子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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読書雑記 - 子どもの文学について思う、ひとつの効能
現代人にとって自然科学や経済の考え方は必須です。大人になるためには、それらに合わせて現実認識を、表面上、単層的にしてゆきます。そうしなければ社会の成員として生きてゆくことができないからです。

しかし人間というものは、そんなに単層的な存在ではないので、過剰適応しようものなら、そのギャップに窮屈さを感じてしまいます。

こういうことに我々は、どう対処すべきなのでしょうか。大人であろうとして自らの多層性を抑えこんでしまうと、そこからは、現実に対する悲しみなどの、マイナスの感情を抱きかねません。

これらのことをどうにかならないものかと生活を振り返ってみると、改めて読書の有用性を感じています。



ようは現実生活で慣れ親しんでいる処世法、つまり、世界の単層的で平板な読み取りを、一時、読書によって、強制的に、人間本来の多層性へと移行させてしまうわけですが、これだけでも有意義なことだと思っています。

この時、自我は、現実から離れて、一時的に新たな布陣で再構成されます。それに伴って生じた新しい自分は、現実の自分ではないような錯覚を起こすかもしれません。いわゆる本に感化された状態です。

すると、窮屈な思いをしていた心は、自然と活気を取り戻します。現実生活で窮屈に感じていた自我を、己の世界の全てと考える必要はないことに改めて気付かされるのです。

しかし、なかんずく放っておくと、また、日常に呑まれて、いつの間にか元に戻ってしまうので、わたしにとって読書は習慣となりました。



すると、この読書の習慣は、かけがえのない経験になっていることに気づきます。いつの間にか、自身の現実に対する認識が、徐々に変性していくのです。

つまり、これまで窮屈に感じていたことが、着眼点がずれて、見え方が変わってくるのです。現実認識に奥行きがでたのでしょうか、苦に感じていたことが、あまりそう意識されなくなるのです。

どうしたって世界との関係が切れないいじょう、こうした手続きを踏むことは、わたしにとってやむを得ないことでした。何はともあれ、そのための手段として読書を利用しています。

わたしにとって読書とは、自身と、その現実認識を、積極的に変性させていくものであり、そのための半ば実用的手段となりました。そこにつながらない読書はあまりしません。そして、その読書傾向ですが、当然ある意味偏ったものとなりました。



トールキンは述べています。「悲劇」が「劇」の真の姿であり、その最高の機能であるとするなら、「妖精物語」(ファンタジー)はその対局である「ハッピー・エンディング」を志向すると…。

そう、わたしにとって、目的を果たしてくれるのは、子どもに親和性のあるファンタジー小説や児童文学に類するものの読書でした。本の結末が、まずは、明るいものでなくてはならなかったのです。

もっとも現代では、ダークファンタジーといった分類のものもありますし、子どもに絶望を説く児童文学もあるようですが、それは除きます。



大人の文学と子どもの文学の差を規定するなら、児童文学についての次の宮崎駿さんの引用が的を得ていると思います。

児童文学というのは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という、人間の存在に対する厳格で批判的な文学とはちがって、「生まれてきてよかったんだ」というものなんです。
『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』宮崎駿 岩波新書 p-163 l-05

つまり、大人と子供の文学の差は、絶望とか、希望に関することの、取り扱い方の違いであると思います。日常の反復を脱し差異を求めるという課題は両者に共通でしょう。共にあがきます。

しかし、大人の文学はいくらあがこうにも、どこか絶望とは縁が切れないのに対して、傑作と呼べる子どもの文学は、全人的な多層性(ファンタジー)まで駆使して、絶望を通り越した地点にまでたどり着こうとするのです。

この全人的な多層性が重要です。トールキンが言うように、作品として達成することは難しく、行うものも少ないのですが、もしそれができたなら、それはもはや物語芸術といってもいいでしょう。



ファンタジーや、児童文学の傑作と呼べるものの物語の世界は、大抵、現実世界の単層性に比べて、皆、多層的です。

そんな世界にあって、登場人物は、自ら求めている回答になかなかたどり着けません。対立する見方が存在する中で、そのどちらかを早計に選びとることなく、(ファンタジーを伴った)第三の道を探って苦悩しあがくそれらの人物に、あるとき個性的な道がひらけて来ます。そして希望が描かれるのです。

わたしにとってファンタジーや、児童文学を読む行為は、そんなふうに希望に至る登場人物に自らを重ね合わせたりして、自らの本来あるべき正気を取り戻す過程とも言えます。

そして、わたしはそれら子どもの文学の読書によって、生成される新しい何者かを足がかりにして、更に自分自身の現実に向かい試行錯誤するのです。読書ははじめの一歩の役割を果たすといったらよいのでしょうか。

これらのことを、これほど巧みにやってくれるものは、そうないんじゃないかと思っています。





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