一、午後の授業
教室で先生は、星図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指して、みんなに問をかけました。カムパネルラが手をあげます。ジョバンニも手をあげようとしますが急いでやめました。
この頃ジョバンニは、教室でも眠く、どんなこともわからないという気持ちがするのでした。それを察した先生は、ジョバンニに、質問に答えさせようとしますが、彼は答えることができませんでした。ザネリが笑います。
しかしジョバンニは、確かに答えを知っていました。カムパネルラのお父さんの博士の家で雑誌を見たことがあったのです。
先生は仕方なく、手を上げたカムパネルラを当てますが、彼もどういうわけか答えませんでした。
きっと、カムパネルラは、ジョバンニが朝にも午後にも、新聞配達や活版所の活字拾いの仕事でつらく、そのために同級生とも積極的に遊ばず、むかしは父親同士が友達で家を訪れたこともあるカムパネルラとも、最近、口を利かなくなっていたのに同情したのでしょう。
二、活版所
学校が終わるとジョバンニは活版所に働きに出かけました。ジョバンニは大人たちに虫めがね君と呼ばれ、冷たく笑われます。
ジョバンニは活字を拾い始め、それが済むと小さな銀貨をもらい、帰りにパンひと塊と、角砂糖ひと袋を買って、ある裏町の小さな家に帰りました。
三、家
ジョバンニは、家に帰ると、病気の母のところに行き、容体を確かめます。母は母で息子の仕事をねぎらいました。お互いを励まし合います。
母親とは、漁に出た父親が、まもなく帰ってくるという話になりました。父親には、監獄に入っているとの噂もありました。その父親は、ジョバンニに、この次は、らっこの上着を持ってくると言っていました。
この、らっこの上着の話について知っている同級生は、よくジョバンニを冷やかしました。しかしジョバンニは、カムパネルラはそんなことはしない、と母親に言います。
やがてジョバンニは、カムパネルラも来ているであろう今夜の星祭り、ケンタウル祭に、出かけて行きました。
四、ケンタウル祭の夜
途中、時計屋に飾られた星図盤や天体望遠鏡に見入り、しばらくいろいろなことを空想しながらぼんやり立っていました。
それから、きょう家に届かなかった牛乳のことを思い出して、牛乳屋へ取りに行きました。しかし店では、今、家のものがいないから、明日にでも来てくれと、まるで取り合ってくれません。母親が病気で、きょう必要だと言っても無駄でした。
ケンタウル祭の会場に着くと、同級生に混じってカムパネルラも来ていました。ザネリはジョバンニをらっこの上着のことでからかいました。
カムパネルラは気の毒そうに黙って、ジョバンニを見ていました。ジョバンニはなんとも言えず寂しくなって黒い丘の方へ急ぎました。
五、天気輪の柱
牧場の後ろは、ゆるい丘になっていました。そこには天気輪(賢治の造語?)の柱がありジョバンニは、その柱の下に体を投げ出し、夜空を見、天の川のことを考えます。
そこは、昼間、学校の先生が言った、がらんとした真空の、冷たい場所とは、ジョバンニにはどうしても思われませんでした。
六、銀河ステーション
天気輪の柱が、いつしかぼんやり三角標になっています。ジョバンニは、いつの間にか銀河鉄道に乗っていました。そして、すぐ前の席には、カムパネルラもいます。
カムパネルラは、級友たちは、みな帰ったと言いました。ジョバンニは、銀河鉄道の動力を不思議に思い、汽車が走る天の川の、不思議で美しい世界に魅了されます。
七、北十字とプリオシン海岸
「おっかさんはぼくを許してくださるだろうか」とカムパネルラがいいました。そして「誰だって本当にいいことをしたら、いちばんしあわせなんだねえ。だからおっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う」ともいいました。
するとにわかに汽車の中が白く明るくなりました。そして行く手に白い十字架が立っているのです。車室の中の旅人たちはみな祈リました。
やがて、白鳥停車場に着くと、停車時間にふたりは、汽車から降りてプリオシン海岸へ行き、くるみの化石を拾い、獣の化石採取現場を参観します。
八、鳥をとる人
二人は車室の席に戻って、窓の外を眺めていると、突然、ここにかけていいかと、大人の声が、ふたりの後ろでします。
その男は鷺や雁を捕って、食べ物にすることを生業とする、人の良さそうな鳥捕りでした。ふたりは彼のその仕事ぶりや、不思議な行動に唖然とします。
九、ジョバンニの切符
車掌が切符を調べに来た時、ジョバンニはポケットの中にいつの間にかあった紙を出すと、それはなんと、天上へさえ行ける、ましてや汽車の走る幻想第四次銀河なら、どこへでも行ける切符でした。鳥捕りは、あなた方は大したものだと褒め始めます。
ジョバンニは、なんだか、いちいち落ち着きのない鳥とりが、気の毒でたまらなくなり、この人がほんとうにしあわせになるなら、自分が、あの光る天の川の河原に立って、百年つづけて鳥をとってやってもいいと考えます。
そして、黙っていられなくなって、鳥とりに、本当にあなたの欲しいものは一体なんですか、と聞こうとしますが、もうそこに、鳥とりの姿はありませんでした。
入れ替わりに小さな姉弟を連れた青年が汽車に乗ってきます。どうやら乗船が難破して、ここへ来たようです。青年は我々が神様に召されているのだといいました。
そしてジョバンニは、彼らを思って、その人たちの幸いのために、いったいどうしたらいいのだろうと考えました。
すると灯台守が、「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」、とジョバンニを慰めました。
ジョバンニは、カムパネルラが姉弟の姉の方と話しているのを見て激しく嫉妬します。やがて「新世界交響曲」が流れてきます。ジョバンニは、こんな静かないいところで、ぼくはどうして愉快になれないんだろうと思いました。
けれどもカムパネルラはあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、あんな女の子と話しているのだから。ジョバンニは、どこまでも僕といっしょに行く人はいないのだろうかとつらく思いました。
汽車は、コロラド高原らしきところ、双子の星を通過して、蠍の火の場面では蠍の悲しい物語が語られます。それは生き物の悲しみを思う蠍が神様によって昇天したという物語りです。
さらに汽車は、ケンタウルの村を通過してサザンクロス(南十字星)へ着くと小さな姉弟を連れた青年たちは下車していきました。神様にそう言われていたのです。別れ際あの北十字の時のように十字架が立って皆はお祈りをはじめました。
やがて汽車は動き出し、石炭袋(南十字星の近くの、天の川の光を遮る暗黒星雲)が見えてくると、カムパネルラは、あそこが本当の天上なんだと言って姿を消しました。
ジョバンニは目を覚ましました。牛乳屋に寄って母親が飲む牛乳をもらったあと、橋のところに人だかりができているのを見て尋ねると、なんとカムパネルラが川に落ちたザネリを助け、自らは行方不明となってしまったというではないですか。
カムパネルラの父は、悲しみを抑えながらジョバンニの父親の健在を知らせ。じき帰ってくることを告げます。ジョバンニは、もういろいろなことで頭が一杯で博士であるカンパネルラの父親にはなにも言えませんでした。
ジョバンニは牛乳を持って、父親が帰ることを母親に知らせようと一目散に走った、と物語は結ばれます。
決定稿がなく、賢治が死の直前まで手を加えた未完の作品ですが、賢治の代表作であり最高作とする見方が少なくありません。
決定稿がなく、未完と述べましたが、本作品のテキストが不十分だったため、初期稿と最終稿の決定に困難を極めています。よって市場に出回る作品もバリエーションがあり。わたしが読んだものは、比較的省略が多い版であることを付け加えておきます。
線の引き方次第で、賢治のいろいろ作品との関連付けが可能で、例えば、童話では『
ふた子の星』、『
よだかの星』、『
ひかりの素足』、『
インドラの網』などがあげられます。
制作の契機は、妹トシとの死別を考える方が殆どですが、保坂嘉内との友情の決別を考えている方もいます。
読解の仕方は、大きく分けてふたつあり、ひとつは、ジョバンニの心情に重点を置く方向と、もうひとつは、銀河世界の構想に重点を置く方向とがあります。両方の比重のかけ方で、作品のテーマはニュアンスを変えます。
ジョバンニの心情に重点を置く読解では、孤独なジョバンニの魂が、銀河鉄道でのカムパネルラの言葉(「誰だって本当にいいことをしたら、いちばんしあわせなんだねえ。だからおっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う」(カンパネルラが友達を助けて死んだことが予言されます))に触発されて動き出します。
そして、灯台守に助言(「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」)を受けたりして、「本当の幸福」を問い続けるその姿勢へ導かれるところに、その眼目があります。
そう、この読解では、これまでの賢治の童話の根幹を支える、一貫したテーマを読み取ることが可能です。賢治は、「本当の幸福」を問い続けたのだと思います。
銀河世界の構想に重点を置く読解では、時空の束縛から、開放された世界を描き出すこと、そう、ファンタジーによって、人にとって切実な、ある種の苦痛の克服を概念化することに、その眼目があるのでしょう。
避けようもない、ある種の苦痛や死を、ファンタジーは、ある方法で逃れることを可能にしてきたとトールキンは述べています。賢治の文学もそこを目指しているように思われます。
さらにトールキンは述べています。ファンタジーという表現形式は人間の叡智を総動員して考えを尽くさねば成立は困難であり、それを実行する者は少ないのです。しかし完成の域に達することができたなら、何ににも代えがたい物語芸術になると。
この言葉の通り、この物語は未完となってしまいました。しかし未完とはいえ、このファンタジー世界、見事に成功しているように思われます。単なる夢として終わらせず、ジョバンニの心に生成して定着したように思われます。そして同じように読者の心にも。
わたしは、この両方の読解を不可分のものとしてとらえました。前者の読解に偏るのが自然ですが、少々軟弱なセンチメンタルにおちいりがちです。
前者の読解が、生きる上での動機づけを提供するものと考えるなら、そこに同時発生的に生じる、ある種の苦痛の克服を、後者の読解が概念化することによって、前者の動機づけを、絵空事ではなく、実際に心に強く定着させる、すぐれた装置になっているのです。
すぐれたファンタジーはセンチメンタルではあっても軟弱さとは無縁です。賢治のファンタジーはどれもこうです。
それにしても、読みこむほど難解な物語です。とりあえず現時点ではこれまでとします。
生前未発表
原稿執筆は大きく四段階に分けられ、第一次と第二次稿は一部残るのみで、第三次稿はおそらく大正末年に成立し初期稿とされます。二箇所欠落あり
第四次稿は昭和6年頃の執筆で、一箇所欠落あり
『
グスコーブドリの伝記』同様、「少年小説」、「長編」のメモあり