子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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『古事記』 [中の巻] 15 第十五代 応神天皇(1)平和な御世
御子の頃から半ば皇位の継承を定められていた品陀和気命(ホムダワケノミコト)こと第十五代天皇、応神天皇(おうじんてんのう)は、多くの后を娶り、多くの御子を儲けました。

応神天皇は多くの御子の中から、大山守命(オオヤマモリノミコト)、大雀命(オオサザキノミコト)、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)の三神を皇太子とします。そのうちのオオサザキノミコトが皇位を継いで、第十六代、仁徳天皇となりました。



ある時、応神天皇は、オオヤマモリノミコト、オオサザキノミコトを呼んで「お前たちは、子どもたちのうちで、年上の子と、年下の子と、どちらが可愛いと思うか」と尋ねました。それというのも、三人の皇太子の中で、一番歳の若いウジノワキイラツコに、皇位を継いでもらいたいと、かねがね思っていたからです。

オオヤマモリノミコトは、応神天皇のそんな気持ちを察せず、「年上の子のほうが可愛いと思います」と答えました。しかしオオサザキノミコトは天皇の意を汲んで、「年上の子はすでに成人しているので、こちらは気にかかることもありませんが、それに反して年下の子は、気がかりで可愛いく思われます」と答えます。

応神天皇はオオサザキノミコトに大いに同意し、三人の皇太子の任務を分けて、「オオヤマモリノミコトは山と海の部を管理しなさい。オオサザキノミコトは私の統治する国の政治を助けなさい。ウジノワキイラツコには皇位を継承する」と仰せになりました。

この応神天皇の仰せがあったので、後にオオヤマモリノミコトが仰せに背いて反逆した時も、オオサザキノミコトは遠慮して、すぐには天皇の位につこうとはしませんでした。



ところで、ウジノワキイラツコの誕生のいきさつが語られます。応神天皇は、ことのほかウジノワキイラツコの母親がお気に入りのようです。応神天皇がウジノワキイラツコに皇位に継がせたい理由はそれでしょう。

ある時、応神天皇は、近江の国へ山越えをなさった時、木幡村(宇治市小幡)で淡麗な少女と出会います。応神天皇は少女に名を尋ねると丸邇(わに)の比布礼能意富美(ひふれのおおみ)の娘で、名を矢河枝比売(ヤカワエヒメ)と申しました。そして応神天皇は、明日帰り際に、娘の家に立ち寄ろうと約束します。

娘はそのことを詳しく父親に話すと、父親は娘が出会ったのは、応神天皇であろうと恐れおののきます。そして父親は娘に天皇に仕えるよう言い聞かせます。

そして家を整え待っていると、約束通り応神天皇はやって来ました。そこで応神天皇に御馳走が振る舞われますが、応神天皇はヤカワエヒメに杯を持たせお酒を勧めました。そしてヤカワエヒメに杯を持たせたまま、御馳走にあるカニの塩辛を見て次の歌を詠みました。


このカニは、どこのカニだ。
これは敦賀のカニだ。
横ばいしてどこに行く。
伊知遅島から、美島まで(場所不明)、
カニの横ばい一苦労。
水に潜ったカイツブリ、
息をするのも、一苦労。
坂ばかりの佐々那美(琵琶湖西南岸の古称)、
それをわたしはスタスタと、
やってきたのが木幡村。
ばったりあったこの少女、
後ろ姿は盾のよう。
歯並の白さは椎のよう。
櫟井(いちいい、奈良県天理市の丸邇氏の本拠地)の丸邇坂の土は、
上の土は色が赤いし、
下の土は色が黒いし、
真ん中とったこの中土を、
カンカンの強火ではなく、
弱火でゆっくり眉墨を作り、
それで可愛い三日月形に、
眉を描いているこの少女。
ばったりあったその時には、
なんと綺麗と見とれた少女。
ゆっくりと会いたいと思った少女。
それがこうして向き合って、
それがこうして寄り添って、
一緒にいるとは夢のよう。


応神天皇のヤカワエヒメに対する気持ちの高揚が歌われます。こうしたいきさつで結婚して生まれた御子が、ウジノワキイラツコです。



次に語られるのも、皇太子の一人、オオサザキノミコトと応神天皇のエピソードです。

応神天皇は日向国に髪長比売(カミナガヒメ)という美しい少女がいるという噂を聞いて、早速、彼女を都に呼んで后にしようとします。

そしてカミナガヒメが大和へ呼ばれるのですが、その途中、船が難波津(なにわづ)に停まっていた時、オオサザキノミコトは、彼女を一目見てその美しさに感動してしまいます。

早速、オオサザキノミコトは大臣である建内宿禰命(タケシウチノスクネ、成務朝から仁徳朝まで長寿を保ち、歴朝の大臣を務めた伝説上の人物)に頼んで、彼女を妻にしたいとのことを応神天皇へ口添えしてもらいます。

そしてタケシウチノスクネは、そのことを応神天皇にお許しを願うと、天皇はただちにカミナガヒメをオオサザキノミコトに与えるのでした。



また、応神天皇の御世には新羅の国から大勢の人が海を渡ってきます。そこで大臣であるタケシウチノスクネは、この人たちを使って、堤を作ったり池を掘ったりしました。中でも有名なのは百済池(くだらいけ)です。また百済の国王、照古王(しょうこおう)は雄馬と雌馬を一頭ずつ、また太刀や大鏡を阿知吉師(アチキシ)という人に託して贈り物をしました。

それから応神天皇は百済国に、そちらに賢人がいたならよこすように仰せになりました。それでやってきたのが和邇吉師(ワニキシ)という人です。彼は『論語』十巻と『千字文』一巻を携えて、それらを応神天皇に献上しました。

その他にも、技術者の鍛冶師の卓素(タクソ)や、機織り女の西素(サイソ)もやってきます。また酒を醸す技術に精通した須須許理(ススコリ)も渡来します。そのススコリは応神天皇に上等な酒を献上すると天皇はいい気持ちになって次の歌を詠みます。


ススコリの醸した酒に、
私はすっかり酔ってしまった。
禍を祓う酒、心楽しく笑いたくなる酒に、
私はすっかり酔ってしまった。


こうして応神天皇は、歌いながら二上山を超える大坂道(大和から河内に通じる穴虫街道の穴虫峠)をふらふらやってきますと、道の真ん中を大きな石が邪魔をしていたので、手にした杖で叩こうとすると、石は打たれまいとして急いで杖を避けました。それでことわざに『硬い石でも酔っ払いは避ける』とあります。



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応神天皇の前半のこの節ですが、物語中に多くの歌が詠まれています。しかし、この記事では少なからず割愛しました。それらの歌と、応神天皇やその皇太子の問答などから察するに、おそらくこの応神期は、これまでにない平和な世が想像されます。

応神天皇は皇太子に后を譲ったりもしています。この手の話は他にもあるのですが、大抵が悲劇に終わリます。しかし、ここでは、そうはならず、円満に結ばれています。しかしこの物語の成立過程には色々と考察があるようです。



それはさておき、これに反して、次記事の応神天皇の後半の節は、オオヤマモリノミコト反逆が描かれます。応神天皇の物語は、このギャップによるコントラストを楽しむのもいいかもしれません。

この節の初めの方で、応神天皇が、オオヤマモリノミコトと、オオサザキノミコトに投げかけた問が、応神天皇崩御後のオオヤマモリノミコトの反逆への伏線になっているようです。



ウジノワキイラツコの出自は丸邇(ワニ)氏に至るということですが、丸邇氏は五世紀から六世紀に勢力を振るった大豪族で奈良盆地北部を本拠とし、近江国や山城国にも居住していたと言われています。また多くの皇后を出した家系であることが記紀には語られます。

神功皇后(じんぐうこうごう)の時代の新羅征伐に続き、応神天皇の時代には、百済との国交も盛んになった様子が描かれています。このように、この御世から、天皇の事跡がより具体的に語られるようになります。





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