子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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宮沢賢治童話全集 6 なめとこ山のくま リンク
なめとこ山のくま』 宮沢賢治童話全集 6 より - 生きとし生けるものの永遠の和解
山男の四月』 宮沢賢治童話全集 6 より - デクノボウと山男
祭の晩』 宮沢賢治童話全集 6 より - 山男という存在に託された理想
紫紺染めについて』 宮沢賢治童話全集 6 より - 続・山男という存在に託された理想
ざしき童子のはなし』 宮沢賢治童話全集 6 より - 民間伝承をいきいきと伝える物語
とっこべとら子』 宮沢賢治童話全集 6 より - 騙さないきつねという視点、民話からの創作
狼森と笊森、盗森』 宮沢賢治童話全集 6 より - 民話的色彩を羽織った賢治の文明批判
鹿踊りのはじまり』 宮沢賢治童話全集 6 より - 自と他の二重の捉えあい
かしわばやしの夜』 宮沢賢治童話全集 6 より - 農民芸術論に至る賢治芸術の直感的把握





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18:30 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『かしわばやしの夜』 宮沢賢治童話全集 6 より - 農民芸術論に至る賢治芸術の直感的把握
日暮れ時、畑仕事に精を出していた清作は、かしわ林のそばで、赤帽の画かきに出会い、おかしな挨拶を仕掛けられて、当意即妙の応答をしたことから、かしわ林の夏のおどりの第三夜に誘われます。

しかし、かしわの木たちは、木こりの清作を歓迎せず、何かと意地悪をして、歌競べが高潮すると、清作の失敗談をねたに歌で散々嘲弄し、清作を怒らせます。

やがてそこに、ふくろうたちも加わり、かしわの木と鳥との合同の乱舞会となりますが、かしわの木大王の歌とともに霧が立ち込め、画かきは姿を消し、かしわの木たちも動かなくなります。

清作が林を出ると絵かきの叫び声が遠くかすかに聞こえてきます、と物語は結ばれます。





この物語も、賢治の童話群の分類上、大きな柱と言える、自然との融合、交歓を表現した物語のひとつです。

これらを表現したものなら、前話の『鹿踊りのはじまり』にしても、『なめとこ山のくま』にしても、枚挙に暇がありません。この物語では、かしわ林での楽しい歌合戦の一晩が描かれます。

この作品で用いられる擬人化も、前話『鹿踊りのはじまり』同様、真に迫っています。それゆえに、物語の中で描かれる矛盾のおかしみが、最大限に発揮されています。特異なユーモアと、自然感覚とにあふれた、賢治ならではの作品として評価は高いです。



賢治の作品に、ときどき登場する都会人風の人物ですが、本作品では画家がそれに当てはまるでしょう。このような人物の造形は、賢治の童話群の中でも、執筆年月日からして比較的早い登場です。

また本作品の執筆は、賢治の滞京生活の終わりの時期と重なり、習作期からの脱却の時期に書かれたものとして、『鹿踊りのはじまり』同様、後の農民芸術論に通じる、賢治芸術の自身による直感的把握がなされているものと思われます。

なお、かしわの木が、清作を嘲弄した歌の素材は、『ぶどう水』でも用いられています。



初出『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』大正13年12月1日
初稿の執筆は大正10年8月25日
なお、冒頭部と途中二箇所に数枚の欠落のある初期系草稿が現存します





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18:39 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『鹿踊りのはじまり』 宮沢賢治童話全集 6 より - 自と他の二重の捉え合い
わたしが、夕暮れの野原で風から聞いた、鹿踊り(ししおどり)の本当の精神として語り始められます。



ある時、嘉十(かじゅう)は、栗の木から落ちて膝を悪くし、西の山に湯治に出かけます。彼は途中、休憩のため、持ってきたとちと粟の団子を出して食べ始めます。

しかしあまり一生懸命歩いてきたので、なんだか腹がいっぱいのように感じられ、団子を少し残して鹿にでもくれてやろうと、うめばちそうの白い花の下に置いて、再び歩き出しました。

ところが少し歩くと嘉十は、先ほど休んだところに、手ぬぐいを置き忘れたことに気づき、引き返しました。するとそこには、確かに鹿の気配がするのです。



嘉十は、すすきの影からそっと、六匹の鹿の群れを息をこらしてのぞきました。すると驚いたことに、置いてきた団子の脇にある、彼の忘れてきた手ぬぐいの正体を詮議する、鹿たちの問答が聞こえてくるのです。

鹿たちは、はじめに手ぬぐいを口発破(ダイナマイトを使ったわな)なのではないかと疑いました。また生き物なのではないかという言葉も聞こえてきます。

六匹の鹿は、代わる代わる用心して、そっと手ぬぐいに接近を試みます。その様子がユーモラスに語られます。そして手ぬぐいが無害だとわかると、鹿たちは輪になって歌い踊り始めました。



嘉十の手ぬぐいは、角で突かれ、足で踏まれ、可哀想に泥がつき、ところどころ穴さえ開いてしまいます。そして鹿たちは踊りが済むと、小さな団子を一口ずつ食べ合いました。

そして鹿たちは、再び輪になって踊り始めます。はんの木にかかる大きな夕日を拝み、笛のような声で次々に歌いめぐります。

それが最高潮に達した時、嘉十は、自分と鹿との区別も忘れて、隠れていたすすきの影から飛び出してしまいます。

鹿たちは驚いて、木の葉のように散って逃げて行きました。嘉十はちょっと苦笑いをして、ぼろぼろになった手ぬぐいを拾って自分もまた西に向かいました。



これらの話をわたしは、透き通った秋の風から聞いたのです、と物語は結ばれます。





短編童話の傑作として評価は一貫しています。わたしも賢治の作品の中ではこの童話が好きです。

ことに、鹿踊りが最高潮に達した時、嘉十の自我がとろけて、鹿との区別がなくなり、両者が二重の捉え合いをして一体となる場面は、巧みに描かれています。このような優れた表現には、めったに出会うことができません。また、これは賢治の、自と他に対する思想的立場を表現しているのでしょう。

それに加えて、鹿の優れた擬人的表現、あるいは、方言の導入などによってもたらされるユーモアなど、素朴ではありますが、物語の完成度が遥か高くに達しています。

これらの表現は、賢治の文学の成立の核心部分に触れていると思います。そう、鹿踊りの本当の精神は、後の農民芸術論に至る事柄の、直感的把握のように思えます。



初出『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』大正13年12月1日
初稿の執筆は大正10年9月15日





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18:30 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『狼森と笊森、盗森』 宮沢賢治童話全集 6 より - 民話的色彩を羽織った賢治の文明批判
小岩井農場の北に、黒い松の森が四つありました。一番南が狼森(おいのもり)、その次が笊森(ざるもり)、次は黒坂森(くろさかもり)、北のはずれが盗森(ぬすともり)です。

これらの森の奇体な名の由来を知るのは、俺ひとりだと、黒坂森の大きな岩は、いばって言いました、と物語は始められます。



昔まだ森ができたばかりのころ、森に囲まれた小さな野原に、四人の百姓がやって来て、森の許しを請い住み着きました。

ところが、毎年収穫の秋になると、順に子ども、農具、粟が姿を消し、それは森に住む狼、山男、大男しわざとわかります。彼らがそれぞれに住む森にちなんで、森の名はつけられます。



皆は盗られたものを返してもらうたびに、森へ粟餅を持って行きました。そして今では、毎年冬の始めには必ず、粟餅を持って行ったということです。

しかしその粟餅も、時節がら、ずいぶん小さくなったが、これはどうやら仕方のないことです、と黒坂森の大きな岩は言ったと物語は結ばれます。





賢治の民話風の作品のうちで、最もそれらしいものとして評価されています。開拓者と自然の交流が豊かに描かれます。

現代における、自然との交流を持たない開拓一辺倒のやり方は、暗に批判の対象にされているのでしょうか。

また賢治の作品でお馴染みの山男ですが、この作品においては伝承に縛られず、トリックスター的な側面を見せています。

地名由来譚として語り始められますが、最終的には、賢治らしさが漂う創作として着地されます。



初出『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』大正13年12月1日
初稿の執筆は大正10年11月





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19:54 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『とっこべとら子』 宮沢賢治童話全集 6 より - 騙さないきつねという視点、民話からの創作
おとらぎつねのはなしは、どなたもよくご存知でしょう。おとらぎつねの話にも、いろいろあったのでしょうが、わたしの知っているのは「とっこべ、とら子」のはなしです、と物語は始められます。



むかし、とっこべとら子という狐が、大きな川の岸に住んでいて、夜、網打ちに行った人の魚を盗ったり、買い物をして、夜遅く町から帰る人から油揚げをとったり、実に始末に終えないものだったそうです。

欲深く、金貸しをなりわいとする六平は、ある晩ひどく酒に酔って町から帰る途中、金らんの上下の立派な侍に呼び止められます。侍は不要な金子があるから預けたいと、六平に言いました。

そして侍は数多の敵を持つ身であるので、万一、命を落とすようなことがあれば、その金子をすべて六平にやろうといい千両箱十個を積みます。

好きなだけ持って行けというので、欲張りな六平は、それをすべて持ち帰りました。しかし子どもに指摘されて気づくのですが、それは、土手の普請に使う砂利でした。六平は熱病になり、とっこべとら子に騙されたと叫び続けました。



この昔ばなしは本当のことでしょうか。昔のはなしなので、もう確かめようがありません。しかし、多分、嘘なのではないでしょうか。なぜなら同じようなことがゆうべ起きて、その話は明らかに嘘であるとわかるからです。



そのはなしも、やはりあの大きな川の岸でのことです。そこには平右衛門という人の家がありました。平右衛門は、村会議員に当選して、家には、その祝で、親類の者が、皆、呼ばれていました。

平右衛門の家では、酒宴が開かれます。宴は賑やかにとり行われました。皆、しこたま飲んで一通り済むと、客たちは、食べ残したものを包み土産として持って帰ろうとします。

ひとりは、とっこべとら子に土産を取られないようになどと、軽口を叩いています。はたして、そこに、とっこべとら子が現れます。

しかし、それは疫病よけの「源の大将」の人形でした。酒のせいで、皆は、前も後ろもわからなくなっていたのです。しかし皆は、それをとっこべとら子と信じて疑いません。皆恐れ、彼らの妄想が語られて物語は結ばれます。





きつねに騙されるというのは、酒に酔ったことなどによる人間の錯覚だという視点から描かれるあたりは、『雪渡り』と同じです。

しかし、酒に酔う人を非難する視点は見当たらず、どちらかというと、そんな人間を暖かく笑う方向性です。

全国的に分布する、おとらぎつねのはなしと、盛岡地方の、とっこべとら子の伝承を結びつけて、最後に現在のはなしとして、賢治の創作が置かれます。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正10年、あるいは大正11年





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18:26 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『ざしき童子のはなし』 宮沢賢治童話全集 6 より - 民間伝承をいきいきと伝える物語
昼間、子供二人が庭で遊んでいると、誰もいない大きな家のどこかの座敷で、ほうきの音がします。こっそり覗いてみるのですが誰もいません。こんなのがざしきぼっこです。



お振る舞いに来た十人の子どもたちが、座敷で大道めぐりをして遊んでいると、いつしか十一人に増え、けれども誰が加わったのかはわかりません。こんなのがざしきぼっこです。



ある大きな本家では、いつも旧八月のはじめに、如来さまのお祭りで分家の子どもを呼ぶのですが、ある年、分家の子どもの一人が、はしかにかかり、本家では如来様の祭を伸ばしてやりました。

一ヶ月遅れの祭りの日、その子を恨めしく思った他の分家の子どもたちは、みんなでその子をのけ者にしようとします。

そして、次の座敷に皆は隠れようとすると、そこには、まだ来ていないはずのその子が、やつれた泣き顔で座っていました。こんなのがざしきぼっこです。



ある晩、渡し守が、紋付袴の綺麗な子どもを乗せました。尋ねると、子どもは、もう飽きたから、笹田の家から更木の斎藤の家へ行くのだと答えます。

船が岸に着くと子どもはいなくなります。なんだか夢のようです。それから笹田は落ちぶれて斎藤は栄えました。こんなのがざしきぼっこです、と物語は結ばれます。





民間伝承の四つの短いざしき童子の物語が、文量が少ないがゆえに、より濃密に、詩的な余韻を残しながら、異界と現実の交錯する場を、印象的に連ねられます。

そこに、ざしき童子に対する、賢治の解釈は施されません、それがかえって、より伝承の持つ、いきいきとした息吹を、例えば、ざしき童子の神秘、あるいは逆に親しみのある存在観などを伝えます。



初出「月曜」二号、大正15年2月





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18:43 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『紫紺染めについて』 宮沢賢治童話全集 6 より - 続・山男という存在に託された理想
盛岡の産物の中に、紫紺染めというものがありました。しかし明治以降、西洋から安いアニリン色素が伝わると、一向に流行らなくなりました。それがごく近頃、また日の目を見るようになったのです。

ところが、途絶えた技術を復活させるのは、並大抵のことではありませんでした。このお話は、その紫紺染めが、東京大博覧会で、二等入賞するまでの苦心談の一つです。



工芸学校の先生は、まず昔の古い記録に目をつけました。すると山男が、紫紺を売って酒代にしていたことがわかります。当時の人は皆、亡くなってしまっているので、山男だけが頼りとなりました。

そこで工芸学校の先生は、町の紫紺染め研究会の人と相談して、九月六日の午後六時、内丸西洋軒に、西根山の山男を招待することにしました。



当日、人力車夫が、倒れそうになりながら、やっとの思いで、黄金色の目をして赤つらの山男を運んできました。山男は、礼儀正しく人に接します。

しかしこの所作は、にわかづくりであることを知っていた町の本屋はほくそ笑みます。山男は、昨日、本屋で、「知っておくべき日常のマナー」という本を買っていったのです。



酒宴もたけなわとなり、皆は紫紺のことを山男に聞きますが、山男は知らないと言います。皆はがっかりしました。以後は懇親会ということになってしまいました。

酒が進むと、山男は自分がここに招待されたわけを察して、自分は子供の頃から、乳ではなく酒を飲まされて育てられたものだから、ひどいアルコール中毒で、皆とは反対に、酒を飲まないと、ものを忘れると言い出します。

そして山男は、紫紺について何やら思い出しました。山男は黒い湿った土を使うといいました。しかし思い出したのはそれだけでした。それでも工芸学校の先生は、手帳にそれを書きつけました。



酒宴が終わると、山男はあっという間に去ってしまいました。東京大博覧会で、二等入賞するまでには、こんな苦心もありました、と物語は結ばれます。



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山男もの続きます。ここでも山男に賢治の理想が反映されているのではないでしょうか。人の良さだとか義理堅さなどがこれに当たると思います。また山男には、にわかじこみのマナーや、酒を飲まないとものを忘れるなどユーモアも感じられます。

山男の形相ですが、黄金色の目というのは、法華経からの引用の可能性を示唆した論文もあるようです。



生前未発表
大正13年から14年頃に清書。初稿か否かは不明





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18:21 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『祭の晩』 宮沢賢治童話全集 6 より - 山男という存在に託された理想
山の神の秋祭りの晩、亮二は十五銭をもらってお旅屋にでかけ、つい空気獣という見世物小屋に入ります。

そして亮二は見世物を見終わって外へ出ようとすると、古い白縞の反物に、蓑のようなものを着た、黄金色の目で赤ら顔をした大男にぶつかります。

さて、亮二は十銭を払い小屋を出ると従兄弟の達二に会い、空気獣とは名ばかりで、牛の胃袋に空気を詰めたものだと教えられ、そんなことに金を払ったことを馬鹿にされました。



亮二は神楽殿で神楽を見ようとすると、掛茶屋の方で大声がするので行ってみると、そこには先程の大男が団子二串分の代金を払えと掛け茶屋の主人にいじめられていました。

どうやら大男は、空気獣を見て十銭を払い、もうお金がないにもかかわらず、団子を食べてしまったようです。大男は許しをこいますが、掛け茶屋の主人は聞く耳を持ちません。

そこで亮二は、五銭白銅を大男の足の上に置くと、大男はそれで代金を払い「薪を百把、後で返す。栗を八斗、後で返す」と言い残して忽然と姿を消しました。皆は山男だと叫んでいます。



帰宅した亮二はその話を祖父にしていると、祖父は山男というものは、ごく正直なものだと話して聞かせました。

すると外で大きな音がするので、二人は行ってみると、家の前の広場に薪と栗が投げ込まれています。どうやら山男が亮二に約束通り品を持ってきたようでした。

祖父は、こんなにもらうわけには行かないと、今度、山に、なにか持って行ってやろうと言いうと、亮二は「山男はあんまり正直で可愛そうだ。僕なにかいいものをやりたい」と言いました。祖父は、そういうものがあればなあと言ってふたりは家に入りました。

風が山の方でごうっと鳴っております、と物語は結ばれます。





山男もの続きます。前記事の『山男の四月』で最後に触れた通り、『雨ニモマケズ』のデクノボウに山男は重なります。山男という存在は賢治にとって、ある種の偶像であることが推察されます。

山男ものは他作品に比べて、取り上げられることが少ないようですが、わたしは、デクノボウとの関連が気になって、興味をそそられます。



生前未発表
大正13年ころ清書、初稿か否かは不明





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18:26 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『山男の四月』 宮沢賢治童話全集 6 より - デクノボウと山男
荒唐無稽な描写が続き、初読では、安っぽいファンタジーと思われて、読むのを断念する方がいるかもしれないので、実際には物語最後で種明かしされますが、始めに断っておきます。つまりこの物語は、日向で寝転がっていた山男の白日夢のお話です。



山男はこれから向かうであろう町に行くためには、化けないことには殴り殺されるということで、木こりに化けます。

すると町で、支那商人の陳に出会い、陳の悪魔のような風体に、怪しいと思いながらも、長生きの薬と称してだまされ、六神丸という薬を飲まされてしまいます。

すると山男は、自らも小さな六神丸に姿を変えられ、陳の行李に閉じ込められまうのでした。



山男はなんとかして支那人を懲らしめようとしますが、支那人は、食べていくためには仕方のないことだといい、泣き出してしまいます。

山男はそんな支那人に対して同情を寄せ、自分の体なぞくれてやる、という気持ちにさえなりました。



しかし行李の中に、すでに六神丸にされた別の支那人がいて、彼から手遅れになる前なら有効な手段があると、元に戻るための算段を山男は教えてもらいます。

そして山男はそれを実行し元通りの体になるものの、ひょんなことから間違えが起こり、陳は巨大化してしまいます。そして山男につかみかかりました。

そこで山男は夢からさめます。夢の中のことなどどうにでもなれと、大きなあくびをし、物語は結ばれます。



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トールキンは、夢の中での出来事でしたという打ち明け話は、ファンタジーとして認めません。

しかしこの物語は、そうした構造を持つものの、物語最後に、夢の中での出来事などどうにでもなれと、これまで語られてきたことを否定します。

そう、まるでトールキンが、『妖精物語とは何か』で、ファンタジーのような体裁をしていても、ファンタジーでないものを規定していく過程で行ったことを、あたかも賢治がそれをなぞらえるようにしているので話は複雑です。

当時の日本には、ファンタジーというカテゴリーはなかったものの、賢治は自身のことを、ファンタジー作家でもあることを自覚していたと思います。すると、この物語の最後は、簡易ですが、賢治のファンタジー論としても読めるのです。



また、この物語は、賢治にとって自信作でもあったようです。一時期は童話集のタイトルが『注文の多い料理店』ではなく、この物語のタイトルが使われる予定でした。

ところが、おおかたの評価は、賢治の自信とは裏腹に、かんばしくないものでした。確かにこの物語を小説風に読むとするならば、そうかもしれませんが、この物語の童話としての評価は、もっとあってしかるべきだと思います。

しかし、学術的な論及の対象となることは多いようです。賢治のいくつかの山男ものは、山男の伝承を踏まえつつ、善良かつ神秘的な独自の山男像が描き出されていて、民話風でもあります。『遠野物語』との比較の論及があるようです。

なお、『雨ニモマケズ』のデクノボウと山男が重なります。



初出『イーハトーヴ童話 注文の多い料理店』大正13年12月1日
諸侯の執筆は大正11年4月7日
なお、若干の欠落を含む初期型草稿が現存



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18:36 : 宮沢賢治童話全集 06 なめとこ山のくま : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
『なめとこ山のくま』 宮沢賢治童話全集 6 より - 生きとし生けるものの永遠の和解
なめとこ山は、大きな山でした。そして一年の大半が霧や雲に包まれています。淵沢川はなめとこ山から流れ、中山街道を行くとなめとこ山の大空滝があります。

昔はその辺りにたくさんの熊がいたそうです。鉛の湯の入り口には、腹痛にも、傷にも効く、なめとこ山の熊の胆という昔からの看板もかかっています。



熊取りの名人、淵沢小十郎は、すがめの赤黒いごりごりとしたおやじで、大きな鉄砲を持ち、たくましい黄色の犬を連れて、なめとこ山やその周辺を、自分の座敷のように歩いていました。

小十郎は四十歳の夏、息子と妻を赤痢でなくし、現在は九十歳になる母親と孫たち五人で暮らしていました。



ところで、熊は小十郎を好いていましたが、さすがに銃を構えて撃たれるのはかないません。また熊もいろいろだから、小十郎に向かっていくものもおります。しかし小十郎は落ち着いてそれらの熊を撃ち殺しました。

小十郎も熊を憎くて殺すんじゃない、畑は無し、木は政府のもの、里で働きたくとも誰も相手にしてはくれない、仕方なしに生活のために猟師をしているのでした。

熊に生まれたのも因果なら、猟師の自分の存在も因果と、殺した熊を前にしてそう嘆くのでした。

小十郎は、熊の言葉さえわかるような気がしています。ある年の春、ばっかぃ沢近くの小屋のところで、月光を浴びながら、ひきざくらを見る熊の親子を見つけ胸を打たれ、何もせずに引き返したこともありました。



そんな小十郎が、街に熊の毛皮と胆を売りに行く時の惨めさと言ったらありません。町の荒物屋の主人は熊の毛皮を二枚二円で買い叩きにんまりとします。

荒物屋の主人のようなずるい奴は世の中が進歩すればひとりでに消えていくと、僕なる話者が登場して、荒物屋に、いいように扱われる小十郎を書かなければならなかったことが、しゃくにさわるとぼやいています。



ある年の夏、殺そうと思った熊と問答になります。熊は何が欲しくて俺を殺すと言いました。小十郎はいまさらながらそう問われると自分の罪深さにもう自分は死んでしまってもいいような気になります。

熊もいつ死んでもかまわないのだけれど、片付けたいことがあるから二年だけ待ってくれと言うので、小十郎は見逃しました。はたして二年後にその熊が彼の家の前で死んでいるのを見つけて、小十郎は思わず拝みました。



そして一月のある日とうとう小十郎は熊に殺されます。熊は小十郎におまえを殺すつもりはなかったととつぶやきます。小十郎も自分が死んだことを知り、今まで熊を殺してきたことを謝罪しました。

それから三日目の晩、すばるや、からすきの星が瞬く夜空を背景に、山の上の平らなところに小十郎の死骸が置かれ、その周りを黒い大きなものが集まって回々教徒(フイフイ教徒)の祈りのようにじっと雪にひれ伏したままじっと動きませんでした。

思いなしか小十郎の顔は冴え冴えとして、なにか笑っているようにも見えました、と物語は結ばれます。



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よだかの星』などにみられる、生きるための殺生というテーマがここにもみられます。しかしここでは天体世界での救済という形は取らず、天体は背景であることにとどまります。

また『よだかの星』のように救済法が登場者によって語られることはなく、皆に因果として、半ば受け入れられているところが特徴です。

これは『よだかの星』から、より現実的な救済を求めた結果なのではないでしょうか。小十郎と、なめとこ山の熊の間には、宿業を超えての、生きとしいけるものの永遠の和解であるとか、共存同悲の愛情のようなものを感じます。賢治の思考の、熟成がみられるのではないでしょうか。

最後、イスラム教の祈りを形容したような描写があり賢治の宗教遍歴の後とも取れます。



悪者として描かれる町の荒物屋は、のうのうと生きているのですが、物語途中、話者らしき人が登場して、荒物屋のような人物は淘汰されると言っていますが、批判はそれのみで弱いです。

もっとも賢治自身、それはこの物語において力点を置かない問題のようですね。ゆえに取ってつけたように話者に話させているのかもしれません。

ここにも賢治の熟成がみられるような気がします。



生前未発表
現存草稿の執筆は昭和2年頃



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