子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 5”回復、逃避、慰め”及び"結び"
まず、ここでトールキンは、芸術の諸分野で、幾世代にも継承されてきた歴史の一番後ろにいる我々の現状を、老いるという言葉を用いて考察しています。

老いとはずいぶん前から言われていたことですが、長い歴史の中で、もう何もかもやり尽くして、独創性を求めるにしろ、この上に、今更何も築けない、もしくは感じ取ることができないという思い込みのことであるとトールキンは定義します。トールキンは、この呪縛からの回復を望んでいます。

回復とは陳腐さや慣れからくるぼやけた視野を再び曇のない状態へと移行させることですが、彼はその一手段として、妖精物語を愛することをあげています。このような論をいくら講じても、老いからは抜け出せないどころか、余計に深みにはまるともいっています。トールキンはそのことを承知のうえで、なお書かずにおれないようです。



トールキンは、芸術の広範にわたって、これらのことを述べるために、空想という概念を用いて考察を重ねます。それも、ありきたりの第1世界、つまり現実世界からの空想に留まるのではなく、これまでこの本の各章を追ってきた方なら分かると思いますが、純粋に第2世界である空想世界を作り上げる「創造的」空想に話は及びます。

「創造的」空想とは、あえて言うなら、自分たちのことから、ものごとを切り離して見る空想のことであって、その対象が、たとえ単純なものであっても、すでに我々に専有されていると思いこまれていた事象が、実は、どこか不思議さを伴った、新鮮なものであるということを再発見させてくれるものです。

つまり「創造的」空想は、我々を老いから防いで、子どもらしさのうちにとどめてくれるのです。これが妖精物語を愛することの効能のひとつ、回復です。



続いて、妖精物語を愛することの効能である逃避、慰めについての言及が続きます。

まず、逃避について考察されます。まずは、妖精物語が、誤った意味で、逃避文学の一つとしてみなされていることへの弁護に始まります。トールキンは妖精物語の持つ逃避の機能を認めているのですが、昨今の軽蔑の意を込めて逃避という言葉が用いられているのを、断固受け入れがたいものとしています。

逃避文学の必要条件を十分に満たしている、科学小説に与するサイドからさえ非難されてしまう始末なのです。

そもそも我々は実生活において逃避を実用性の高いものとして堂々と用いているのです。トールキンは妖精物語の作者や読者が、何も恥じ入ることはないと述べています。少し考えただけで分かることなのに誤解が生じてしまっているのです。

トールキンは、人々が逃避を軽蔑する訳を、「囚人の逃避」と「脱獄者の逃避」を混同しているからであると述べています。人が、何の罪もないのに、牢獄の中にいることに気づき、脱獄して家に帰ろうと試みたからといって、どうしてその人が軽蔑されなければならないのか? これは英雄的行動であり、積極的な逃走でさえあるとも述べています。

世の中では誤解を招いていますが、これら逃避による開放を、妖精ものがたりを愛することの効能の一つにあげています。



次に、慰めについて考察されます。慰めの問題は逃避の問題と関わりがあるとした上で、妖精物語の与える慰めには逃避による開放以外の側面もあるとトールキンは指摘しています。それはあの「幸せな大詰め」(ハッピー・エンディング)です。「悲劇」が「劇」の真の姿でありその最高の機能であるとするなら、「妖精物語」についてはその反対側の極を真とするとトールキンは述べています。

そこに悲しみや失敗の存在は認めていますが最終的な敗北を断固拒否します。これを例えて、キリスト教の福音のようなものともいっています。

そしてその効果について最後に引用しておきましょう。

物語のなかで突然「大詰め」がやってくると、喜びと心からの願望がつきあげてくるのを感じ、我々はしばしば物語の枠外に連れだされる。そこで物語の網の目がひきさかれ、そこから一筋の光がさしてくる。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”回復、逃避、慰め” p-140 l-09

この事態はなんと解したらいいのでしょうか。物語が人のなかで起こす真の現実への生成、つまり、個々の読者自身の本来あるべき多様性を含んだ現実への気づきのことなのではないでしょうか。妖精物語は、それらの役割をしっかりと果たしてくれます。

これら創造物は、頭や心の中だけで完結させて悦に入るようなものではなく、あくまで、個人の現実に生成させてこそのものだと問いかけられているようにも思いました。

これらの慰めも、トールキンは、妖精ものがたりを愛することの効能の一つにあげています。



これで『妖精物語とは何か』の読解を終わります。難解で、まだまだ触れられずにいた部分もたくさんあります。現時点ではここまでです。大変有意義な読書でした。


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20:38 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 4”空想”
キリスト教圏での考え方に由来するのでしょうが、トールキンは、この論文でかねてから、、神という存在の創造行為に対して、人間だけが神から授かった力、帰納や抽象の能力の行使の結果としての妖精物語の創作を準創造としています。

そして妖精物語を成功にいたらしめている能力を指して、一般的な想像という言葉を用いず、限定的に用いた場合の言葉で”空想(ファンタジー)”という言葉をあてています。非現実性の概念であり、目で見ることのできる事実をのさばらせない自由な概念であるとも述べています。想像という言葉では、イメージが現実を引きずってしまうのです。

そして空想的なものとは、現実には根を持たないイメージで出来ているのですが、実現可能であるなら、下等な芸術形式などと軽蔑的語調で語られるようなものなのではなく、高等な芸術形式であり、もっとも純粋で強力なものとなると述べています。



次に、みなさんおなじみの、ファンタジーが嫌悪される理由が述べられます。それをトールキンは援護するのですが引用してみましょう。

もちろん「空想」は、まずその出発点において、ふしぎさをとらえるという利点をもっている。しかし、この利点がかえって仇となり、「空想」の不評判をかってきたのだった。人々の多くは、「とらえられる」ことを好まない。人々は「第一世界(現実世界)」をかきまわされることは、何によらず好まないのである。なじんでいるのは、この世界のほんの一部分でしかないのに、人びとはそれを己が世界の全てだと思っている。そこで愚かにも、また敵意さえ抱いて「空想」と「夢」とをわざと混同するのだが、「夢」には技巧(アート)はいらない。また人々は、これと同様、「空想」を幻想や幻覚などの精神異常とも混同するが、それらのなかには、技巧(アート)どころか抑制力さえないのである。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”空想” p-100 l-15

そして公平を期するために、ファンタジーの弱点をも披露しています。それは、ファンタジーが完成の域に達するのが極めて困難だということなのですが、私もうすうす感じていたことです。要するにやっぱりダメじゃないかという作品に出くわす可能性が高いということなのでしょう。

創作の実際を言うならば、現実世界の素材のイメージを、さらに再構成して第2の世界のイメージを創りだして、言葉に定着させなければならないのですが、その結果が現実世界とかけ離れてしまえばしまうほど表現が困難になります。

よってこの種の真実らしさを出す手法として、分かりやすい素材を使うことをあげていますが、しばしば未発達に終わるとも述べています。

要は、このファンタジーという表現形式は人間の叡智を総動員して考えを尽くさねば成立は困難であり、それを実行する者は少ないのです。しかし完成の域に達することができたなら、何ににも代えがたい物語芸術になるということをトールキンはいっています。



以下、トールキンは、空想は言語芸術である文学に任せるのが一番として、トールキンが文学の一分野とみなされているけれど、本来文学ではなく、ファンタジー(空想)とは反対のものとして、その親和性をも拒絶する、劇についてのやや辛辣な論考が続きます。つまり、空想的芸術は人間が粉飾すべきものではないということを警告しています。興味がある方は読んでみてください。

演劇の話をしている最中も、空想についての考察はなお続きます。さらに、それらの論考は、劇をも離れて、さらに遠くを目指してゆきます。そして、それらの論考をも通してトールキンは、空想について次のように結論付けます。

空想は人間の自然な活動である。それが「理性」を破壊するものではないことは確かだし、軽蔑するものでさえない。そしてまた、科学的真実への渇望を鈍らせることもないし、それに対する認識を曖昧にすることもありえない。事実はその逆なのである。理解が鋭く、明快であればあるほど、よい空想が生まれる。もし人間が、真理を(事実、あるいは実証を)知りたいとは思わず、また、それを認識できない状態にあるとしたら、そのような状態がいやされないかぎり、「空想」は衰えるだろう。人がもしそのような状態におちいるなら(これは全くありえないことではない)空想は絶えてなくなり、「病的な妄想」と成り果てるだろう。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”空想” p-113 l-07



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18:51 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 3”子どもたち”
この章はトールキンがあげている妖精物語を語る上で、重要な三つの問題のうちの三つ目で、最重要事項としています。それは妖精物語の現代における価値と役割の問題です。



妖精物語(ファンタジー)の適性年齢を、一般では、6〜60歳の子どもとしているとの馬鹿げた冗談が、巷に大真面目な話としてまかり通っていることへの批判など、ファンタジーをごくありふれた普通のものとして、差別的に特別視しない者たちへの、胸のすくような始まりとなっています。

そして、子供の体の成長と牛乳の関係のように、妖精物語は、子どもの心と関連付けられていますが、そもそも、子どもと妖精物語の間には本質的なかかわり合いがあるのだろうか? なぜ、妖精物語を大人が読むことははばかられるのか? とのトールキンの語りかけが続きます。

それにトールキン自身は、こう答えています。歴史的に見ると教育の行き渡った近代世界では、もはや妖精物語は時代遅れになってしまい、それらは大人の成熟した芸術から切り離されたと同時に、子どもに払い下げになってしまったのだと…。そして子どもには、それらを受け取るか否かの選択権はない状況が指摘されます。



この経過を、つまり妖精物語のたどった運命を、トールキンが考察しているので簡単に述べておきます。

トールキンは、普通の人が、現代で、これらの妖精物語を読む場合、つまり現実ではなく空想の世界に浸る場合、その世界への不信を故意に取り除く努力が必要となってしまったことをまずあげています。

さらに、世の大人は、子どもという存在をある感傷から特別視して、実際の子供のことは意にも返さず、子どもは、このような努力をせずに済んでいるという誤った思い込みを指摘します。

つまり、トールキンは、世の大人が、子どもについて、信じる力を未だ鈍化させておらず、驚異に対してみずみずしい渇望を抱いているなどと本気で考えるようになったことを言いたいのです。

以上の経過から、こうして現代では大人が必要としなくなった妖精物語は、子供のものとなったとトールキンは結論づけています。子どもはまだ経験的に未熟かもしれませんが、人類のごく普通の構成員だというのに...。

そして実際には、現代で妖精文学を好むのは、この種の努力を必要としない、あるいはそのことを厭わない、ある種の子どもとある種の大人だけなのだとトールキンは強調します。



そして妖精物語は、役割として、実際にあったことや、起こることを本質とするのではなく、願望という現代人に特有のものを問題とするものであるとことわった上で、最後にこう結んでいます。

もし妖精物語が文学に一種として読むに値するものならば、それは大人のために書かれ、大人に読まれてしかるべきものであるはずである。そのなかに、大人は子どもよりも、もっと多くのものをこめるであろうし、したがってより多くのものをそこから得ることができるだろう。そうなれば、子どもたちは、本物の芸術の一領域としての妖精物語を、自分たちが読むにふさわしいものとして手にすることができ、自分たちの力量に応じてそれを理解する、ということになるのである。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”子どもたち” p-093 l-03

本来、これら妖精物語は、時代の流れで大人の成熟した芸術から切り離されるべきものではなかったとのことでしょう。その価値を見誤ってしまったのかもしれません。


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18:30 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 2”起源”
トールキンは妖精物語を語る上で避けられない問題を三つあげています。ひとつ目は先に述べた妖精物語の定義です。

そして彼は、このような物語を成り立たせているのは、人間の抱くどのような興味なのかということを知り、それらの物語を比較することによって、妖精物語の起源とは何かという第二の疑問に自然と導かれるのです。

そしてそれは、妖精物語だけではなく、神話や民話なども含む、物語全般の起源に考えは及びます。

ただしトールキンは、自身の興味を、個々の物語に繰り返し現れる類似性などに焦点を当てる民俗学者や人類学者などのそれと、隔てて考えているようです。彼らには物語の色彩が見えておらず、分類不可能なものを分類しようとしているとして、彼らの考えから自身の考えを差別化しています。

しかし、起源の話は、言語や精神の起源を訪ねて行くことと同義とし、トールキン自身、その力量の足りなさを告白し、また同時に彼にとっては関心が薄いものとして、あまり深くは掘り下げられません。



帰納と抽象という能力を与えられている人間は、空想という力をもって、見えないものをも具象化できる存在です。ゆえに言語や精神と同時発生的に人間は、自身の内だけでなく外にある世界で、その空想という力を振るおうとして、物語というものが存在しているのであろうとトールキンは考えているようです。

同時発生的ということは、起源という、何が先で何が後であるということには、それゆえに関心が薄いのでしょう。

そして、我々は、目の前に置かれたスープで満足すべきであり、スープのだしをとった牛の骨を見たいと望んではならない。という言葉で自身の考えを例えています。

つまり起源である牛の骨のことについては、追求するつもりは無いのです。



トールキンは物語群のことをスープに例えています。

牛の骨とは、歴史上の人物、例えば実在していたかは疑問に思われていますがアーサー王であったり、あるいは全く別に、過去に人類がもうけた禁制などがそれにあたります。

スープの大鍋の中には、数多の材料が今日まで放りこまれてきました。そして料理人である語り手が本能的か意識的にか、保存に値するかどうかによって、つまり現代において語り手が文学的意義を感じ、保存に値するかどうかによって、それらが、後世にまで残るかどうかが定まるのだと考えているようです。

ビアトリクス・ポターの”ピーターラビット”の物語の中においてでさえ、語り手の取捨選択による道徳的な禁制が存在し働いているのです。


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19:02 : ■ 『妖精物語とは何か』 : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 1”妖精物語”
トールキンの妖精物語(ファンタジー)に関するまとまった論文です。これに関しては、きじにしようと思うと、どうやら長文になりそうなので、章ごとに分けてブログにあげてゆこうと思います。また、わたしにとっては難解な論文なので、記事の中身は、現時点で言及できるところまでに留まるでしょう。よって、本が示す本来の内容からは、かけ離れてしまうかもしれません。

この論文に興味をもったのは、ファンタジーをごくありふれた読物として読む者が、そのことを公言しようものならはばかられる、どこか後ろめたい気持ちのためでした。ひところに比べればましになりましたが、ファンタジーの世界に踏み入ることを逃避とみなして軽蔑する、風潮は誤りを含んでいると思います。世間の考えに流されないために心の拠り所がほしかったのです。



では…、

トールキンはまず、妖精物語の定義を試みようとします。これらの一般的な定義は、彼にとっては狭すぎるか広すぎるかして、どこかとらえどころがないものとして受け入れられません。

妖精物語自体が、こういった判断をきらい判断しようとするものに扉を閉ざしてしまうのですが、この妖精物語を定義することは、はからずも、妖精物語を語りたいと思っているものにとっては、避けては通れない道だとトールキンは述べています。



トールキンはさしあたり、妖精物語とは、諷刺、冒険、道徳、空想など、その主な目的は何であれ、妖精の国に触れ、それを扱う物語である、と定義しています。

そして、妖精物語に出てくる妖精の国がもたらす力を、トールキンは魔法という言葉でくくっています。そして、今述べた通り、トールキンは物語の中の風刺を否定するものではありませんが、この魔法に関しては、唯一、諷してはならないものとしてとらえています。

妖精の国の魔法は、人間の持つ根源的な願望のいくつかを満足させてくれます。そして、その働きの成功の度合いに応じて、それが真の妖精物語(ファンタジー)であるかが分かる、とトールキンは考えているようです。

まずトールキンは、妖精物語の定義に入る手始めに、この論文執筆当時に手に入る妖精物語集を持ちだし、改めて取り上げられている範囲の広さを確認し、そこから消去法で除外すべきものを消して範囲を狭めようとします。



そして彼が、まず妖精物語集から除外されるべきものとしてとりあげたものは”旅行物語”です。言わずと知れた『ガリバー旅行記』などがこれに当たります。

”旅行物語”において諷刺が働いているのはいいとして、旅行物語の部類のものを表現手段としてしまっていることを、トールキンは問題視しているようです。この種の物語は、多くの驚異的な出来ごとを報告しますが、種明かしをしてしまえば、実際は人間世界のどこかしらにあるものを描いているだけで、旅行という距離が、それを隔てて隠しているに過ぎないとトールキンは述べています。

人間の根源的な願望である、時間、空間の深みを探りたいという欲求は結構なのですが、それらは妖精の国の出来事、つまりファンタジーではないとのことです。



次にトールキンが妖精物語集から除外しようとするものは、”夢”を用いた物語です。全体を夢の中の出来事でしたと結ばれる物語を、歪んだ額縁に入れられた良い絵に例えています。

夢は妖精の国と深く関わったものですが、それを夢に過ぎないと断じられたら、それはもはや妖精物語とは違うとトールキンは考えているようです。

人間の根源的願望の一つに、心の中で想像した脅威を実現したいという願望があって、それを人間の夢に出てくる事柄に過ぎないと断じてはならず、トールキンは、全く別個の、純粋に妖精側の事柄だと考えているようです。

妖精物語は驚異を扱うもので、驚異的な出来事が起こります。その物語がこしらえごとであったり幻影であったりすることを暗示する仕組みをトールキンは嫌います。そういった意味で、夢の中の物語であるルイス・キャロルのアリスの物語は妖精物語から除外されます。



次に除外されるべきものとして純粋な”動物寓話”があげられます。

人間の根源的な願望の一つとして、他の生き物と心を通わせたいというものがあります。ならば動物寓話も妖精物語に入れてもいいのではないかと思われますが、動物寓話は別の進化をとげて、もはや動物の皮をかぶった人間の物語になってしまっているとトールキンは述べています。それを彼は風刺家やお説教屋の発明と断じています。



こうして除外されたものは、妖精物語の近くに有りはするものの、トールキンの考えでは妖精物語ではない別のものとして判断されています。


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