『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 5”回復、逃避、慰め”及び"結び"
2016.10.16 Sunday
まず、ここでトールキンは、芸術の諸分野で、幾世代にも継承されてきた歴史の一番後ろにいる我々の現状を、老いるという言葉を用いて考察しています。
老いとはずいぶん前から言われていたことですが、長い歴史の中で、もう何もかもやり尽くして、独創性を求めるにしろ、この上に、今更何も築けない、もしくは感じ取ることができないという思い込みのことであるとトールキンは定義します。トールキンは、この呪縛からの回復を望んでいます。
回復とは陳腐さや慣れからくるぼやけた視野を再び曇のない状態へと移行させることですが、彼はその一手段として、妖精物語を愛することをあげています。このような論をいくら講じても、老いからは抜け出せないどころか、余計に深みにはまるともいっています。トールキンはそのことを承知のうえで、なお書かずにおれないようです。
トールキンは、芸術の広範にわたって、これらのことを述べるために、空想という概念を用いて考察を重ねます。それも、ありきたりの第1世界、つまり現実世界からの空想に留まるのではなく、これまでこの本の各章を追ってきた方なら分かると思いますが、純粋に第2世界である空想世界を作り上げる「創造的」空想に話は及びます。
「創造的」空想とは、あえて言うなら、自分たちのことから、ものごとを切り離して見る空想のことであって、その対象が、たとえ単純なものであっても、すでに我々に専有されていると思いこまれていた事象が、実は、どこか不思議さを伴った、新鮮なものであるということを再発見させてくれるものです。
つまり「創造的」空想は、我々を老いから防いで、子どもらしさのうちにとどめてくれるのです。これが妖精物語を愛することの効能のひとつ、回復です。
続いて、妖精物語を愛することの効能である逃避、慰めについての言及が続きます。
まず、逃避について考察されます。まずは、妖精物語が、誤った意味で、逃避文学の一つとしてみなされていることへの弁護に始まります。トールキンは妖精物語の持つ逃避の機能を認めているのですが、昨今の軽蔑の意を込めて逃避という言葉が用いられているのを、断固受け入れがたいものとしています。
逃避文学の必要条件を十分に満たしている、科学小説に与するサイドからさえ非難されてしまう始末なのです。
そもそも我々は実生活において逃避を実用性の高いものとして堂々と用いているのです。トールキンは妖精物語の作者や読者が、何も恥じ入ることはないと述べています。少し考えただけで分かることなのに誤解が生じてしまっているのです。
トールキンは、人々が逃避を軽蔑する訳を、「囚人の逃避」と「脱獄者の逃避」を混同しているからであると述べています。人が、何の罪もないのに、牢獄の中にいることに気づき、脱獄して家に帰ろうと試みたからといって、どうしてその人が軽蔑されなければならないのか? これは英雄的行動であり、積極的な逃走でさえあるとも述べています。
世の中では誤解を招いていますが、これら逃避による開放を、妖精ものがたりを愛することの効能の一つにあげています。
次に、慰めについて考察されます。慰めの問題は逃避の問題と関わりがあるとした上で、妖精物語の与える慰めには逃避による開放以外の側面もあるとトールキンは指摘しています。それはあの「幸せな大詰め」(ハッピー・エンディング)です。「悲劇」が「劇」の真の姿でありその最高の機能であるとするなら、「妖精物語」についてはその反対側の極を真とするとトールキンは述べています。
そこに悲しみや失敗の存在は認めていますが最終的な敗北を断固拒否します。これを例えて、キリスト教の福音のようなものともいっています。
そしてその効果について最後に引用しておきましょう。
この事態はなんと解したらいいのでしょうか。物語が人のなかで起こす真の現実への生成、つまり、個々の読者自身の本来あるべき多様性を含んだ現実への気づきのことなのではないでしょうか。妖精物語は、それらの役割をしっかりと果たしてくれます。
これら創造物は、頭や心の中だけで完結させて悦に入るようなものではなく、あくまで、個人の現実に生成させてこそのものだと問いかけられているようにも思いました。
これらの慰めも、トールキンは、妖精ものがたりを愛することの効能の一つにあげています。
これで『妖精物語とは何か』の読解を終わります。難解で、まだまだ触れられずにいた部分もたくさんあります。現時点ではここまでです。大変有意義な読書でした。
老いとはずいぶん前から言われていたことですが、長い歴史の中で、もう何もかもやり尽くして、独創性を求めるにしろ、この上に、今更何も築けない、もしくは感じ取ることができないという思い込みのことであるとトールキンは定義します。トールキンは、この呪縛からの回復を望んでいます。
回復とは陳腐さや慣れからくるぼやけた視野を再び曇のない状態へと移行させることですが、彼はその一手段として、妖精物語を愛することをあげています。このような論をいくら講じても、老いからは抜け出せないどころか、余計に深みにはまるともいっています。トールキンはそのことを承知のうえで、なお書かずにおれないようです。
トールキンは、芸術の広範にわたって、これらのことを述べるために、空想という概念を用いて考察を重ねます。それも、ありきたりの第1世界、つまり現実世界からの空想に留まるのではなく、これまでこの本の各章を追ってきた方なら分かると思いますが、純粋に第2世界である空想世界を作り上げる「創造的」空想に話は及びます。
「創造的」空想とは、あえて言うなら、自分たちのことから、ものごとを切り離して見る空想のことであって、その対象が、たとえ単純なものであっても、すでに我々に専有されていると思いこまれていた事象が、実は、どこか不思議さを伴った、新鮮なものであるということを再発見させてくれるものです。
つまり「創造的」空想は、我々を老いから防いで、子どもらしさのうちにとどめてくれるのです。これが妖精物語を愛することの効能のひとつ、回復です。
続いて、妖精物語を愛することの効能である逃避、慰めについての言及が続きます。
まず、逃避について考察されます。まずは、妖精物語が、誤った意味で、逃避文学の一つとしてみなされていることへの弁護に始まります。トールキンは妖精物語の持つ逃避の機能を認めているのですが、昨今の軽蔑の意を込めて逃避という言葉が用いられているのを、断固受け入れがたいものとしています。
逃避文学の必要条件を十分に満たしている、科学小説に与するサイドからさえ非難されてしまう始末なのです。
そもそも我々は実生活において逃避を実用性の高いものとして堂々と用いているのです。トールキンは妖精物語の作者や読者が、何も恥じ入ることはないと述べています。少し考えただけで分かることなのに誤解が生じてしまっているのです。
トールキンは、人々が逃避を軽蔑する訳を、「囚人の逃避」と「脱獄者の逃避」を混同しているからであると述べています。人が、何の罪もないのに、牢獄の中にいることに気づき、脱獄して家に帰ろうと試みたからといって、どうしてその人が軽蔑されなければならないのか? これは英雄的行動であり、積極的な逃走でさえあるとも述べています。
世の中では誤解を招いていますが、これら逃避による開放を、妖精ものがたりを愛することの効能の一つにあげています。
次に、慰めについて考察されます。慰めの問題は逃避の問題と関わりがあるとした上で、妖精物語の与える慰めには逃避による開放以外の側面もあるとトールキンは指摘しています。それはあの「幸せな大詰め」(ハッピー・エンディング)です。「悲劇」が「劇」の真の姿でありその最高の機能であるとするなら、「妖精物語」についてはその反対側の極を真とするとトールキンは述べています。
そこに悲しみや失敗の存在は認めていますが最終的な敗北を断固拒否します。これを例えて、キリスト教の福音のようなものともいっています。
そしてその効果について最後に引用しておきましょう。
物語のなかで突然「大詰め」がやってくると、喜びと心からの願望がつきあげてくるのを感じ、我々はしばしば物語の枠外に連れだされる。そこで物語の網の目がひきさかれ、そこから一筋の光がさしてくる。
『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 ”回復、逃避、慰め” p-140 l-09
この事態はなんと解したらいいのでしょうか。物語が人のなかで起こす真の現実への生成、つまり、個々の読者自身の本来あるべき多様性を含んだ現実への気づきのことなのではないでしょうか。妖精物語は、それらの役割をしっかりと果たしてくれます。
これら創造物は、頭や心の中だけで完結させて悦に入るようなものではなく、あくまで、個人の現実に生成させてこそのものだと問いかけられているようにも思いました。
これらの慰めも、トールキンは、妖精ものがたりを愛することの効能の一つにあげています。
これで『妖精物語とは何か』の読解を終わります。難解で、まだまだ触れられずにいた部分もたくさんあります。現時点ではここまでです。大変有意義な読書でした。
JUGEMテーマ:外国文学