前十七等官レネーオ・キュースト著、宮沢賢治訳述。
その頃、わたし、キューストは、モリーオ(盛岡?)市の役所の博物局に勤めておりました。俸給は安くとも、好きな仕事でしたので、たいそう愉快に働きました。
その頃、モーリオ市では、競馬場を植物園に改装することになり、その敷地は、いっとき役所のものとなったので、わたしは早速、宿直という名目で届けを出し、そこに山羊一匹を飼い独居を始めます。
一、にげた山羊
五月の最後の日曜日、にげた山羊を探しに出かけ、わたしは山羊を捕まえてくれた、十七歳のファゼーロと会い、ポラーノの広場の話を聞きます。
ポラーノの広場とは昔話に出てくる場所ですが、どうもこの頃実際にあるらしいのです。しかし、イーハトーブは広くて、探し当てることはできません。
わたしは、ファゼーロに、山羊を捕まえてくれたお礼に、ポラーノの広場があるであろう場所の地図があるから、買って送るといいますが、ファゼーロは、きょうは仕事で行けないが、いつか暇を見つけてわたしを訪ねると約束をしました。
ファゼーロの仕事の主人は、山猫博士(山猫を釣って外国に売ること商いとしていると噂される)とあだ名される、悪評高き、県の議員であるデステゥパーゴであることが知れます。そこにはファゼーロの姉も働いています。つまり兄弟ともどもデステゥパーゴを主人としていました。
二、つめくさのあかり
十日ばかり経って、わたしが役所から帰ってみますと、ファゼーロが、三つ年上の羊飼いミーロを連れて現れます。そして、約束の地図を持ち、わたしを連れ、つめくさのあかりと、そのつめくさに付いた番号を頼りに、ポラーノの広場を探しました。
すると、どうやら、ポラーノの広場のことを知っているらしいデステゥパーゴの馬車別当が登場して、そんな探し方では見つからないなと冷やかしに来たりします。
そうかと思うと入れ違いに、ファゼーロの姉のロザーロが弟を迎えに来たりして、結局ポラーノの広場は見つからず、わたしたちは帰宅しました。
三、ポラーノの広場
それから五日ばかり経って、ポラーノの広場が見つかったと、ファゼーロがわたしを迎えに来ました。ファゼーロの案内で、わたしは広場の近くで、すでに待っていたミーロと落ち合うと、三人でポラーノの広場に入りました。
そこでは、大きなはんの木の梢から、たくさんのモールがはられ、オーケストラに合わせて人々は踊り、一回り踊りが済むと、皆は酒を飲みました。
あれが山猫博士だよ、とファゼーロは指をさしました。山猫博士は、給仕に酒を注がせては乾杯し、わたしたちを見て首を傾げます。
ファせーロの雇い主であるテーモがコップを私たちに差し出したので、私たちは水を所望しました。
皆が歌い、踊り疲れたのを期に、ファゼーロとわたしは、ミーロに歌をうたうように勧めました。ミーロは、始めからそのつもりでここに来ていたので、喜んで歌います。
しかし、ミーロの歌に文句をつけた山猫博士は、さらに「酒を飲まずに 水を飲む / そんな奴らが でかけて来ると / ポランの広場も 朝になる / ポランの広場も 白ぱっくれる」と歌います。
それに対してファゼーロは、「酒くせのわるい 山猫が / 黄色のシャツで 出かけていると / ポランの広場に 雨がふる」と応酬しました。デステゥパーゴはファゼーロに決闘を挑みます。
わたしは、いっときはファゼーロをかばいましたが、酒を飲まなきゃものも言えない相手など、子どもで十分と思い、ファゼーロを後押ししました。わたしの予測通りデステゥパーゴは負けて、すごすごと立ち去りました。
そしてポラーノの広場に残る人に話を聞くと、この場は来年の選挙の支度の一環で、皆にただ酒を飲ます催しであることが知れます。
ファゼーロは雇い主であるテーモのもとに戻ろうとします。いじめられるでしょうが、彼が帰らなければ、姉がいじめられることでしょう。ファゼーロは、何かあったらわたしに相談すると言って、三人は別れました。
四、警察署
その翌々日の一九二七年六月二十九日、突然わたしは警察署に呼び出されました。どうせこの間の山猫博士とファゼーロの決闘のことと見当はついています。
そこには山猫博士の馬車別当も呼びだされていました。そして彼から、ファゼーロが失踪し、テーモから家宅捜索願が出ていること、デステゥパーゴも当地にいないことを知ります。
ファゼーロの姉、ロザーロも呼ばれています。三人はそれぞれ、警部に尋問を受けました。警察はファゼーロの失踪に山猫博士が関わるものとして、行方不明の両者を捜索します。
五、センダード市の毒蛾
わたしは、八月三日より二十八日間、イーハトーブ海岸に半ば慰安休暇の出張に出かけ、八月三十日の夜、隣の県のセンダード(仙台?)市に着きます。
当地では、毒蛾の発生で、夕刻窓を開けることが禁ぜられました。わたしは、暑いやらつかれたのやら、すっかりむしゃくしゃして、今のうちに床屋にでも行ってこようと思い、ホテルを出ます。
床屋には、アーティストと呼ばれる複数の従業員が働き、いろいろ世話を焼いてくれます。すると、隣の席で、毒我にやられたところを触れられて、叫ぶ人がいます。なんと、デステゥパーゴでした。
わたしは帰途、待ち伏せして、デステゥパーゴを追い、話を聞くと、彼は、あのポラーノの広場がある林で、税務署に届けず木材乾溜の会社をやっていたのだと言いました。
しかし、税を逃れてやっていたことを部下に脅迫され、破産したことを告白します。それで彼は逃げて来たというのです。しかし本当のことかどうかは分かりません。
肝心のファゼーロの行方を聞きますが、彼は知らないと答えました。
六、風と草穂
九月一日、わたしは登庁し、先月の出張に付随する、よもやまごとを片付けると、すっかり夕方となったので役所を出ました。そして、いつもの通りの日常に戻ってみると、よほど疲れていたのか椅子の上で寝てしまいました。
そこへ、誰かわたしを揺するものがいます。ファゼーロでした。彼はポラーノの広場の夜、雇い主のテーモのもとには、どうしても嫌で帰れず、夜を明かしました。
そして困っているところを皮革業者に拾われてセンダードに行き、その技術を学んだと言いました。しかし、警察に探しだされて、八月十日に雇い主のもとに帰ったのだと答えました。
しかしどうも様子が変わったらしく、雇い主であるテーモは、ファゼーロに、どこへ行ってもいいから勝手にしろというではないですか。
そんな彼に連れられて、わたしはミーロやロザーロたちの待つ、ポラーノの広場の林に出かけます。途中、見覚えのある百姓に出会うと、山猫博士の話になり、彼のずる賢さが説かれます。
山猫博士ことデステゥパーゴは、センダードの土地持ちで、破産などしていないと言うではないですか。しかし従業員の皆にも弱みがあるゆえに、泣き寝入りになってしまったと語りました。わたしはなにが本当なのかわからなくなりました。
ポラーノの広場があった林につくと、ミーロたちに出会い、水で乾杯します。そして皆は、理想的なポラーノの広場建設の決意を語りました。
三年後、ファゼーロたちは産業組合を作り、事業は発展します。その四年後の現在、トーキオ市で働く私のところに、ファゼーロたちから「ポラーノの広場のうた」の歌詞と音符が届けられ、わたしの回顧と共に物語は結ばれます。
賢治の童話としてはわりと長い方です。モーリオ市の博物局に勤めるレオーノ・キューストが書き宮沢賢治が訳した形をとっています。
農学校の生徒たちへの親愛の思いを込めて、羅須地人協会の理想を語ったイーハトーブ物語という位置づけでしょう。
同じ位置づけの、
『グスコーブドリの伝記』の悲劇性(実はそうでもないと思います)に比べると、明るく挫折感が少ない物語になっています。またこの物語自体も、
『ある農学生の日誌』と同様、『グスコーブドリの伝記』の序章と言えます。
ポラーノ広場とは昔話の存在ですが、それはいつの間にか、現実世界に顕現するものとして描かれ、初めこそ、ある意味貧相なユートピアといえる、山猫博士の欲にまみれた俗界でしたが、やがてファゼーロが導く賢治が思い描くであろう理想世界を表象するものとなってゆきます。
狭めていうなら、ある意味新しい労働観を追求する物語ですが、『
カイロ団長』同様、具体的な記述はありません。
しかし、歴史を鑑みれば、おそらく、当時の労農党への政府の弾圧や国家政策に追随した、産業組合への不満などを含め、ファゼーロのような働く農民を主体とした、民主的な産業組合の成立を願っていたことが伺われます。ですが、どうにもならない現実を、一歩退いて見ていた、というかっこうでしょうか。
生前未発表
初期形、第三章は、劇「ポランの広場」として大正13年8月に上演、よって初期形の成立はそれ以前
最終形は作中に一九二七(昭和2年)・六・二九の表記がありそれ以降の成立と思われます
遡ると、散文「毒蛾」に手を入れて、完成させたものと思われます
文中の「ポラーノの広場のうた」は、歌詞と字句の違いで、歌曲、文語詩「ポランの広場」など、バリエーションが存在