子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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宮沢賢治童話全集 10 ポラーノの広場 リンク
イーハトーボ農学校の春』 宮沢賢治童話全集 10 より - 賢治と音楽
イギリス海岸』 宮沢賢治童話全集 10 より - 一連の随筆風農学校もの
ある農学生の日誌』 宮沢賢治童話全集 10 より - 『グスコーブドリの伝記』序章
耕耘部の時計』 宮沢賢治童話全集 10 より - 初々しい新しい農業の担い手
ポラーノの広場』 宮沢賢治童話全集 10 より - 賢治の私塾「羅須地人協会」の理想





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18:36 : 宮沢賢治童話全集 10 ポラーノの広場 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ポラーノの広場』 宮沢賢治童話全集 10 より - 賢治の私塾「羅須地人協会」の理想
前十七等官レネーオ・キュースト著、宮沢賢治訳述。

その頃、わたし、キューストは、モリーオ(盛岡?)市の役所の博物局に勤めておりました。俸給は安くとも、好きな仕事でしたので、たいそう愉快に働きました。

その頃、モーリオ市では、競馬場を植物園に改装することになり、その敷地は、いっとき役所のものとなったので、わたしは早速、宿直という名目で届けを出し、そこに山羊一匹を飼い独居を始めます。



一、にげた山羊

五月の最後の日曜日、にげた山羊を探しに出かけ、わたしは山羊を捕まえてくれた、十七歳のファゼーロと会い、ポラーノの広場の話を聞きます。

ポラーノの広場とは昔話に出てくる場所ですが、どうもこの頃実際にあるらしいのです。しかし、イーハトーブは広くて、探し当てることはできません。

わたしは、ファゼーロに、山羊を捕まえてくれたお礼に、ポラーノの広場があるであろう場所の地図があるから、買って送るといいますが、ファゼーロは、きょうは仕事で行けないが、いつか暇を見つけてわたしを訪ねると約束をしました。

ファゼーロの仕事の主人は、山猫博士(山猫を釣って外国に売ること商いとしていると噂される)とあだ名される、悪評高き、県の議員であるデステゥパーゴであることが知れます。そこにはファゼーロの姉も働いています。つまり兄弟ともどもデステゥパーゴを主人としていました。



二、つめくさのあかり

十日ばかり経って、わたしが役所から帰ってみますと、ファゼーロが、三つ年上の羊飼いミーロを連れて現れます。そして、約束の地図を持ち、わたしを連れ、つめくさのあかりと、そのつめくさに付いた番号を頼りに、ポラーノの広場を探しました。

すると、どうやら、ポラーノの広場のことを知っているらしいデステゥパーゴの馬車別当が登場して、そんな探し方では見つからないなと冷やかしに来たりします。

そうかと思うと入れ違いに、ファゼーロの姉のロザーロが弟を迎えに来たりして、結局ポラーノの広場は見つからず、わたしたちは帰宅しました。



三、ポラーノの広場

それから五日ばかり経って、ポラーノの広場が見つかったと、ファゼーロがわたしを迎えに来ました。ファゼーロの案内で、わたしは広場の近くで、すでに待っていたミーロと落ち合うと、三人でポラーノの広場に入りました。

そこでは、大きなはんの木の梢から、たくさんのモールがはられ、オーケストラに合わせて人々は踊り、一回り踊りが済むと、皆は酒を飲みました。

あれが山猫博士だよ、とファゼーロは指をさしました。山猫博士は、給仕に酒を注がせては乾杯し、わたしたちを見て首を傾げます。

ファせーロの雇い主であるテーモがコップを私たちに差し出したので、私たちは水を所望しました。

皆が歌い、踊り疲れたのを期に、ファゼーロとわたしは、ミーロに歌をうたうように勧めました。ミーロは、始めからそのつもりでここに来ていたので、喜んで歌います。

しかし、ミーロの歌に文句をつけた山猫博士は、さらに「酒を飲まずに 水を飲む / そんな奴らが でかけて来ると / ポランの広場も 朝になる / ポランの広場も 白ぱっくれる」と歌います。

それに対してファゼーロは、「酒くせのわるい 山猫が / 黄色のシャツで 出かけていると / ポランの広場に 雨がふる」と応酬しました。デステゥパーゴはファゼーロに決闘を挑みます。

わたしは、いっときはファゼーロをかばいましたが、酒を飲まなきゃものも言えない相手など、子どもで十分と思い、ファゼーロを後押ししました。わたしの予測通りデステゥパーゴは負けて、すごすごと立ち去りました。

そしてポラーノの広場に残る人に話を聞くと、この場は来年の選挙の支度の一環で、皆にただ酒を飲ます催しであることが知れます。

ファゼーロは雇い主であるテーモのもとに戻ろうとします。いじめられるでしょうが、彼が帰らなければ、姉がいじめられることでしょう。ファゼーロは、何かあったらわたしに相談すると言って、三人は別れました。



四、警察署

その翌々日の一九二七年六月二十九日、突然わたしは警察署に呼び出されました。どうせこの間の山猫博士とファゼーロの決闘のことと見当はついています。

そこには山猫博士の馬車別当も呼びだされていました。そして彼から、ファゼーロが失踪し、テーモから家宅捜索願が出ていること、デステゥパーゴも当地にいないことを知ります。

ファゼーロの姉、ロザーロも呼ばれています。三人はそれぞれ、警部に尋問を受けました。警察はファゼーロの失踪に山猫博士が関わるものとして、行方不明の両者を捜索します。



五、センダード市の毒蛾

わたしは、八月三日より二十八日間、イーハトーブ海岸に半ば慰安休暇の出張に出かけ、八月三十日の夜、隣の県のセンダード(仙台?)市に着きます。

当地では、毒蛾の発生で、夕刻窓を開けることが禁ぜられました。わたしは、暑いやらつかれたのやら、すっかりむしゃくしゃして、今のうちに床屋にでも行ってこようと思い、ホテルを出ます。

床屋には、アーティストと呼ばれる複数の従業員が働き、いろいろ世話を焼いてくれます。すると、隣の席で、毒我にやられたところを触れられて、叫ぶ人がいます。なんと、デステゥパーゴでした。

わたしは帰途、待ち伏せして、デステゥパーゴを追い、話を聞くと、彼は、あのポラーノの広場がある林で、税務署に届けず木材乾溜の会社をやっていたのだと言いました。

しかし、税を逃れてやっていたことを部下に脅迫され、破産したことを告白します。それで彼は逃げて来たというのです。しかし本当のことかどうかは分かりません。

肝心のファゼーロの行方を聞きますが、彼は知らないと答えました。



六、風と草穂

九月一日、わたしは登庁し、先月の出張に付随する、よもやまごとを片付けると、すっかり夕方となったので役所を出ました。そして、いつもの通りの日常に戻ってみると、よほど疲れていたのか椅子の上で寝てしまいました。

そこへ、誰かわたしを揺するものがいます。ファゼーロでした。彼はポラーノの広場の夜、雇い主のテーモのもとには、どうしても嫌で帰れず、夜を明かしました。

そして困っているところを皮革業者に拾われてセンダードに行き、その技術を学んだと言いました。しかし、警察に探しだされて、八月十日に雇い主のもとに帰ったのだと答えました。

しかしどうも様子が変わったらしく、雇い主であるテーモは、ファゼーロに、どこへ行ってもいいから勝手にしろというではないですか。

そんな彼に連れられて、わたしはミーロやロザーロたちの待つ、ポラーノの広場の林に出かけます。途中、見覚えのある百姓に出会うと、山猫博士の話になり、彼のずる賢さが説かれます。

山猫博士ことデステゥパーゴは、センダードの土地持ちで、破産などしていないと言うではないですか。しかし従業員の皆にも弱みがあるゆえに、泣き寝入りになってしまったと語りました。わたしはなにが本当なのかわからなくなりました。

ポラーノの広場があった林につくと、ミーロたちに出会い、水で乾杯します。そして皆は、理想的なポラーノの広場建設の決意を語りました。



三年後、ファゼーロたちは産業組合を作り、事業は発展します。その四年後の現在、トーキオ市で働く私のところに、ファゼーロたちから「ポラーノの広場のうた」の歌詞と音符が届けられ、わたしの回顧と共に物語は結ばれます。



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賢治の童話としてはわりと長い方です。モーリオ市の博物局に勤めるレオーノ・キューストが書き宮沢賢治が訳した形をとっています。

農学校の生徒たちへの親愛の思いを込めて、羅須地人協会の理想を語ったイーハトーブ物語という位置づけでしょう。

同じ位置づけの、『グスコーブドリの伝記』の悲劇性(実はそうでもないと思います)に比べると、明るく挫折感が少ない物語になっています。またこの物語自体も、『ある農学生の日誌』と同様、『グスコーブドリの伝記』の序章と言えます。

ポラーノ広場とは昔話の存在ですが、それはいつの間にか、現実世界に顕現するものとして描かれ、初めこそ、ある意味貧相なユートピアといえる、山猫博士の欲にまみれた俗界でしたが、やがてファゼーロが導く賢治が思い描くであろう理想世界を表象するものとなってゆきます。

狭めていうなら、ある意味新しい労働観を追求する物語ですが、『カイロ団長』同様、具体的な記述はありません。

しかし、歴史を鑑みれば、おそらく、当時の労農党への政府の弾圧や国家政策に追随した、産業組合への不満などを含め、ファゼーロのような働く農民を主体とした、民主的な産業組合の成立を願っていたことが伺われます。ですが、どうにもならない現実を、一歩退いて見ていた、というかっこうでしょうか。



生前未発表
初期形、第三章は、劇「ポランの広場」として大正13年8月に上演、よって初期形の成立はそれ以前
最終形は作中に一九二七(昭和2年)・六・二九の表記がありそれ以降の成立と思われます
遡ると、散文「毒蛾」に手を入れて、完成させたものと思われます
文中の「ポラーノの広場のうた」は、歌詞と字句の違いで、歌曲、文語詩「ポランの広場」など、バリエーションが存在



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21:09 : 宮沢賢治童話全集 10 ポラーノの広場 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『耕耘部の時計』 宮沢賢治童話全集 10 より - 初々しい新しい農業の担い手
一、午前八時五分

農場の耕耘部の農夫室には、農夫たちが食事を済ませ、仕事の準備をしていました。そこへ新入りとして、赤シャツの若くて血色のいい男が入ってきて農夫長に指図を受けました。

若い農夫は農夫長に脱穀の器械は八時三十分から動くから今すぐ向かえと言われます。若い農夫は、ふと、部屋の正面にかけてある舶来の上等らしいりっぱな柱時計をみました。

若い農夫は右腕を上げて自分の腕時計と見比べてその柱時計は自分の腕時計と比べて十五分進んでいるなとつぶやきます。若い農夫は自分の腕時計を合わせようとしますが、その様子を見ていた農夫たちはどっと笑いました。

若い農夫はなぜ自分が笑われたのか知れず、きまり悪そうにみんなの支度ができるのを待ちました。



二、午前十二時

脱穀機は回り続けます。そして脱穀するとうもろこしがなくなると器械は楽な音を立てながら回り続けました。農夫室の後ろの雪の高みの上に立てられた高い柱の上の小さな鐘が十二時を知らせます。

若い農夫はふと思い出したように右手をあげ自分の腕時計を見ると、今度は時間は合っているなとつぶやきました。



三、午後零時五十分

午後の食事が済んで皆は農夫室の火を囲んでしばらく休んでいました。若い農夫は、農夫長に聞かれるままに、しばらく身の上話をしていると、農夫長は黙ってしまいました。

農夫長は、さあじきに一時だ、仕事に言ってくれといいます。若い農夫はこっそり自分の腕時計を見ると確かに時計は一時五分前なのに、あのりっぱな柱時計は一時二十分を指しています。

若い農夫はぼんやりとそのりっぱな時計を眺めています。そんな様子に、また今朝のように農夫たちはどっと笑いました。若い農夫はきまり悪そうに脱穀室へ向かいました。

農夫たちの中には、あいつ時計ばかり気にして気取ってやがるというものもいました。



四、

日が暮れてすっかり雪になりました。多くの農夫は酒でも飲みに行った様子です。若い農夫は炉にあたりながら何やら手帳に書き入れていました。その時あのりっぱな柱時計がガンガンと六時を打ちました。

若い農夫はびっくりして自分の腕時計を確かめると確かに六時を指しています。ところが、あのりっぱな柱時計針は五時四十五分を指しているのです。若い農夫はそのりっぱな柱時計をしばらく睨めつけていました。

するとその時です。時計の針が五時五十分を指すと、稲妻のように飛んで、六時十五分を指すではないですか。若い農夫は時計の針のネジが緩んでいるんじゃないかと叫びました。残っている農夫たちもどっと笑いました。

若い農夫は時計のネジを締めて修繕します。外ではこんこんと雪が降り酒を飲みに出かけた農夫たちも停車場まで行くのはやめたろうと思われたのですと物語は結ばれます。





この耕耘部の時計、時報は正確ですが、ネジの緩みのため、時報がなるときは十五分前の四十五分を示し、その長針が五十分を指すと、ひとっ飛びに飛んで、時報の時刻の十五分を指し示すようです。

この時計が実際どのように動いているのかは、賢治の説明の不足(賢治は創作の際、綿密な計算に基づいて、物語を組み立てるつもりはなかったのでしょう)もあり、にわかに断定することはできないのですが、憶測として計算しているブロガーの方もいらっしゃいます。興味がある方は探してみてください。



賢治が愛した小岩井農場。その耕耘部が舞台となっているようです。若い農夫と、これまでの農夫が半ば対照的に描かれ、若い農夫がからかわれる場面もありますが、おおむね和をなしています。

賢治が身を置く場所は、もちろん若い農夫の側でしょう。若い農夫が、新しい価値観と共に、これまでの農夫の中に馴染んでいく様子が描かれます。

ある意味、新しい農業の担い手を、時間を気にする人物として、カリカチュアしたのではないでしょうか。その様子が時計の謎解きを背景に語られます。



生前未発表
大正12年冬頃の清書、初稿か否かは不明





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20:40 : 宮沢賢治童話全集 10 ポラーノの広場 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ある農学生の日誌』 宮沢賢治童話全集 10 より - 『グスコーブドリの伝記』序章
「ぼくは農学校の三年になったときから今日まで三年の間のぼくの日誌を公開する」という形式で、大正14年4月1日から、昭和2年8月21日までの出来事が物語られます。



「序」では、「どうせぼくは字も文章も下手だ。ぼくと同じようにほんきに仕事にかかった人でなかったら、こんなもの実にいやな面白くもないものにちがいない」と述べられます。

そんな自身の仕事に重ね合わせ、本当の仕事が地味で野暮であること、しかし、それを軽蔑するのは卑怯であること、そんな卑怯な行為を世界からなくしてしまおうではないかと語られます。



大正14年の日誌には、三年生になった感想、学校での実習、費用のかかる北海道修学旅行とそれにまつわる家庭内の雰囲気、修身の授業への疑問、土性調査の実習と我が家の田への応用への決意などが述べられます。日誌の文量は、大正14年のことが多くを占めます。

大正15年(昭和元年)の日誌は、三月二十日と、六月十四日のみで、二年続いた干ばつを取り戻すべく、塩水選のことから米の増産への見通し、樋番の時に権十が水を盗むのを発見し彼を卑怯者として憤慨したことなどが述べられます。

昭和2年の日誌は八月二十一日のみで、十分に手入れをし、よく計算して施肥したのに、烈しい雨のため稲が倒れてしまい、すべてが無に帰し、どうして良いかわからない。ああどうでもいい、なるようになるんだ、と物語は結ばれます。





「序」で語られた心情は、当時の農業か抱える現実が吐露されると同時に、空想を現実の文字に定着させる、賢治の創作態度にも通じるものでしょう。

費用のかかる修学旅行のくだりは、当時の農民の生活苦の様子が、まざまざと描かれています。

全体として、賢治の、農学校教師時代、羅須地人協会での、それぞれの体験に基づいて、米の増産への科学的手法の導入や、それを通して農村生活の向上への希求が語られます。これはのちに『グスコーブドリの伝記』として結実しています。


生前未発表
内容の一部は詩『もうはたらくな』(昭和2年8月20日)などと似ている。本作品はこの日付以降の執筆と考えられます





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18:41 : 宮沢賢治童話全集 10 ポラーノの広場 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『イギリス海岸』 宮沢賢治童話全集 10 より - 一連の随筆風農学校もの
夏休みの十五日の農場実習の間に、私たちがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごとに遊びに行ったところがあります。

場所は、北上川の西岸で、本当は海岸とは呼べませんが、イギリスあたりの白亜の海岸を歩いているようです。

わたしたちの学校は、そこに臨海学校などの機会を設けることができずにいたので、ぜひそこをイギリス海岸と呼びたかったのです。

また、第三紀と呼ばれる地質時代の終わり頃、そこは海の渚だったところのようで、ここを海岸と呼んでも何の不足があるでしょう。



私たちは、今年三度目のイギリス海岸に行きました。そこで、壺穴やリーゼガングの輪を学習し、騎兵隊の、慎重な水馬演習を見たりしました。

次の日、火山礫層のところでくるみの化石を見つけたり、鉄てこを持って歩いてきた川の救助係の馬鹿真面目な勤務態度を見て、どこか足りないひとだと思ったりします。

しかし、翌日、救助係が管轄する区域を外れて、わたしたちの水泳に、危険がないかを心配してくれていた事を知ります。

すると改めてわたしは、自分だけは賢く、他人のすることは馬鹿げているという、ありがちな考えを改め、反省せざるを得なくなりました。その救助係の人は今年になってもうふたりも助けているのでした。

また、その日はあるひとりの生徒が、獣の足跡の化石を発見します。粘土で型を取ろうとしましたがうまく行きません。明日、石膏を持ってきて型を取ることにしました。

次の日、黒板で生徒に呼びかけ、第三紀偶蹄類の標本を採取に出かけるからと参加をつのり出かけました。足跡の化石の標本はたくさん採れました。



そして翌日のきょうは雨が降りました。野外での活動はできません。屋内で図を引いたりして遊ぶのです。きょうは実習の九日目です。

明日から、私たちには、まだ、百姓の仕事で一番大変な麦の脱穀の仕事が残っています。麦の脱穀は麦の先端の細毛が体に入ってえらえらし、大変つらい仕事です。私たちは、どうにかして、それをできるだけ面白くやろうと思うのです、と物語は結ばれます。





農学校の夏休みの農業実習の様子が描かれます。

作品を分類するなら、『台川』、『イーハトーボ農学校の春』などの賢治の作品に一連の農学校もののひとつに数えられます。

中心的なテーマは見当たらず、随筆風な作品です。しかし中心がないと言ってもいくつかの軸はあります。

賢治の地学的関心が生み出す知的な喜び、救助係の人柄と仕事への使命感、教師である賢治と生徒との精神的交流などが緊密にからみあって作品は構成されます。

作品の末尾まで、あふれるばかりの開放感が主調です。



生前未発表
作品末尾に1923・8・9とありますが、体験内容は大正11年のものとされます





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18:26 : 宮沢賢治童話全集 10 ポラーノの広場 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『イーハトーボ農学校の春』 宮沢賢治童話全集 10 より - 賢治と音楽
春の明るい太陽の日差しが降り注ぎ、太陽マジックのうたは、もう青空いっぱいひっきりなしにごうごう鳴っています。

実習服を着た、わたしと農学校生徒は、堆肥小屋で汲み上げた堆肥を、ふたりひと組になって、下台の実習田に運びました。

その際、安全のため、急な崖は避けて道を選びました。そして肥を麦にかけると、今度は崖を登り近道して帰っていきます。

あたりは、柳の木でも樺の木でも、燐光の樹液がいっぱい脈を打っています、と物語は結ばれます。





一連の農学校もののひとつに数えられます。童話というより随筆風な心象スケッチです。賢治になぞらえた、教師としてのわたしの、喜びあふれる体験がつづられます。地学関係の描写はみられませんが全体として『台川』とよく似ています。

「カイロ男爵」や「風の又三郎」などの言葉が登場していますが、このあたりは童話との関連も読み取れます。



注目すべきは、「太陽マジックのうた」と呼ばれる、文章に差し挟まれる楽譜の譜面です。まばゆい春の光が、楽譜による音の流れと交錯し、まるで文学と音楽を融合させようとするような描写がみられます。

賢治が生きた時代にも、楽譜ではないにしろ、何らかのものを文章に挟みこむことで、意図する効果が施される文学作品は少数ですが見受けられます。トールキンの『指輪物語』なんかもそうですね。彼らは自らの文学作品を、何らかの装置のように扱っているのではないでしょうか。

ことに賢治はオノマトペの多用にみられるように、音に執着する作家でした。わらべうたのようなものも、たくさん作って文章に挿入しています。賢治の作品の中の、音や音楽については研究の対象にもなっているようです。



生前未発表
初題『太陽マジック』
初稿は大正11年5月前後頃
清書は大正12年夏頃





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