる広い土地がないという条件的な理由や、おじいさん夫婦には犬を買うほど余裕がないという経済的理由などからです。

なぜおじいさんは無理な約束をしてしまったのでしょう。それは、ベンの、このところの境遇に、おじいさんが思わず手を差し伸べてしまった、ということなのでしょう。

ベンは五人兄弟の真ん中ですが、ベンは姉、弟たちとは話が合わず、家の中で半ば孤立していました。



● がっかりな誕生日プレゼント 

さて、実際に、おじいさん夫婦からベンに送られてきた誕生日プレゼントは、生きている犬ではなく、毛糸でクロスステッチされた小さな犬の絵でした。。

それに対してベンは、生きている勇敢なボルゾイ犬を心に描いていたのでした。何も本物のボルゾイ犬を望んでいたのではありませんが、待ち望んでいたものが、こんな弱々しい小さな犬の絵になってしまったのです。ベンは期待が大きかった分、がっかりしてしまいます。

その絵は、航海を生業にしていたおじいさん夫婦の息子がメキシコにてもとめたもので、彼はその絵をおじいさん夫婦に送ってまもなく命を落としてしまいます。それが彼の遺品になってしまいました。

つまりその絵は、おじいさん夫婦にとって大切なものなのです。それを送ってくるということは、口約束とはいえ、それを破ってしまった彼らの気持ちがあらわれています。

絵の裏にはその絵の前の持ち主であったであろう人の筆跡で”チキチト チワワ”と書かれてあります。その意味は、チワワ犬種であり、チキチトというのは現地の言葉でとてもとても小さいということのようです。

ちなみに、チワワという犬種の歴史はとても古くて、九世紀ごろメキシコで聖なる犬として崇められていた”テチチ”という犬が祖先といわれています。後に分かりますが、この物語の”幻の小さい犬”のモチーフを象徴しています。



● ベンとおじいさん夫婦との和解 

ベンはおじいさん夫婦の気持ちをちゃんとくむことのできる賢い子どもでしたが、頭では分かっていても心はそうたやすく鎮まりません。しかし、そんな心もやがて鎮まり、おじいさん夫婦のもとに絵のお礼に訪れます。

そして、やがて時は過ぎ、ベンは家に帰らなくてはなりません。しかし、その帰途にベンは、おじいさん夫婦にもらった大切な犬の絵を無くしてしまいます。

ベンは心の奥底では犬の問題を解決できないでいたのでしょう。犬の絵を本心では遠ざけていて、ないがしろにしていたのかもしれません。

犬の絵を無くしてしまった後悔から、ベンは、チキチトという名の、空想上の子犬を心に住まわせます。チキチトは、無くしてしまった絵の中の存在でしたが、ベンの心の中で再生するのです。



● チキチトという、まぼろしの小さい犬 

チキチトという名の小さい犬は、まぼろしとして突如ベンに身近な存在となりました。ベンがまぶたお閉じれば、すぐそこに姿を現します。ベンにとって、何もかもを詰め込んだような理想ともいえるその犬に、彼は夢中になります。

ベンは機会さえあればまぶたを閉じてチキチトを呼び出します。このチキチトは外的な現実では得られないものを内的現実として満たしてくれるのです。

しかし、チキチトは、まぼろしであり、あくまで内界の存在なのです。ベンの満足とは裏腹に現実には色々支障が出てきます。

案の定ベンは、夢遊病者のようにまぶたを閉じてチキチトを呼び出しているところを、車にはねられて大怪我をおいます。以来チキチトも現れなくなりました。



● 思いがけず果たされた約束 

この事件をきっかけに、ベンをめぐる環境はガラッと変化します。ベンは退院後再び療養のためおじいさん夫婦のもとを訪れます。そこではなんと、おじいさん夫婦の飼い犬のティリスが、子犬を9匹も産んでいました。おじいさん夫婦は約束は約束だからと、その一匹であるブラウンををベンにあげるというのです。しかしロンドンでは飼えません。

ところがベンの家族は長女が結婚後、次女を伴って出て行ったため家が手広になっていたのを期に、ベンの健康のことも考えて郊外に引っ越しをすることになったのです。引越し先のそばには自然公園があり、犬を遊ばせることのできるので、犬が飼えるのです。そう、思いがけない形で約束は果たされます。



● ブラウンが気づかせてくれたこと 

ベンは”ブラウン”のことを”チキチト・ブラウン”と呼ぶつもりでした。自分がやっとのことで手に入れた犬にふさわしいと思ってのことでしょう。あの誇り高い理想の、まぼろしの犬、チキチトの名を冠したのです。

ところが、ブラウンを連れ帰る途中に知ったのですが、この犬は弱虫でした。自然公園にまでたどり着いた時にベンは二人の弟が迎えに来ているのに気付いて二人を避けます。こんな情けない犬を見せたくなかったのです。

ベンは自然公園で暇をつぶします。犬に対してそっけない態度で接しているうちに、犬の方でも自分が置かれている状況を察したのでしょう。一人と一匹の距離はしだいに離れてゆきます。このままでは犬は迷子になってしまいます。その時、突然ベンは、はっきりとあることを悟ります。少し長いですが、その場面の引用です。

ベンは、はっきりとあることをさとった。それは、手にいれることのできないものは、どんなにほしがってもむりなのだ、ということだった。ましてや、手にとどくものを手にしないなら、それこそ、なにもてにいれることはできないということを。

同時にベンは、チキチトとは大きさも色も、似ても似つかない、このおくびょうな犬にだって、ほかの一面があるのだということを思い出した。

だいて、はこんでやったとき、自分のからだにあずけられたあの犬の暖かさ、呼吸するときのからだの動き、くすぐったい巻き毛。

ベンの思いやりをもとめて、すりよってきたときのかっこうや、つれないしうちをされても、なお、あとをついてきた、あのときのようす。

その茶色の犬は今ではずっと遠くにいってしまいました。

急にベンは自分が無くしかけているものの大きさに気づかされて、叫びます。

「ブラウン!」と。



● 成長 

そう、ベンが失いかけていたものは愛情だったのです。物語の始めから終わりまで、これ程の深い体験を重ねなければならないほど現実を愛するということは困難なことなのです。

途中、内界の存在である、まぼろしの犬チキチトに惑わされますが、それはベンの成長へのトリガーとなっています。結果的にそれは彼の深い体験につながりました。彼は現実を愛するということが、どういうことなのかを学んだのです。

ブラウンはベンの足にもたれて、あえいでいた、いかにもベンがすきだというように。ベンも愛情をこめていった。

「もうおそいよ、ブラウン。さあ家へかえろう。」

ベンはその犬の名を、改めて”正しく”口にします。まぼろしの小さい犬の名”チキチト”の名を、もうブラウンの名に冠することはしませんでした。


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18:50 : アン・フィリッパ・ピアス : comments(0) : - : チキチト :
『トムは真夜中の庭で』 アン・フィリッパ・ピアス 岩波少年文庫
”時間”という抽象的な概念を扱った作品でありながら、けっして理屈っぽくはなく、作者フィリッパ・ピアスが描く非日常の”永遠”にも似た時間空間が、”日常の時間”を時々挟み込みながら、実に巧みに表現されていくのですが、強引さはなく、あくまで自然で、まるでこれも現実の出来事のように思わされます。いや現実なのかもしれません。あるいはなぜこのような物語装置が組めているのか、なんとも不思議な思いにさせられるのです。児童文学作品ですがファンタジー小説とも言えます。

ちなみに映画監督の宮崎駿さんは、最も影響を受けた児童文学作家にフィリップ・ターナー、エリナー・ファージョンらとともにフィリッパ・ピアスの名を挙げています。


● 不運な休暇の始まり? 

少年トムは休暇を弟と共に楽しく過ごそうと、自宅の裏庭にある林檎の木の枝と枝の間に家を作る計画をねっていました。しかし弟がはしかにかかってしまい隔離されることになり、トムは家を出ておじさん夫婦の家で過ごすことになります。

トムは、おじさん夫婦には遊び友達となりうる子どもがいないし、何より彼らが庭さえないアパート住まいであることを知っていました。こんなところで休暇を過ごさなければならないなんてと落胆していたのですが、不思議なことがおこります。ここでの非日常的体験が物語の骨子です。


● 大時計 

おじさん夫婦の住まいの玄関には、不自然に大時計があります。この時計は3階に住んでいる大家さんバーソロミューおばあさんのものでしたが、留め金が錆び付いていて、外すことができず動かすことができないために、ずっと大昔から、玄関のそこで休むこと無く時を刻み続けています。

おじさん夫婦の家にあずけられた最初の晩、眠れないでいたトムに、ある出来事がおこります。大時計の時報がありえない13回の時を刻んだのです。彼は、大時計の針を確かめるべく、階下にある時計のもとに降りてゆきます。

時計は真夜中ゆえに暗くて確かめられません。トムは、屋内に月の光を入れようと裏口のドアを開けると、なんとそこには存在しないはずの庭があるのです。この庭は13回の時報という特別な時に現れることもやがて知ります。トムは毎晩寝床で13時を待ってこの異界とも言うべき庭に出かけてゆきます。そして、退屈になるはずだったおじさん夫婦との生活に思わず喜びを見出します。



● 庭 

庭には住人がいます。しかし彼らはトムという存在を感知することができません。しかしハティという少女は別でした。彼女には両親がおらず慈善施設にあずけられていたのを自身三人の息子を持つおばにいやいや引き取られたのですが、家庭内では厄介者のような扱いを受けています。彼女にはトムが見えています。トムとハティは出会いました。

なぜトムとハティは出会えたのでしょうか。家族という日常の存在から切り離された孤独な少年と、異界の孤独な少女。出会ったというより求めあっていたのかもしれません。


● ハティ 

庭で二人が会うのは、トムとっては毎日ですが、ハティにとっては大変な時間が流れています。それも時は進んだり戻ったり。トムとハティの時間の流れは違います。それぞれの時間の線がたまたま交差するときに、二人は出会っているようです。それが13時です。この不思議な時間空間の中で、トムとハティの物語は語られてゆきます。

庭にて、トムとハティは友情を育みます。友情以上のものといってもいいでしょう。お互いがいなければ倒れてしまうかもしれません。


● もう時間がない 

物語終盤、トムは自分が体験している不思議な現象が、あの大時計にあると踏んで、ハティに時計を調べてもらいますが、分かったのは時計の振り子に書かれた「もう時間がない」という言葉だけです。

ハティはそれが黙示録からの引用だということを教えてくれるのですが、謎解きの手がかりにはなりません。しかし二人にとって、これほど切実な言葉はないと思われます。そう二人の不思議な旅はまもなく終わってしまうのでしょう。トムはもうじき家族の元に帰らなくてはなりません。庭に現れてくるハティも、もう大人の姿をとっています。心の支えがいらないほど成長しました。文字通り「もう時間がない」のです。


● 異界に取り込まれなかったトムに働いている自然な力 

このアパートでの最後の晩、トムは実行できずにいた計画を遂行します。トムはまた庭に子ども時代のハティが現れてくれるのを期待して、彼女とそこで何年でも遊んでいようと計画していました。おそらく大時計が夜中の12時に13回の時報を鳴らしてから1時間だけ出現する庭に流れる時間は永遠なのです。

しかし庭は無情にも現れませんでした。トムは真夜中の1階にある大時計の前でハティの名を口にして大声で泣き叫びます。その声は、3階の大家であるバーソロミューあばあさんのもとにまでも届きました。


● 円環的な時間の流れ 

翌朝トムは、実家に帰る間際、バーソロミューおばあさんに呼び止められて驚くべき事実を告白されます。ハティは私だと。よく見るとおばあさんはハティの面影を残しています。

そして、トムとハティが出会った庭という時間空間は、おばあさんの夢の世界であったことを彼女から明かされます。

庭には直線的な時間は流れていません。例えるなら円環的な時間が流れています。この庭という不思議な場が二人の出会いを可能にしていたのでした。そう庭での出来事は単層的な現実認識では説明できませんが、多層的な認識ができるのなら全てが真実となるのです。



● 見ず知らずの二人のありえない初めての再開 

この物語に起こっている仕掛けのトリガーは、トムが予想した通り、やはり大時計であると思います。現在のトムと過去のハティを結ぶものが、これしかないのですから。

不安定だった二人が支えあっていた場である庭は、ハティが成長してトムを必要としなくなった時、または、トムが家族のもとに帰る段に消えてしまいます。しかし二人も驚いていますが、これまで述べてきたように不思議な場での友達であった二人が、現実の世界で再開を果たしてしまいました。円環的な時間の流れの存在が証明されたといったところでしょうか。

そして二人が完全に互いを認め合ったその瞬間に、バーソロミューおばあさんは昔のままの少女ハティとしてトムの抱擁を受けるのです。

円環的な時間の流れ、多層的現実認識とは、子ども特有のことかもしれません。しかし大人でも持つことはできます。

おばあさんは、じぶんのなかに子どもをもっていた。私たちはみんな、じぶんのなかに子どもをもっているのだ。
『真夜中の庭で』のこと フィリパ・ピアス p-358 l-04



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19:17 : アン・フィリッパ・ピアス : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
読書雑記 - 子どもの文学について思う、ひとつの効能
現代人にとって自然科学や経済の考え方は必須です。大人になるためには、それらに合わせて現実認識を、表面上、単層的にしてゆきます。そうしなければ社会の成員として生きてゆくことができないからです。

しかし人間というものは、そんなに単層的な存在ではないので、過剰適応しようものなら、そのギャップに窮屈さを感じてしまいます。

こういうことに我々は、どう対処すべきなのでしょうか。大人であろうとして自らの多層性を抑えこんでしまうと、そこからは、現実に対する悲しみなどの、マイナスの感情を抱きかねません。

これらのことをどうにかならないものかと生活を振り返ってみると、改めて読書の有用性を感じています。



ようは現実生活で慣れ親しんでいる処世法、つまり、世界の単層的で平板な読み取りを、一時、読書によって、強制的に、人間本来の多層性へと移行させてしまうわけですが、これだけでも有意義なことだと思っています。

この時、自我は、現実から離れて、一時的に新たな布陣で再構成されます。それに伴って生じた新しい自分は、現実の自分ではないような錯覚を起こすかもしれません。いわゆる本に感化された状態です。

すると、窮屈な思いをしていた心は、自然と活気を取り戻します。現実生活で窮屈に感じていた自我を、己の世界の全てと考える必要はないことに改めて気付かされるのです。

しかし、なかんずく放っておくと、また、日常に呑まれて、いつの間にか元に戻ってしまうので、わたしにとって読書は習慣となりました。



すると、この読書の習慣は、かけがえのない経験になっていることに気づきます。いつの間にか、自身の現実に対する認識が、徐々に変性していくのです。

つまり、これまで窮屈に感じていたことが、着眼点がずれて、見え方が変わってくるのです。現実認識に奥行きがでたのでしょうか、苦に感じていたことが、あまりそう意識されなくなるのです。

どうしたって世界との関係が切れないいじょう、こうした手続きを踏むことは、わたしにとってやむを得ないことでした。何はともあれ、そのための手段として読書を利用しています。

わたしにとって読書とは、自身と、その現実認識を、積極的に変性させていくものであり、そのための半ば実用的手段となりました。そこにつながらない読書はあまりしません。そして、その読書傾向ですが、当然ある意味偏ったものとなりました。



トールキンは述べています。「悲劇」が「劇」の真の姿であり、その最高の機能であるとするなら、「妖精物語」(ファンタジー)はその対局である「ハッピー・エンディング」を志向すると…。

そう、わたしにとって、目的を果たしてくれるのは、子どもに親和性のあるファンタジー小説や児童文学に類するものの読書でした。本の結末が、まずは、明るいものでなくてはならなかったのです。

もっとも現代では、ダークファンタジーといった分類のものもありますし、子どもに絶望を説く児童文学もあるようですが、それは除きます。



大人の文学と子どもの文学の差を規定するなら、児童文学についての次の宮崎駿さんの引用が的を得ていると思います。

児童文学というのは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という、人間の存在に対する厳格で批判的な文学とはちがって、「生まれてきてよかったんだ」というものなんです。
『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』宮崎駿 岩波新書 p-163 l-05

つまり、大人と子供の文学の差は、絶望とか、希望に関することの、取り扱い方の違いであると思います。日常の反復を脱し差異を求めるという課題は両者に共通でしょう。共にあがきます。

しかし、大人の文学はいくらあがこうにも、どこか絶望とは縁が切れないのに対して、傑作と呼べる子どもの文学は、全人的な多層性(ファンタジー)まで駆使して、絶望を通り越した地点にまでたどり着こうとするのです。

この全人的な多層性が重要です。トールキンが言うように、作品として達成することは難しく、行うものも少ないのですが、もしそれができたなら、それはもはや物語芸術といってもいいでしょう。



ファンタジーや、児童文学の傑作と呼べるものの物語の世界は、大抵、現実世界の単層性に比べて、皆、多層的です。

そんな世界にあって、登場人物は、自ら求めている回答になかなかたどり着けません。対立する見方が存在する中で、そのどちらかを早計に選びとることなく、(ファンタジーを伴った)第三の道を探って苦悩しあがくそれらの人物に、あるとき個性的な道がひらけて来ます。そして希望が描かれるのです。

わたしにとってファンタジーや、児童文学を読む行為は、そんなふうに希望に至る登場人物に自らを重ね合わせたりして、自らの本来あるべき正気を取り戻す過程とも言えます。

そして、わたしはそれら子どもの文学の読書によって、生成される新しい何者かを足がかりにして、更に自分自身の現実に向かい試行錯誤するのです。読書ははじめの一歩の役割を果たすといったらよいのでしょうか。

これらのことを、これほど巧みにやってくれるものは、そうないんじゃないかと思っています。





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19:19 : ■ 子どもの文学について思う、ひとつの効能 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 5”回復、逃避、慰め”及び"結び"
まず、ここでトールキンは、芸術の諸分野で、幾世代にも継承されてきた歴史の一番後ろにいる我々の現状を、老いるという言葉を用いて考察しています。

老いとはずいぶん前から言われていたことですが、長い歴史の中で、もう何もかもやり尽くして、独創性を求めるにしろ、この上に、今更何も築けない、もしくは感じ取ることができないという思い込みのことであるとトールキンは定義します。トールキンは、この呪縛からの回復を望んでいます。

回復とは陳腐さや慣れからくるぼやけた視野を再び曇のない状態へと移行させることですが、彼はその一手段として、妖精物語を愛することをあげています。このような論をいくら講じても、老いからは抜け出せないどころか、余計に深みにはまるともいっています。トールキンはそのことを承知のうえで、なお書かずにおれないようです。



トールキンは、芸術の広範にわたって、これらのことを述べるために、空想という概念を用いて考察を重ねます。それも、ありきたりの第1世界、つまり現実世界からの空想に留まるのではなく、これまでこの本の各章を追ってきた方なら分かると思いますが、純粋に第2世界である空想世界を作り上げる「創造的」空想に話は及びます。

「創造的」空想とは、あえて言うなら、自分たちのことから、ものごとを切り離して見る空想のことであって、その対象が、たとえ単純なものであっても、すでに我々に専有されていると思いこまれていた事象が、実は、どこか不思議さを伴った、新鮮なものであるということを再発見させてくれるものです。

つまり「創造的」空想は、我々を老いから防いで、子どもらしさのうちにとどめてくれるのです。これが妖精物語を愛することの効能のひとつ、回復です。



続いて、妖精物語を愛することの効能である逃避、慰めについての言及が続きます。

まず、逃避について考察されます。まずは、妖精物語が、誤った意味で、逃避文学の一つとしてみなされていることへの弁護に始まります。トールキンは妖精物語の持つ逃避の機能を認めているのですが、昨今の軽蔑の意を込めて逃避という言葉が用いられているのを、断固受け入れがたいものとしています。

逃避文学の必要条件を十分に満たしている、科学小説に与するサイドからさえ非難されてしまう始末なのです。

そもそも我々は実生活において逃避を実用性の高いものとして堂々と用いているのです。トールキンは妖精物語の作者や読者が、何も恥じ入ることはないと述べています。少し考えただけで分かることなのに誤解が生じてしまっているのです。

トールキンは、人々が逃避を軽蔑する訳を、「囚人の逃避」と「脱獄者の逃避」を混同しているからであると述べています。人が、何の罪もないのに、牢獄の中にいることに気づき、脱獄して家に帰ろうと試みたからといって、どうしてその人が軽蔑されなければならないのか? これは英雄的行動であり、積極的な逃走でさえあるとも述べています。

世の中では誤解を招いていますが、これら逃避による開放を、妖精ものがたりを愛することの効能の一つにあげています。



次に、慰めについて考察されます。慰めの問題は逃避の問題と関わりがあるとした上で、妖精物語の与える慰めには逃避による開放以外の側面もあるとトールキンは指摘しています。それはあの「幸せな大詰め」(ハッピー・エンディング)です。「悲劇」が「劇」の真の姿でありその最高の機能であるとするなら、「妖精物語」についてはその反対側の極を真とするとトールキンは述べています。

そこに悲しみや失敗の存在は認めていますが最終的な敗北を断固拒否します。これを例えて、キリスト教の福音のようなものともいっています。

そしてその効果について最後に引用しておきましょう。

物語のなかで突然「大詰め」がやってくると、喜びと心からの願望がつきあげてくるのを感じ、我々はしばしば物語の枠外に連れだされる。そこで物語の網の目がひきさかれ、そこから一筋の光がさしてくる。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”回復、逃避、慰め” p-140 l-09

この事態はなんと解したらいいのでしょうか。物語が人のなかで起こす真の現実への生成、つまり、個々の読者自身の本来あるべき多様性を含んだ現実への気づきのことなのではないでしょうか。妖精物語は、それらの役割をしっかりと果たしてくれます。

これら創造物は、頭や心の中だけで完結させて悦に入るようなものではなく、あくまで、個人の現実に生成させてこそのものだと問いかけられているようにも思いました。

これらの慰めも、トールキンは、妖精ものがたりを愛することの効能の一つにあげています。



これで『妖精物語とは何か』の読解を終わります。難解で、まだまだ触れられずにいた部分もたくさんあります。現時点ではここまでです。大変有意義な読書でした。


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20:38 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 4”空想”
キリスト教圏での考え方に由来するのでしょうが、トールキンは、この論文でかねてから、、神という存在の創造行為に対して、人間だけが神から授かった力、帰納や抽象の能力の行使の結果としての妖精物語の創作を準創造としています。

そして妖精物語を成功にいたらしめている能力を指して、一般的な想像という言葉を用いず、限定的に用いた場合の言葉で”空想(ファンタジー)”という言葉をあてています。非現実性の概念であり、目で見ることのできる事実をのさばらせない自由な概念であるとも述べています。想像という言葉では、イメージが現実を引きずってしまうのです。

そして空想的なものとは、現実には根を持たないイメージで出来ているのですが、実現可能であるなら、下等な芸術形式などと軽蔑的語調で語られるようなものなのではなく、高等な芸術形式であり、もっとも純粋で強力なものとなると述べています。



次に、みなさんおなじみの、ファンタジーが嫌悪される理由が述べられます。それをトールキンは援護するのですが引用してみましょう。

もちろん「空想」は、まずその出発点において、ふしぎさをとらえるという利点をもっている。しかし、この利点がかえって仇となり、「空想」の不評判をかってきたのだった。人々の多くは、「とらえられる」ことを好まない。人々は「第一世界(現実世界)」をかきまわされることは、何によらず好まないのである。なじんでいるのは、この世界のほんの一部分でしかないのに、人びとはそれを己が世界の全てだと思っている。そこで愚かにも、また敵意さえ抱いて「空想」と「夢」とをわざと混同するのだが、「夢」には技巧(アート)はいらない。また人々は、これと同様、「空想」を幻想や幻覚などの精神異常とも混同するが、それらのなかには、技巧(アート)どころか抑制力さえないのである。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”空想” p-100 l-15

そして公平を期するために、ファンタジーの弱点をも披露しています。それは、ファンタジーが完成の域に達するのが極めて困難だということなのですが、私もうすうす感じていたことです。要するにやっぱりダメじゃないかという作品に出くわす可能性が高いということなのでしょう。

創作の実際を言うならば、現実世界の素材のイメージを、さらに再構成して第2の世界のイメージを創りだして、言葉に定着させなければならないのですが、その結果が現実世界とかけ離れてしまえばしまうほど表現が困難になります。

よってこの種の真実らしさを出す手法として、分かりやすい素材を使うことをあげていますが、しばしば未発達に終わるとも述べています。

要は、このファンタジーという表現形式は人間の叡智を総動員して考えを尽くさねば成立は困難であり、それを実行する者は少ないのです。しかし完成の域に達することができたなら、何ににも代えがたい物語芸術になるということをトールキンはいっています。



以下、トールキンは、空想は言語芸術である文学に任せるのが一番として、トールキンが文学の一分野とみなされているけれど、本来文学ではなく、ファンタジー(空想)とは反対のものとして、その親和性をも拒絶する、劇についてのやや辛辣な論考が続きます。つまり、空想的芸術は人間が粉飾すべきものではないということを警告しています。興味がある方は読んでみてください。

演劇の話をしている最中も、空想についての考察はなお続きます。さらに、それらの論考は、劇をも離れて、さらに遠くを目指してゆきます。そして、それらの論考をも通してトールキンは、空想について次のように結論付けます。

空想は人間の自然な活動である。それが「理性」を破壊するものではないことは確かだし、軽蔑するものでさえない。そしてまた、科学的真実への渇望を鈍らせることもないし、それに対する認識を曖昧にすることもありえない。事実はその逆なのである。理解が鋭く、明快であればあるほど、よい空想が生まれる。もし人間が、真理を(事実、あるいは実証を)知りたいとは思わず、また、それを認識できない状態にあるとしたら、そのような状態がいやされないかぎり、「空想」は衰えるだろう。人がもしそのような状態におちいるなら(これは全くありえないことではない)空想は絶えてなくなり、「病的な妄想」と成り果てるだろう。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”空想” p-113 l-07



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18:51 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 3”子どもたち”
この章はトールキンがあげている妖精物語を語る上で、重要な三つの問題のうちの三つ目で、最重要事項としています。それは妖精物語の現代における価値と役割の問題です。



妖精物語(ファンタジー)の適性年齢を、一般では、6〜60歳の子どもとしているとの馬鹿げた冗談が、巷に大真面目な話としてまかり通っていることへの批判など、ファンタジーをごくありふれた普通のものとして、差別的に特別視しない者たちへの、胸のすくような始まりとなっています。

そして、子供の体の成長と牛乳の関係のように、妖精物語は、子どもの心と関連付けられていますが、そもそも、子どもと妖精物語の間には本質的なかかわり合いがあるのだろうか? なぜ、妖精物語を大人が読むことははばかられるのか? とのトールキンの語りかけが続きます。

それにトールキン自身は、こう答えています。歴史的に見ると教育の行き渡った近代世界では、もはや妖精物語は時代遅れになってしまい、それらは大人の成熟した芸術から切り離されたと同時に、子どもに払い下げになってしまったのだと…。そして子どもには、それらを受け取るか否かの選択権はない状況が指摘されます。



この経過を、つまり妖精物語のたどった運命を、トールキンが考察しているので簡単に述べておきます。

トールキンは、普通の人が、現代で、これらの妖精物語を読む場合、つまり現実ではなく空想の世界に浸る場合、その世界への不信を故意に取り除く努力が必要となってしまったことをまずあげています。

さらに、世の大人は、子どもという存在をある感傷から特別視して、実際の子供のことは意にも返さず、子どもは、このような努力をせずに済んでいるという誤った思い込みを指摘します。

つまり、トールキンは、世の大人が、子どもについて、信じる力を未だ鈍化させておらず、驚異に対してみずみずしい渇望を抱いているなどと本気で考えるようになったことを言いたいのです。

以上の経過から、こうして現代では大人が必要としなくなった妖精物語は、子供のものとなったとトールキンは結論づけています。子どもはまだ経験的に未熟かもしれませんが、人類のごく普通の構成員だというのに...。

そして実際には、現代で妖精文学を好むのは、この種の努力を必要としない、あるいはそのことを厭わない、ある種の子どもとある種の大人だけなのだとトールキンは強調します。



そして妖精物語は、役割として、実際にあったことや、起こることを本質とするのではなく、願望という現代人に特有のものを問題とするものであるとことわった上で、最後にこう結んでいます。

もし妖精物語が文学に一種として読むに値するものならば、それは大人のために書かれ、大人に読まれてしかるべきものであるはずである。そのなかに、大人は子どもよりも、もっと多くのものをこめるであろうし、したがってより多くのものをそこから得ることができるだろう。そうなれば、子どもたちは、本物の芸術の一領域としての妖精物語を、自分たちが読むにふさわしいものとして手にすることができ、自分たちの力量に応じてそれを理解する、ということになるのである。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”子どもたち” p-093 l-03

本来、これら妖精物語は、時代の流れで大人の成熟した芸術から切り離されるべきものではなかったとのことでしょう。その価値を見誤ってしまったのかもしれません。


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18:30 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 2”起源”
トールキンは妖精物語を語る上で避けられない問題を三つあげています。ひとつ目は先に述べた妖精物語の定義です。

そして彼は、このような物語を成り立たせているのは、人間の抱くどのような興味なのかということを知り、それらの物語を比較することによって、妖精物語の起源とは何かという第二の疑問に自然と導かれるのです。

そしてそれは、妖精物語だけではなく、神話や民話なども含む、物語全般の起源に考えは及びます。

ただしトールキンは、自身の興味を、個々の物語に繰り返し現れる類似性などに焦点を当てる民俗学者や人類学者などのそれと、隔てて考えているようです。彼らには物語の色彩が見えておらず、分類不可能なものを分類しようとしているとして、彼らの考えから自身の考えを差別化しています。

しかし、起源の話は、言語や精神の起源を訪ねて行くことと同義とし、トールキン自身、その力量の足りなさを告白し、また同時に彼にとっては関心が薄いものとして、あまり深くは掘り下げられません。



帰納と抽象という能力を与えられている人間は、空想という力をもって、見えないものをも具象化できる存在です。ゆえに言語や精神と同時発生的に人間は、自身の内だけでなく外にある世界で、その空想という力を振るおうとして、物語というものが存在しているのであろうとトールキンは考えているようです。

同時発生的ということは、起源という、何が先で何が後であるということには、それゆえに関心が薄いのでしょう。

そして、我々は、目の前に置かれたスープで満足すべきであり、スープのだしをとった牛の骨を見たいと望んではならない。という言葉で自身の考えを例えています。

つまり起源である牛の骨のことについては、追求するつもりは無いのです。



トールキンは物語群のことをスープに例えています。

牛の骨とは、歴史上の人物、例えば実在していたかは疑問に思われていますがアーサー王であったり、あるいは全く別に、過去に人類がもうけた禁制などがそれにあたります。

スープの大鍋の中には、数多の材料が今日まで放りこまれてきました。そして料理人である語り手が本能的か意識的にか、保存に値するかどうかによって、つまり現代において語り手が文学的意義を感じ、保存に値するかどうかによって、それらが、後世にまで残るかどうかが定まるのだと考えているようです。

ビアトリクス・ポターの”ピーターラビット”の物語の中においてでさえ、語り手の取捨選択による道徳的な禁制が存在し働いているのです。


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19:02 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 1”妖精物語”
トールキンの妖精物語(ファンタジー)に関するまとまった論文です。これに関しては、きじにしようと思うと、どうやら長文になりそうなので、章ごとに分けてブログにあげてゆこうと思います。また、わたしにとっては難解な論文なので、記事の中身は、現時点で言及できるところまでに留まるでしょう。よって、本が示す本来の内容からは、かけ離れてしまうかもしれません。

この論文に興味をもったのは、ファンタジーをごくありふれた読物として読む者が、そのことを公言しようものならはばかられる、どこか後ろめたい気持ちのためでした。ひところに比べればましになりましたが、ファンタジーの世界に踏み入ることを逃避とみなして軽蔑する、風潮は誤りを含んでいると思います。世間の考えに流されないために心の拠り所がほしかったのです。



では…、

トールキンはまず、妖精物語の定義を試みようとします。これらの一般的な定義は、彼にとっては狭すぎるか広すぎるかして、どこかとらえどころがないものとして受け入れられません。

妖精物語自体が、こういった判断をきらい判断しようとするものに扉を閉ざしてしまうのですが、この妖精物語を定義することは、はからずも、妖精物語を語りたいと思っているものにとっては、避けては通れない道だとトールキンは述べています。



トールキンはさしあたり、妖精物語とは、諷刺、冒険、道徳、空想など、その主な目的は何であれ、妖精の国に触れ、それを扱う物語である、と定義しています。

そして、妖精物語に出てくる妖精の国がもたらす力を、トールキンは魔法という言葉でくくっています。そして、今述べた通り、トールキンは物語の中の風刺を否定するものではありませんが、この魔法に関しては、唯一、諷してはならないものとしてとらえています。

妖精の国の魔法は、人間の持つ根源的な願望のいくつかを満足させてくれます。そして、その働きの成功の度合いに応じて、それが真の妖精物語(ファンタジー)であるかが分かる、とトールキンは考えているようです。

まずトールキンは、妖精物語の定義に入る手始めに、この論文執筆当時に手に入る妖精物語集を持ちだし、改めて取り上げられている範囲の広さを確認し、そこから消去法で除外すべきものを消して範囲を狭めようとします。



そして彼が、まず妖精物語集から除外されるべきものとしてとりあげたものは”旅行物語”です。言わずと知れた『ガリバー旅行記』などがこれに当たります。

”旅行物語”において諷刺が働いているのはいいとして、旅行物語の部類のものを表現手段としてしまっていることを、トールキンは問題視しているようです。この種の物語は、多くの驚異的な出来ごとを報告しますが、種明かしをしてしまえば、実際は人間世界のどこかしらにあるものを描いているだけで、旅行という距離が、それを隔てて隠しているに過ぎないとトールキンは述べています。

人間の根源的な願望である、時間、空間の深みを探りたいという欲求は結構なのですが、それらは妖精の国の出来事、つまりファンタジーではないとのことです。



次にトールキンが妖精物語集から除外しようとするものは、”夢”を用いた物語です。全体を夢の中の出来事でしたと結ばれる物語を、歪んだ額縁に入れられた良い絵に例えています。

夢は妖精の国と深く関わったものですが、それを夢に過ぎないと断じられたら、それはもはや妖精物語とは違うとトールキンは考えているようです。

人間の根源的願望の一つに、心の中で想像した脅威を実現したいという願望があって、それを人間の夢に出てくる事柄に過ぎないと断じてはならず、トールキンは、全く別個の、純粋に妖精側の事柄だと考えているようです。

妖精物語は驚異を扱うもので、驚異的な出来事が起こります。その物語がこしらえごとであったり幻影であったりすることを暗示する仕組みをトールキンは嫌います。そういった意味で、夢の中の物語であるルイス・キャロルのアリスの物語は妖精物語から除外されます。



次に除外されるべきものとして純粋な”動物寓話”があげられます。

人間の根源的な願望の一つとして、他の生き物と心を通わせたいというものがあります。ならば動物寓話も妖精物語に入れてもいいのではないかと思われますが、動物寓話は別の進化をとげて、もはや動物の皮をかぶった人間の物語になってしまっているとトールキンは述べています。それを彼は風刺家やお説教屋の発明と断じています。



こうして除外されたものは、妖精物語の近くに有りはするものの、トールキンの考えでは妖精物語ではない別のものとして判断されています。


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18:22 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『チャーメインと魔法の家』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 徳間書店
ダイアナ・ウィン・ジョーンズの本の面白さはどこにあるのでしょう。いっけん子供向けのファンタジーに見えますが、大人でも読めてしまうのは、テーマが正義のようなものを扱っているのはいいとして、決して子供の本にありがちな、安直な結末には至らないからだと思います。

読みようによっては、読者の年齢を問わないそのスタイルは、J.R.R.トールキンが言うような優れたファンタジーに共通する特質を持っているとも言えます。

また、彼女のファンタジーは、楽しさの追求とも言えます。いったい楽しさとはどうゆうことなのかを、彼女は常に読者に提示し続けるのです。遊び心満載です。

この作品は、シリーズ第一部の『魔法使いハウルと火の悪魔』から22年後、第二部の『アブダラと空飛ぶ絨毯』から18年後にあたる2008年の出版です。著者であるダイアナ・ウィン・ジョーンズには、シェークスピアの『テンペスト』を下敷きとした第四部の構想もあったようですが、惜しまれながら彼女は2011年に亡くなりました。



現代という時代は、ジェンダーに平等性を求めています。そんな時代にあっては、この物語の主人公チャーメインのような、家事をしない女性の主人公も、当然のごとく登場してきます。

今でこそ当たり前のことですが、今まで、女性に求められていた様々な伝統的な役割は過去のものとなり、新たに、自立や、知性、教養が求められているのです。読書家でもある主人公チャーメインは、そんな時代の新しいメタファーです。著者のダイアナ・ウィン・ジョーンズ自身、幼少からの読書家でした。

このように作者の分身のような登場人物が、彼女の作品には多数登場します。そして、彼女の作品に通底するテーマは、現代の女性にとっては、リアリティーのある切実な問題を含んでいます。

とはいっても、この物語の主人公チャーメインは、まだ14歳です。その設定年齢からして、軸となる読者の年齢層は低いものと思われます。それに伴って自ずとこの作品のテーマの追求度は、入門編と言ったところまでに留まるのでしょうが。



さて、お話です。第二部でジンにさらわれた三十人の王女の中に高齢の王女がいました。舞台は、その王女の父が統治するハイノーランド王国です。

主人公のチャーメイン・ベイカーは、ハイノーランド王国の王室づきの魔法使いウィリアム・ノーランドの遠縁にあたる少女です。そのウィリアム大おじさんが、病気の治療で家を空けることになって、彼女は彼の家の留守番を頼まれるというのがお話の発端です。

彼女は、過保護な両親のもとで世間知らずに育てられました。知っているのは、大好きな本の中の世界ばかりで、それも最近では半ば退屈なものだと感じていました。大おじさんの家の留守番という話は、まさに渡りに船で、彼女は早速引き受けます。

出かけてみると、魔法使いウィリアム大おじさんの家には様々な魔法がかかっています。魔法の家は、空間を折りたたむことによってできていて、どことどこの扉が通じているのかさっぱり分かりません。至るところに仕掛けられた魔法によって、質問を声に出せば、大おじさんが、想定していた質問になら答えてくれるようになっています。

初めはその声を頼りに進みました。すると所定の場所に進むには、色々な決まり事があることが分かってきます。そして、やがて知ることとなるのですが、この魔法の家は王宮を始め、あらゆるところに通じているのでした。また空間的にばかりか、時間的にも扉は開かれているようです。つまり過去や未来にさえ通じているのです。



ところで、彼女の作品に出てくるこの複数の場所や時に開かれている扉。第一部と第二部でもハウルの城の扉には魔法がかかっていて色々な所へ通じていました。作者ジョーンズにとって、これらは特別なモチーフなのでしょう。

思うに、読書家の彼女にとって、扉とは本に例えられていたのではないでしょうか。つまり彼女が考える読書という経験のイメージともとれるのです。扉と、その不特定の行き先は、読書と、語られたことの現実における試行錯誤の場に対応しているのではないでしょうか。

また、それと同じことを例えたであろう出来事が、この物語にはもうひとつ展開されます。主人公チャーメインは、お話序盤から登場する、意志をもった魔法の書である『パリンプセストの書』の所有者に最終的になります。

本の世界に留まること、つまり本の虫になるだけでは、有効な本の使用法としては弱いのです。そう読書は、現実での試行錯誤との相乗効果で、より遠くを目指してゆきます。つまり、そんな状況を、本に撰ばれた所有者という形で表現しているのではないでしょうか。

読書は、ここまできて、やっとその本領を発揮するということ。そんなことを作者である彼女は、子供たちに伝えたかったのではないでしょうか。そう考えると、この物語は、著者ダイアナ・ウィン・ジョーンズの読書作法にもなっているのです。



チャーメインは、最近まで迷子だった仔犬の<宿なし>(実は王国に守りと繁栄をもたらすと言われる<エルフの宝>)と、ある日、突然、大おじさんに弟子入りにきた、あまり馬の合わない、男の子ピーター・リージス(色々な経緯により、モンタルビーノの魔女を母にもつけれど、ハイ・ノーランド王国の正式な王位継承者)と共に、魔法の家で暮らし始めます。

物語の中盤からは、彼女はかねてからの念願だった、王国図書館での仕事にありつきます。仕事の内容は蔵書の目録づくりです。本の題名、その著者、簡単な内容を記してゆきます。そうして王宮に出入りするうちに、王国の衰退、あるいは王国の宝物庫から消えた宝をめぐる騒動に巻き込まれてゆくことになります。

そして、この物語シリーズではお馴染みのキャラクター、ハウル(国王の命令により、自らの計略で、<キラキラ>という子どもに変身している)やソフィー、カルシファーといった第一部からの顔ぶれも交えて、彼らも期待にたがわぬ活躍を見せてくれます。当然、カルシファーの動く城も登場します。

お話はユーモアたっぷりで面白いです。


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18:43 : ダイアナ・ウィン・ジョーンズ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『アブダラと空飛ぶ絨毯』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 徳間書店
この物語は、イギリスのファンタジー作家、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの手に成るものです。そして、また、この作品は、アラビアの一大説話集である『千夜一夜物語』を下敷きとした、彼女による再話の試みとも取れるものです。ご存知のように彼女は何かを下敷きにしたとしても、その痕跡を残さないことで定評があるので推測の域を出ませんが…。

シリーズものであり、第一部『魔法使いハウルと火の悪魔』の第二部で、姉妹編ということになっています。この第一部は、日本ではスタジオジブリの『ハウルの動く城』の原作として有名です。

このシリーズ第二部は、単独で読むこともできますが、第一部を読んでいることが、物語を、より楽しく読むための必須条件になっています。



ところが、初読では、どんなに読み進めても、シリーズものの第二部という位置づけが、読み取れない構造となっています。作者ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、自らこのことを告白しているし、それは彼女の遊び心の表れといってもいいものなのでしょう。仕掛けが施されているのです。

その仕掛けは常に働いているのですが種明かしがされるのは、なんと最終章の大団円を待たなければなりません。それは、第一部の主要登場人物の隠されていた秘かな登場を含みます。中盤でソフィーの正体は明かされるものの、ハウルやカルシファーに於いては、巧妙に最終章まで隠されています。

そう、最終章に至って、何気なく読んできた一部の登場人物に、俄然多くの情報が付加されて、改めてお話をさかのぼってみると、それらの登場人物の行動の意図が、よりはっきりと読み取れる仕組みになっているのです。

しかし、そのように知れた辻褄は、より物語の感動を高めてくれるでしょう。場合によっては、再読が必要となる箇所があるかも知れませんが…。



この物語は、ラシュプート国ザンジブ市のバザールで、絨毯を商っている主人公アブダラが、ある日のこと怪しげな男から空を飛ぶ魔法の絨毯(実は、火の悪魔カルシファー)を手に入れることに始まります。彼は、その絨毯の上で眠り込んでいると、不思議な庭園に飛ばされて、美しくも賢い<夜咲花>に出会い、恋に落ちるのでした。

しかし、アブダラは、その<夜咲花>と駆け落ちをしようとした矢先、彼女は魔神、ジンにさらわれてしまうのです。しかし<夜咲花>の父親である君主のスルタンは、アブダラをその犯人として投獄するのでした。

アブダラは魔法の絨毯の助けを借りて牢を抜けだします。そしてそれ以降<夜咲花>を取り戻すべく、アブダラの冒険が綴られていくのですが、これが、お話の本筋となっています。

舞台は、アブダラが<夜咲花>を追うに連れて、ザンジブ市からオキスタン国(『魔法使いハウルと火の悪魔』の舞台となったインガリー国)に移ります。そしてずる賢く胡散臭い兵士(実は、高潔なオキスタン国王子ジャスティン)や、気難しく扱いにくい、瓶の中に閉じ込められた精霊、ジンニー(実は、王室付き魔法使いハウル)がアブダラの<夜咲花>探索の旅に加わります。

物語中盤では、アブダラは、正体が明かされたソフィー(実は、魔法で猫の<真夜中>にされていた)と、<夜咲花>の行方を追って空中城に向かうのですが、このあたりから、ソフィーによる、行方不明になっている、自身の夫であるハウルと、二人の間に生まれた子供であるモーガンの探索のお話も、並行して展開されていき、物語の厚みも増していきます。

それは、これ以降この物語が、第一部の『魔法使いハウルと火の悪魔』のシリーズものであることの証にもなってゆきます。例えば重要な道具立てである動く城の登場や、お馴染みの登場人物登場がそれにあてはまります。



このシリーズの特徴としてあげられるのは、登場人物に次々と訪れる、苦境からの決してスマートとは言えない、その逃走劇にあると思います。何とか瀬戸際でピンチを脱出する登場人物に、ハラハラさせられると同時に、とっておきのユーモアが感じられるのです。

それは、我々の現実生活での出来事の、有意義な焼き直しになっているのです。つまりこの物語はファンタジーというジャンルの陥りがちな絵空事という批判を乗り越えて、我々の現実生活に、しっかりと生成を果たしています。

ダイアナ・ウィン・ジョーンズの、このあたりの巧みさは、さすがJ・R・R・トールキンやC・S・ルイスに師事していただけのことはあります。空想(ファンタジー)に関してのしっかりとした哲学が感じられます。


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19:17 : ダイアナ・ウィン・ジョーンズ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『魔法使いハウルと火の悪魔』 ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 徳間書店
スタジオジブリ作品『ハウルの動く城』の原作です。ジブリ作品を観た方なら、本のタイトルはお察しの通り、ハウルというのは理由ありの魔法使いであり、火の悪魔とはハウルと契約を交わしたカルシファーのこととわかるでしょう。

また、作者のジョーンズは、ジブリ好きです。彼女は完成した映画を見て、大変満足したそうです。



このお話の発端は、まだ娘盛りの主人公、帽子屋のあととり娘、ソフィーが、ある日来店した、恐ろしい荒れ地の魔女に、何の因果か呪いの魔法をかけられて、90歳のお婆さんの姿にされてしまうというものです。

これをきっかけに、その呪いを解くために、ソフィーは藁にもすがる思いで、最近ここらに出没する、悪名は高いけれど魔法使いであるハウルに近づくことになります。



ところで、ソフィーは、何故、お婆ちゃんに変身させられてしまわなければならなかったのか。創作上、なにか考えがあったのではないかと思われます。

そこには長女ゆえに妹達とは違って、実家の帽子店を、嫌が上でも継がなくてはならないという、生まれた時からの運命、それゆえに、自身の出世のことなど考えもしなかった彼女の境遇。

そして、その彼女が大人になる今、これからも只々平凡に帽子屋の店子として毎日を過ごしていくんだという結末が老女になるという比喩とマッチして、これまでのファンタジーなら、お話が成立しませんが、という作者ジョーンズの大きな前置きになっているように思うのです。

それを、作者は、ソフィーの考えを誤った思い込み(彼女の読書好きがそうさせた。本の登場人物の長男、長女は大抵損な役回りを演じているという思い込み)とすることによって、この物語を、これまでのファンタジーの方向性から、逸脱させたかったのではないでしょうか。ファンタジーといえば、いつもこういった女性は受身的存在でしたが、ここに女性が積極的に活躍するファンタジーを成立させます。



ソフィーは、自分に向けられている危機に果敢に対応してゆく中で、どんどん自分への縛りを、ゆるくしてゆきます。

とにかく今まで通りにすごしていては、元の彼女に戻れません。これまでは、恥ずかしくてできなかったことも、老女となった今では、逆にそれを利用して、かまわないでやってしまいます。

まさに、尻に火が付いた状況といいますか。そこが楽しく描かれていて、ちゃんと面白い物語になっています。

実際、ソフィーも、余裕が出てきて、そんな生活を楽しむようになります。彼女の人生は90歳の身体を押し付けられて、終わるどころか、逆に、遅ればせながら、今始まったのです。



ここまでは、まだ序盤です。続きに興味がある方は、ぜひご自身で本を手にとってみてください。作品は、いたるところにユーモアが散りばめられていて楽しいので、どんどん読み進めて行けます。



最終的に、ソフィーは彼女に向けられていた課題、思い込みからの開放を、何度も弱気になってくじかれますが、ハウルとの生活の中でそれらを果たしてゆきます。それどころか自分を肯定的にとらえることも覚えます。

この物語を、大きな意味ではソフィーの内面的成長のお話とすることもできますが、私はそんなに大仰なこととはとらえませんでした。もっと楽しんで読むお話です。新しい世界に触れて、彼女の着眼点がただ移動していっただけなのだと思いました。これだけで十分なのです。するとどうなるか‥。



作者ジョーンズは、幼い頃から古典に親しみ、英雄がなぜ男性ばかりなのか、いつも女性は受け身の存在であることに歯がゆさを覚えていたようです。ここに女性が活躍する、とびっきりのファンタジーが生まれる秘密がありそうです。彼女はオックスフォード大学では、あの『指輪物語』のJ・R・R・トールキンや『ナルニヤ国ものがたり』のC・S・ルイスに師事していました。彼らの系譜も受け継いでいるようにも思われます。


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