子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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『まぼろしの小さい犬』 アン・フィリッパ・ピアス 岩波書店
表題の一部にもなっている”まぼろし”とは、心理的レベルでとらえるなら、それは現実に属するものといってもよいものと思われます。

この物語では、一匹の犬の姿をとった、その”まぼろし”が、一人の少年の愛情の深化を背景に、彼の成長へのトリガーのような役割を担って、リアリスティック描き出されます。このフィリッパ・ピアスの曖昧なものをリアリスティックに描く手法は、『トムは真夜中の庭で』同様、健在です。

そして、人が、思い通りにならない現実を愛することができるようになるには、いかに多くの深い体験を重ねなければならないかが物語られます。



● ベンとおじいさんとの約束 

ことのきっかけは、主人公ベンの誕生日プレゼントに一匹の犬をと、離れたところに住まう、ベンのおじいさんが彼に約束したことにあります。結果をいってしまうと、その約束は一時お預けです。

ベンの住むロンドンでは犬を遊ばせる広い土地がないという条件的な理由や、おじいさん夫婦には犬を買うほど余裕がないという経済的理由などからです。

なぜおじいさんは無理な約束をしてしまったのでしょう。それは、ベンの、このところの境遇に、おじいさんが思わず手を差し伸べてしまった、ということなのでしょう。

ベンは五人兄弟の真ん中ですが、ベンは姉、弟たちとは話が合わず、家の中で半ば孤立していました。



● がっかりな誕生日プレゼント 

さて、実際に、おじいさん夫婦からベンに送られてきた誕生日プレゼントは、生きている犬ではなく、毛糸でクロスステッチされた小さな犬の絵でした。。

それに対してベンは、生きている勇敢なボルゾイ犬を心に描いていたのでした。何も本物のボルゾイ犬を望んでいたのではありませんが、待ち望んでいたものが、こんな弱々しい小さな犬の絵になってしまったのです。ベンは期待が大きかった分、がっかりしてしまいます。

その絵は、航海を生業にしていたおじいさん夫婦の息子がメキシコにてもとめたもので、彼はその絵をおじいさん夫婦に送ってまもなく命を落としてしまいます。それが彼の遺品になってしまいました。

つまりその絵は、おじいさん夫婦にとって大切なものなのです。それを送ってくるということは、口約束とはいえ、それを破ってしまった彼らの気持ちがあらわれています。

絵の裏にはその絵の前の持ち主であったであろう人の筆跡で”チキチト チワワ”と書かれてあります。その意味は、チワワ犬種であり、チキチトというのは現地の言葉でとてもとても小さいということのようです。

ちなみに、チワワという犬種の歴史はとても古くて、九世紀ごろメキシコで聖なる犬として崇められていた”テチチ”という犬が祖先といわれています。後に分かりますが、この物語の”幻の小さい犬”のモチーフをを象徴しています。



● ベンとおじいさん夫婦との和解 

ベンはおじいさん夫婦の気持ちをちゃんとくむことのできる賢い子どもでしたが、頭では分かっていても心はそうたやすく鎮まりません。しかし、そんな心もやがて鎮まり、おじいさん夫婦のもとに絵のお礼に訪れます。

そして、やがて時は過ぎ、ベンは家に帰らなくてはなりません。しかし、その帰途にベンは、おじいさん夫婦にもらった大切な犬の絵を無くしてしまいます。

ベンは心の奥底では犬の問題を解決できないでいたのでしょう。犬の絵を本心では遠ざけていて、ないがしろにしていたのかもしれません。

犬の絵を無くしてしまった後悔から、ベンは、チキチトという名の、空想上の子犬を心に住まわせます。チキチトは、無くしてしまった絵の中の存在でしたが、ベンの心の中で再生するのです。



● チキチトという、まぼろしの小さい犬 

チキチトという名の小さい犬は、まぼろしとして突如ベンに身近な存在となりました。ベンがまぶたお閉じれば、すぐそこに姿を現します。ベンにとって、何もかもを詰め込んだような理想ともいえるその犬に、彼は夢中になります。

ベンは機会さえあればまぶたを閉じてチキチトを呼び出します。このチキチトは外的な現実では得られないものを内的現実として満たしてくれるのです。

しかし、チキチトは、まぼろしであり、あくまで内界の存在なのです。トムの満足とは裏腹に現実には色々支障が出てきます。

案の定ベンは、夢遊病者のようにまぶたを閉じてチキチトを呼び出しているところを、車にはねられて大怪我をおいます。以来チキチトも現れなくなりました。



● 思いがけず果たされた約束 

この事件をきっかけに、ベンをめぐる環境はガラッと変化します。ベンは退院後再び療養のためおじいさん夫婦のもとを訪れます。そこではなんと、おじいさん夫婦の飼い犬のティリスが、子犬を9匹も産んでいました。おじいさん夫婦は約束は約束だからと、その一匹であるブラウンををベンにあげるというのです。しかしロンドンでは飼えません。

ところがベンの家族は長女が結婚後、次女を伴って出て行ったため家が手広になっていたのを期に、ベンの健康のことも考えて郊外に引っ越しをすることになったのです。引越し先のそばには自然公園があり、犬を遊ばせることのできるので、犬が飼えるのです。そう、思いがけない形で約束は果たされます。



● ブラウンが気づかせてくれたこと 

ベンは”ブラウン”のことを”チキチト・ブラウン”と呼ぶつもりでした。自分がやっとのことで手に入れた犬にふさわしいと思ってのことでしょう。あの誇り高い理想の、まぼろしの犬、チキチトの名を冠したのです。

ところが、ブラウンを連れ帰る途中に知ったのですが、この犬は弱虫でした。自然公園にまでたどり着いた時にベンは二人の弟が迎えに来ているのに気付いて二人を避けます。こんな情けない犬を見せたくなかったのです。

ベンは自然公園で暇をつぶします。犬に対してそっけない態度で接しているうちに、犬の方でも自分が置かれている状況を察したのでしょう。一人と一匹の距離はしだいに離れてゆきます。このままでは犬は迷子になってしまいます。その時、突然ベンは、はっきりとあることを悟ります。少し長いですが、その場面の引用です。

ベンは、はっきりとあることをさとった。それは、手にいれることのできないものは、どんなにほしがってもむりなのだ、ということだった。ましてや、手にとどくものを手にしないなら、それこそ、なにもてにいれることはできないということを。

同時にベンは、チキチトとは大きさも色も、似ても似つかない、このおくびょうな犬にだって、ほかの一面があるのだということを思い出した。

だいて、はこんでやったとき、自分のからだにあずけられたあの犬の暖かさ、呼吸するときのからだの動き、くすぐったい巻き毛。

ベンの思いやりをもとめて、すりよってきたときのかっこうや、つれないしうちをされても、なお、あとをついてきた、あのときのようす。

その茶色の犬は今ではずっと遠くにいってしまいました。

急にベンは自分が無くしかけているものの大きさに気づかされて、叫びます。

「ブラウン!」と。



● 成長 

そう、ベンが失いかけていたものは愛情だったのです。物語の始めから終わりまで、これ程の深い体験を重ねなければならないほど現実を愛するということは困難なことなのです。

途中、内界の存在である、まぼろしの犬チキチトに惑わされますが、それはベンの成長へのトリガーとなっています。結果的にそれは彼の深い体験につながりました。彼は現実を愛するということが、どういうことなのかを学んだのです。

ブラウンはベンの足にもたれて、あえいでいた、いかにもベンがすきだというように。ベンも愛情をこめていった。

「もうおそいよ、ブラウン。さあ家へかえろう。」

ベンはその犬の名を、改めて”正しく”口にします。まぼろしの小さい犬の名”チキチト”の名を、もうブラウンの名に冠することはしませんでした。


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18:50 : アン・フィリッパ・ピアス : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『トムは真夜中の庭で』 アン・フィリッパ・ピアス 岩波少年文庫
”時間”という抽象的な概念を扱った作品でありながら、けっして理屈っぽくはなく、作者フィリッパ・ピアスが描く非日常の”永遠”にも似た時間空間が、”日常の時間”を時々挟み込みながら、実に巧みに表現されていくのですが、強引さはなく、あくまで自然で、まるでこれも現実の出来事のように思わされます。いや現実なのかもしれません。あるいはなぜこのような物語装置が組めているのか、なんとも不思議な思いにさせられるのです。児童文学作品ですがファンタジー小説とも言えます。

ちなみに映画監督の宮崎駿さんは、最も影響を受けた児童文学作家にフィリップ・ターナー、エリナー・ファージョンらとともにフィリッパ・ピアスの名を挙げています。


● 不運な休暇の始まり? 

少年トムは休暇を弟と共に楽しく過ごそうと、自宅の裏庭にある林檎の木の枝と枝の間に家を作る計画をねっていました。しかし弟がはしかにかかってしまい隔離されることになり、トムは家を出ておじさん夫婦の家で過ごすことになります。

トムは、おじさん夫婦には遊び友達となりうる子どもがいないし、何より彼らが庭さえないアパート住まいであることを知っていました。こんなところで休暇を過ごさなければならないなんてと落胆していたのですが、不思議なことがおこります。ここでの非日常的体験が物語の骨子です。


● 大時計 

おじさん夫婦の住まいの玄関には、不自然に大時計があります。この時計は3階に住んでいる大家さんバーソロミューおばあさんのものでしたが、留め金が錆び付いていて、外すことができず動かすことができないために、ずっと大昔から、玄関のそこで休むこと無く時を刻み続けています。

おじさん夫婦の家にあずけられた最初の晩、眠れないでいたトムに、ある出来事がおこります。大時計の時報がありえない13回の時を刻んだのです。彼は、大時計の針を確かめるべく、階下にある時計のもとに降りてゆきます。

時計は真夜中ゆえに暗くて確かめられません。トムは、屋内に月の光を入れようと裏口のドアを開けると、なんとそこには存在しないはずの庭があるのです。この庭は13回の時報という特別な時に現れることもやがて知ります。トムは毎晩寝床で13時を待ってこの異界とも言うべき庭に出かけてゆきます。そして、退屈になるはずだったおじさん夫婦との生活に思わず喜びを見出します。



● 庭 

庭には住人がいます。しかし彼らはトムという存在を感知することができません。しかしハティという少女は別でした。彼女には両親がおらず慈善施設にあずけられていたのを自身三人の息子を持つおばにいやいや引き取られたのですが、家庭内では厄介者のような扱いを受けています。彼女にはトムが見えています。トムとハティは出会いました。

なぜトムとハティは出会えたのでしょうか。家族という日常の存在から切り離された孤独な少年と、異界の孤独な少女。出会ったというより求めあっていたのかもしれません。


● ハティ 

庭で二人が会うのは、トムとっては毎日ですが、ハティにとっては大変な時間が流れています。それも時は進んだり戻ったり。トムとハティの時間の流れは違います。それぞれの時間の線がたまたま交差するときに、二人は出会っているようです。それが13時です。この不思議な時間空間の中で、トムとハティの物語は語られてゆきます。

庭にて、トムとハティは友情を育みます。友情以上のものといってもいいでしょう。お互いがいなければ倒れてしまうかもしれません。


● もう時間がない 

物語終盤、トムは自分が体験している不思議な現象が、あの大時計にあると踏んで、ハティに時計を調べてもらいますが、分かったのは時計の振り子に書かれた「もう時間がない」という言葉だけです。

ハティはそれが黙示録からの引用だということを教えてくれるのですが、謎解きの手がかりにはなりません。しかし二人にとって、これほど切実な言葉はないと思われます。そう二人の不思議な旅はまもなく終わってしまうのでしょう。トムはもうじき家族の元に帰らなくてはなりません。庭に現れてくるハティも、もう大人の姿をとっています。心の支えがいらないほど成長しました。文字通り「もう時間がない」のです。


● 異界に取り込まれなかったトムに働いている自然な力 

このアパートでの最後の晩、トムは実行できずにいた計画を遂行します。トムはまた庭に子ども時代のハティが現れてくれるのを期待して、彼女とそこで何年でも遊んでいようと計画していました。おそらく大時計が夜中の12時に13回の時報を鳴らしてから1時間だけ出現する庭に流れる時間は永遠なのです。

しかし庭は無情にも現れませんでした。トムは真夜中の1階にある大時計の前でハティの名を口にして大声で泣き叫びます。その声は、3階の大家であるバーソロミューあばあさんのもとにまでも届きました。


● 円環的な時間の流れ 

翌朝トムは、実家に帰る間際、バーソロミューおばあさんに呼び止められて驚くべき事実を告白されます。ハティは私だと。よく見るとおばあさんはハティの面影を残しています。

そして、トムとハティが出会った庭という時間空間は、おばあさんの夢の世界であったことを彼女から明かされます。

庭には直線的な時間は流れていません。例えるなら円環的な時間が流れています。この庭という不思議な場が二人の出会いを可能にしていたのでした。そう庭での出来事は単層的な現実認識では説明できませんが、多層的な認識ができるのなら全てが真実となるのです。



● 見ず知らずの二人のありえない初めての再開 

この物語に起こっている仕掛けのトリガーは、トムが予想した通り、やはり大時計であると思います。現在のトムと過去のハティを結ぶものが、これしかないのですから。

不安定だった二人が支えあっていた場である庭は、ハティが成長してトムを必要としなくなった時、または、トムが家族のもとに帰る段に消えてしまいます。しかし二人も驚いていますが、これまで述べてきたように不思議な場での友達であった二人が、現実の世界で再開を果たしてしまいました。円環的な時間の流れの存在が証明されたといったところでしょうか。

そして二人が完全に互いを認め合ったその瞬間に、バーソロミューおばあさんは昔のままの少女ハティとしてトムの抱擁を受けるのです。

円環的な時間の流れ、多層的現実認識とは、子ども特有のことかもしれません。しかし大人でも持つことはできます。

おばあさんは、じぶんのなかに子どもをもっていた。私たちはみんな、じぶんのなかに子どもをもっているのだ。
『真夜中の庭で』のこと フィリパ・ピアス p-358 l-04



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