子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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『サー・ガウェインと緑の騎士』 J.R.R.トールキン(訳) 原書房
この物語は数多にある、アーサー王物語の一つです。よって古英語のオリジナルの物語を、まずトールキンが現代語訳して、それをさらに日本の訳者さんが日本語化するという手順を踏んでいます。ちなみに、トールキンはアーサー王物語群を妖精物語(ファンタジー)の一つとして考えています。

なお、私は、文学などを学業として収めてこなかった人間なので、原文がどうのとか、現代語訳がどうのとか、またそれを日本語訳にするときの問題点などへの配慮には、全く疎くて分かりません。ただ、この日本語訳だけが頼りです。あしからず。

また、私がこの本を読んだ動機は、トールキンのまとまったファンタジー論である『妖精物語とは何か』を理解するためでした。彼は、この著書の中で、妖精物語を構成するものの一つの大きな柱として諷刺を上げているのですが、一つだけ諷してはならないものがあると述べます。それは魔法です。その理由を説明するために、トールキンはこの物語を取り上げています。



ではお話です。物語は、まず、アーサー王が催す、クリスマスの宴に突然現れた、巨躯で全身緑色の騎士の存在が、迫真の描写で、実在性をもって描かれてゆきます。

緑の騎士は、アーサー王を辱めるために、とある試練を王に持ちかけてきます。その試練に王を煩わせてはならないと、いち早く察した、王の甥であり、この物語の主人公ガウェインは、王の代わりに、その試練に挑戦することとなります。それは命を張ったやりとりでした。

物語最後で、ガウェインが試練を乗り超えた時に、この緑の騎士は、旅の途中、ガウェインが世話になっていた城の城主であること、今現在の緑の姿は城の魔法使いのしわざであリ、そもそもの事の始めの企てから、この試練は、この魔女によって仕組まれたものであったことが、彼の口から明かされます。

言わばガウェインは、物語の始めから終り迄、超越者と呼べるような存在に、志を試されていた事になります。



ではこの物語の中世の無名な作者は、こういった枠組み(トールキンはこの枠組みを妖精物語と言いたいのでしょう)を使って何を描こうとしていたのでしょう。この緑の騎士という異界の存在を、もっともらしい説明など加えずに、そのまま受け入れるということは、まさに人智を超えたものに対するような、謙虚な姿勢を我々に要求するものです。

こういった姿勢は、頭でっかちな人間という存在にとって、時には必要なことなのではないでしょうか。様々な意味で...。この物語は、我々を自然とそういう姿勢に導いてくれます。



冒頭で述べた、魔法を諷してはならないというトールキンの着眼点は、西洋のキリスト教圏においては、神と人間の関係にも関わる重要なことなのでしょう。我々日本人の伝統的な感覚に従えば、神の代わりに自然がそれに当たるかもしれません。

しかし現代では洋の東西を問わず、自然科学が発展して、我々の思考法の主流を占めると、そういった姿勢は失われがちです。ですが本当のところはどうなんでしょう。いくら科学が発達しようが、我々人間には、根源的に畏怖するものが消えてしまうことはないのではないでしょうか。

我々には昔と変わらず、畏怖すべきものに対する謙虚な姿勢が必要なのです。

トールキンは、そのような存在を、諷したりせずに、自身の創作にも取り入れていました。そして我々は、それらの創作から何がしかの開放を得ているのです。そして、トールキンが目指しているものと、この物語の中世の無名の作者が目指したものは、同じなのではないでしょうか。



改めて、魔法を諷してはならないという警告ですが、トールキンが自著を理解するための参照先に、この物語を取り上げた意図もよく汲み取れます。そんな警告を簡略に表すような、物語最後の一文が印象的です。

悪く解する者よ、恥辱にまみれよかし。

また、この物語。トールキンの他のオリジナルの作品に通じるところがあると思います。物語を読み進めてゆくと、主人公が、あまたの試練をくぐり抜けて、その高潔な人柄を浮かび上がらせてくるところなど…。彼の創作作法の核のようなものも感じ取ることができます。

だとすれば、この現代語訳が、彼の死後に遺稿として家族に残された意味もうなずけます。



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19:04 : J.R.R.トールキン : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『ホビットの冒険』 J.R.R.トールキン 岩波少年文庫
主人公は、ホビット族のビルボ・バギンズです。ホビット族とは、小人のいち種族で、物語では他にも、多種多様な空想上の存在が登場します。

彼の年齢は50歳ぐらい。50歳といっても、ホビット族の平均寿命が、人より長いという設定なので、人間に換算すると、相対的にもう少し若い年齢を想定して書かれているように思われます。

しかし、50年生きていることには変わりありませんので、良くも悪くも分別のある若者といったとらえ方をしてもいいと思います。そんな彼の冒険の物語です。



ホビット族とは、何事においても臆病なたちで、ビルボも例外ではありません。冒険など”お話の中だけに出てくる空想の出来事”であり、自分自身が成しとげるものとは夢にも思っていません。客観的に見ても、心身ともに冒険向きとは思えません。そんなホビット族の彼が、ガンダルフという魔法使いに見出されて冒険の当事者になってしまうのです。

ビルボの母方の血筋には、妖精小人と結婚したものがいるという言い伝えで、時々ホビット族らしからぬ変わり者が出て、冒険をしでかしたりしたそうです。ビルボもその素養を受け継いでいたのでしょうか、見えない力に突き動かされて、ためらいながらですが、ガンダルフの誘いを承諾してしまいます。

こうして、ビルボは、ドワーフ族の、いにしえに、竜に奪われし故郷奪還の冒険に、お荷物とばかりに思われながらも、忍びの者として合流することとなリます。そのお荷物ぶりは自身でも自覚していて、実際彼は、序盤に幾度となくくじけそうになります。

そもそもこの冒険は、ガンダルフが画策し、ドワーフ族の後ろ盾を引き受けていたのでした。そしてガンダルフだけが、ビルボはこの冒険に必要だと始めから確信しています。

しかし、やがて、ビルボは、冒険のさなか、自身の運命を変えてしまうような魔法の指輪を手に入れると、ガンダルフの思惑通り、次第に本領を発揮して、ドワーフたちからも尊敬を得るようになります。もちろんそこには、彼の内面的な成長があります。



この冒険譚、全くの架空のものですが、この物語の世界観は、多くの人を、魅惑してやみません。こうしてトールキンはファンタジーの世界に巨大な功績を残す事になります。

その世界観ですが、文献学者であったトールキンの深い構想の上に成り立っているようで、文学を勉強してきたわけでもない私の手には余り、追いきれません。

本格的に読もうとすれば、他にも参考にしなければならない本がたくさんあるようで、壮大であるばかりか細部にまで趣向が凝らされているようです。よって、子どもはもちろん大人まで、読者の年齢を問わず、それぞれに寄り添った読解ができます。



ところで、作者であるトールキンは、生きるということに対する傍観者でありがちな、ホビット族の主人公を冒険に導いたように、彼の物語は、読者を、読者自身の現実へといざなっているような傾向があります。

話がそれますが、そんな傾向は、彼に師事したダイアナ・ウィン・ジョーンズの作品においても、引き継がれているようにも思われます。こちらは女性向けですね。

彼の作品は、安易なファンタジーのように、物語の中だけのお話として閉じません。トールキン本人は、これら閉じてしまう物語を失敗作として、自著『妖精物語とはなにか』で手痛く断じていました。

つまり、妄想と空想は、はっきりと区別されます。ちなみに、空想は人間の健全な活動です。妄想は、その反対のものです。残念なことに、妄想を妄想と見抜けずに、現実に開いてしまう人もいますが、空想は妄想と違って、積極的に現実に生成すべきものです。トールキンの物語は読者にこれを成してくれます。ここでいう空想とは、正確にはトールキンの空想ともいうべきものですが...。



物語には、読者に内在する、とある力を誘い出すような仕組みが仕掛けられていて、その仕組みによってもたらされた力は、本の中で閉じず、読者自身の現実へと生成するのです。その仕組みとは、読者の、良くも悪くも単調な日常において、いつの間にか力を無くしかけている心に生気を与えくれるものです。

そう、その仕組みは、大切なことは、あくまで個々の読者の現実の中にあると言わんばかりに、本の外へ外へと誘います。内ではありません。ここがトールキンの真骨頂です。トールキンの物語を夢中になって、読み進めて行くと、本の中で作動している仕組みにとらえられ、読者は読後に本から離れて、自身の冒険をしたくなるのです。

トールキンは、自身の作品の価値を、あくまで読者の現実との等価の相乗効果にこそ見出しているような節があります。トールキンが導こうとしている場所に至るには、読者個々人が内部に、力を蓄える必要がありますが、作品は、その力を得るための装置になっています。そして、彼は、この装置を組み立てることを至上の命題として創作していたように思えてなりません。



最後に繰り返しになるかもしれませんが、少し踏み込んで、この物語を読むことで、読者に起こっているであろうことを、簡単にですがまとめおきます。まあ理屈ですね…。本当はもっとワクワクして読む物語です。



物語では、どこか懐かしく馴染み深い、しかしどこにもない、とあるリアルな空想の世界が展開します。その魅惑的な世界は、まず読者を引き込んで離しません。実はこの世界、現実の多層的認識によリ構築されています。ゆえに、読者にとっては、あたかも自身のリアルな内的現実が描かれているように感じられるのではないでしょうか。これがこの物語に引き込まれる大きな要因です。

そして物語を読み進めていくと、我々の思考のスタンダードである、自然科学や経済学などでつちかった、単層的になりがちな我々の現実認識の、反省的なとらえ直しが行われます。その時に、単層的認識という重しから解き放たれて自由になる力もあるでしょう。そして読者は、この物語の中で、自身の認識を再構築をします。これが物語を読むことで、読者が変化をこうむる中心的な部分です。

そして物語最後に、読者自身の現実でのハッピー・エンディングが予言されます。それはこうです。

ビルボは、すべてを成し遂げて、居心地のよい平和な我が家へと舞い戻ります。そして、こよなく愛している、この我が家であるホビット穴での生活で、素敵な食事と快適な睡眠を満喫するのでした。



これら読者に起きる出来事の過程は、”空想の世界だけの出来事”と思っていた冒険が、突然我が身に降りかかり、その当事者となってしまった、この物語の主人公ビルボのこととそっくりそのまま重ね合わせることができます。

こうしてビルボに寄り添って共に、変化をとげた個々の読者は、物語が終わってしまっても、物語で得た力をたずさえて、再び個々の現実へと舞い戻って行くのです。



追記

あとがきに、この本の訳者であり、日本の児童文学に大きな功績を残した、、故、瀬田貞二さんがトールキンのファンタジー論である『妖精物語とはなにか』から短い文章を残しているので、ここに読書メモとして追記しておきます。

おそらく瀬田さんは日本語訳のp93あたりのことを中心にこの論文を要約しているのだと思われます。

読むにこたえるファンタジーなら、子供の独占物ではなく、おとなこそよくその意義にこたえるだろうし、空想力はけっして科学の敵ではなく、むしろその親である。
『ホビットの冒険』あとがきより



更に追記

トールキンの物語は、あまりにも支持を受けたためでしょう、その影響は、現代のファンタジー小説の王道の一角を作るほどです。未だにコピーしようとする作家も多く存在します。

しかし、そのためか、いささかオーソドックスで古さを感じさせられることもあります。消費し尽くされてしまったのかもしれません。

媒体は違いますが、R.P.Gのゲームでは、その世界観、展開が、無数にコピーされています。


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