『サー・ガウェインと緑の騎士』 J.R.R.トールキン(訳) 原書房
2017.01.02 Monday
この物語は数多にある、アーサー王物語の一つです。よって古英語のオリジナルの物語を、まずトールキンが現代語訳して、それをさらに日本の訳者さんが日本語化するという手順を踏んでいます。ちなみに、トールキンはアーサー王物語群を妖精物語(ファンタジー)の一つとして考えています。
なお、私は、文学などを学業として収めてこなかった人間なので、原文がどうのとか、現代語訳がどうのとか、またそれを日本語訳にするときの問題点などへの配慮には、全く疎くて分かりません。ただ、この日本語訳だけが頼りです。あしからず。
また、私がこの本を読んだ動機は、トールキンのまとまったファンタジー論である『妖精物語とは何か』を理解するためでした。彼は、この著書の中で、妖精物語を構成するものの一つの大きな柱として諷刺を上げているのですが、一つだけ諷してはならないものがあると述べます。それは魔法です。その理由を説明するために、トールキンはこの物語を取り上げています。
ではお話です。物語は、まず、アーサー王が催す、クリスマスの宴に突然現れた、巨躯で全身緑色の騎士の存在が、迫真の描写で、実在性をもって描かれてゆきます。
緑の騎士は、アーサー王を辱めるために、とある試練を王に持ちかけてきます。その試練に王を煩わせてはならないと、いち早く察した、王の甥であり、この物語の主人公ガウェインは、王の代わりに、その試練に挑戦することとなります。それは命を張ったやりとりでした。
物語最後で、ガウェインが試練を乗り超えた時に、この緑の騎士は、旅の途中、ガウェインが世話になっていた城の城主であること、今現在の緑の姿は城の魔法使いのしわざであリ、そもそもの事の始めの企てから、この試練は、この魔女によって仕組まれたものであったことが、彼の口から明かされます。
言わばガウェインは、物語の始めから終り迄、超越者と呼べるような存在に、志を試されていた事になります。
ではこの物語の中世の無名な作者は、こういった枠組み(トールキンはこの枠組みを妖精物語と言いたいのでしょう)を使って何を描こうとしていたのでしょう。この緑の騎士という異界の存在を、もっともらしい説明など加えずに、そのまま受け入れるということは、まさに人智を超えたものに対するような、謙虚な姿勢を我々に要求するものです。
こういった姿勢は、頭でっかちな人間という存在にとって、時には必要なことなのではないでしょうか。様々な意味で...。この物語は、我々を自然とそういう姿勢に導いてくれます。
冒頭で述べた、魔法を諷してはならないというトールキンの着眼点は、西洋のキリスト教圏においては、神と人間の関係にも関わる重要なことなのでしょう。我々日本人の伝統的な感覚に従えば、神の代わりに自然がそれに当たるかもしれません。
しかし現代では洋の東西を問わず、自然科学が発展して、我々の思考法の主流を占めると、そういった姿勢は失われがちです。ですが本当のところはどうなんでしょう。いくら科学が発達しようが、我々人間には、根源的に畏怖するものが消えてしまうことはないのではないでしょうか。
我々には昔と変わらず、畏怖すべきものに対する謙虚な姿勢が必要なのです。
トールキンは、そのような存在を、諷したりせずに、自身の創作にも取り入れていました。そして我々は、それらの創作から何がしかの開放を得ているのです。そして、トールキンが目指しているものと、この物語の中世の無名の作者が目指したものは、同じなのではないでしょうか。
改めて、魔法を諷してはならないという警告ですが、トールキンが自著を理解するための参照先に、この物語を取り上げた意図もよく汲み取れます。そんな警告を簡略に表すような、物語最後の一文が印象的です。
また、この物語。トールキンの他のオリジナルの作品に通じるところがあると思います。物語を読み進めてゆくと、主人公が、あまたの試練をくぐり抜けて、その高潔な人柄を浮かび上がらせてくるところなど…。彼の創作作法の核のようなものも感じ取ることができます。
だとすれば、この現代語訳が、彼の死後に遺稿として家族に残された意味もうなずけます。
なお、私は、文学などを学業として収めてこなかった人間なので、原文がどうのとか、現代語訳がどうのとか、またそれを日本語訳にするときの問題点などへの配慮には、全く疎くて分かりません。ただ、この日本語訳だけが頼りです。あしからず。
また、私がこの本を読んだ動機は、トールキンのまとまったファンタジー論である『妖精物語とは何か』を理解するためでした。彼は、この著書の中で、妖精物語を構成するものの一つの大きな柱として諷刺を上げているのですが、一つだけ諷してはならないものがあると述べます。それは魔法です。その理由を説明するために、トールキンはこの物語を取り上げています。
ではお話です。物語は、まず、アーサー王が催す、クリスマスの宴に突然現れた、巨躯で全身緑色の騎士の存在が、迫真の描写で、実在性をもって描かれてゆきます。
緑の騎士は、アーサー王を辱めるために、とある試練を王に持ちかけてきます。その試練に王を煩わせてはならないと、いち早く察した、王の甥であり、この物語の主人公ガウェインは、王の代わりに、その試練に挑戦することとなります。それは命を張ったやりとりでした。
物語最後で、ガウェインが試練を乗り超えた時に、この緑の騎士は、旅の途中、ガウェインが世話になっていた城の城主であること、今現在の緑の姿は城の魔法使いのしわざであリ、そもそもの事の始めの企てから、この試練は、この魔女によって仕組まれたものであったことが、彼の口から明かされます。
言わばガウェインは、物語の始めから終り迄、超越者と呼べるような存在に、志を試されていた事になります。
ではこの物語の中世の無名な作者は、こういった枠組み(トールキンはこの枠組みを妖精物語と言いたいのでしょう)を使って何を描こうとしていたのでしょう。この緑の騎士という異界の存在を、もっともらしい説明など加えずに、そのまま受け入れるということは、まさに人智を超えたものに対するような、謙虚な姿勢を我々に要求するものです。
こういった姿勢は、頭でっかちな人間という存在にとって、時には必要なことなのではないでしょうか。様々な意味で...。この物語は、我々を自然とそういう姿勢に導いてくれます。
冒頭で述べた、魔法を諷してはならないというトールキンの着眼点は、西洋のキリスト教圏においては、神と人間の関係にも関わる重要なことなのでしょう。我々日本人の伝統的な感覚に従えば、神の代わりに自然がそれに当たるかもしれません。
しかし現代では洋の東西を問わず、自然科学が発展して、我々の思考法の主流を占めると、そういった姿勢は失われがちです。ですが本当のところはどうなんでしょう。いくら科学が発達しようが、我々人間には、根源的に畏怖するものが消えてしまうことはないのではないでしょうか。
我々には昔と変わらず、畏怖すべきものに対する謙虚な姿勢が必要なのです。
トールキンは、そのような存在を、諷したりせずに、自身の創作にも取り入れていました。そして我々は、それらの創作から何がしかの開放を得ているのです。そして、トールキンが目指しているものと、この物語の中世の無名の作者が目指したものは、同じなのではないでしょうか。
改めて、魔法を諷してはならないという警告ですが、トールキンが自著を理解するための参照先に、この物語を取り上げた意図もよく汲み取れます。そんな警告を簡略に表すような、物語最後の一文が印象的です。
悪く解する者よ、恥辱にまみれよかし。
また、この物語。トールキンの他のオリジナルの作品に通じるところがあると思います。物語を読み進めてゆくと、主人公が、あまたの試練をくぐり抜けて、その高潔な人柄を浮かび上がらせてくるところなど…。彼の創作作法の核のようなものも感じ取ることができます。
だとすれば、この現代語訳が、彼の死後に遺稿として家族に残された意味もうなずけます。
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