子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
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宮沢賢治童話全集 1 ツェねずみ リンク
月夜のけだもの』 宮沢賢治童話全集 1 より - 広大な作品世界序章
鳥箱先生とフウねずみ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 賢治の教育批判
ツェねずみ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 賢治のねずみに対するメタファー
クンねずみ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 表現は過剰を目指していくもの
ぶどう水』 宮沢賢治童話全集 1 より - 創作と鑑賞の間
十月の末』 宮沢賢治童話全集 1 より - 村童スケッチ
畑のへり』 宮沢賢治童話全集 1 より - 主観と客観の並立
おきなぐさ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 切ないけれど明るい物語
ひのきとひなげし』 宮沢賢治童話全集 1 より - 賢治の創作動機の一つと考えられるもの
まなづるとダァリヤ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 世の中に対する慈悲無き冷めた視点
林の底』 宮沢賢治童話全集 1 より - 賢治の昔話再話





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18:21 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『林の底』 宮沢賢治童話全集 1 より - 賢治の昔話再話
ユニークな設定です。一羽の年寄りのふくろうがわたしと称する人物に、昔話で高名の『とんびの染めもの屋』の話をするのです。もちろんこれは賢治の手が加わっているので賢治の再話と言っていいでしょう。面白い再話になっています。

さらに、昔話が再話される際の額縁といえる部分である、ふくろうとわたしの間で交わされる掛け合いがありますが、そこが物語をさらに面白くするパートとなっています。

昔話と賢治の再話を比べてみたりして楽しむといいかもしれません。昔話は、あらすじでよいならブログ記事にしてあります。また、この賢治の物語については青空文庫でも読めます。

賢治の志がにじみ出る作品もいいのですが、こういった特異な題材を扱った作品も面白いです。



作家の読書量とは、どれくらいなのでしょうか。今回の物語は日本の昔話を土台にしています。作家は、おそらくこうした土台をいくつも持っているのだと思います。

もっとも賢治の時代には、未だ日本の昔話が広範に語られていて、誰しも知っているお話だったのかもしれませんが。

その他にも、賢治の場合、詳しい出典はわからずとも、法華経を土台としたものが多数あることが予想されます。



生前未発表
初題は『とんびの染屋』
現存草稿の執筆は大正12年ころ



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18:14 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『まなづるとダァリヤ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 世の中に対する慈悲無き冷めた視点
畑の丘のいただきに、黄色のダァリヤの花が二本と、赤いダァリヤの花が一本ありました。赤いダァリヤの花は、花の女王になろうと思っていました。

赤いダァリヤの花は、黄色いダァリヤの花と上空を飛んでいくまなづるに、自分の花の色を自慢します。しかし彼らはどこか他所事です。まなづるは沼の辺りで慎ましく咲いている白いダァリヤには機嫌をうかがいます。

そんな折、赤いダァリヤはやがて容色が衰えて黒い斑点ができて、顔が黄色く尖った背の低い変な帽子を被った見知らぬ人に折られて、連れて行かれてしまいます。

黄色いダァリヤは、どこにいくのとしゃくりあげて叫ぶことしかできませんでした。何事もなかったように太陽は今日も登ります。



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赤いダァリアは、どこか前記事『ひのきとひなげし』のひなげしを思い出させます。生きる事の本質を見失って、余計なことに四苦八苦している存在として描かれています。

しかし、こう言ってしまえば身も蓋もありません。志が平凡なものにとっては、厳しすぎるような気がします。賢治の視点は冷たく感じられます。

まあ、ご多分にもれず、表現は過剰を目指すということなんでしょう。実際の賢治は優しい人でした。

それにしても赤いダァリヤの花はどこに連れて行かれてしまったのでしょう。そして、見知らぬ人の正体は明かされません。その他にも問うべきことが多数あります。



生前未発表
初題『連れて行かれたダァリヤ』
初稿の執筆は大正10年後半





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18:20 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ひのきとひなげし』 宮沢賢治童話全集 1 より - 創作動機の一つと考えられるもの
物語は、若いひのきとひなげしたちの会話で始められます。彼らはあまり仲が良くないようです。

どうやら、一度でいいからスターになりたいと、お互い牽制し合いながら争っている刹那的なひなげしたちを、忠告者としてひのきが、たしなめるような役割をになっているようです。



そこへ小さなかえるに化けた悪魔が、これまた、美容術で美しくなったという、ばら娘に化けた弟子と共に登場し、美容術師の先生にお礼を言いたいと、ひなげしたちに声をかけました。

かえるは架空の美容術師をでっち上げたのです。その話を聞いたひなげしたちは、騙されているとも知らず、自分もぜひ美容術師にかかりたいと思わされてしまい、ひなげしたちは美容術師の出張をかえるに依頼しました。



再度、医師に化けた悪魔が登場します。そして阿片を提供するなら美しくしてやるとひなげしたちに話を持ちかけます。これはひなげしたちをけしの実にしようという目論みでした。

医師が呪文でひなげしをけしの実にしようとしていたところ、間一髪で、ひのきが阻止し、悪魔は逃げていきます。ひなげしたちは助かりました。青いけし坊主のまま食われてしまえばひなげしたちに未来はなかったのです。そのことをひのきはひなげしたちにに説きました。



そしてひのきは、銘々が自分らしく決まった光りようをしていれば、それはそのままでスターなんだと説きました。しかしひなげしはそんな忠告には耳を貸さず、ひのきのおせっかいを恨み馬鹿にしました。

そしてあたりは日も暮れて本物の星が輝き出し物語は結ばれます。



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ひなげしたちの生きる世界は、競争社会を象徴していると言ってよいでしょう。それがひのきに扮した賢治によって諷されているのだと思います。最後のほうで、賢治らしい仏教的な価値観が吐露されます。少し説教調です。

そこでは、前記事の『おきなぐさ』の最後に曖昧であるけれど語られていた、変光星のモチーフがよりわかりやすく表現されているように思いました。

つまり、変光星のモチーフは、この物語で、銘々が自分らしく決まった光りようをしていればいいと語られるように、自分の周期で明るさをかえることの肯定を謳っていたのではないでしょうか。

またこれらの表現は賢治が何かを語ろうとするときに用いる、主観と客観の二つの視点の並立のうちの一つである、客観的視点として機能しています。

賢治の主観と客観の二つの視点の並立については『畑のへり』 宮沢賢治童話全集 1 より - 主観と客観の並立の記事で述べました。



このように、社会に対して賢治が強く主張する物語がありますが、賢治には、ある信念があってそうしているように思います。賢治の創作動機に触れるようなところがあるのではないでしょうか。

はっきりとは言えませんが、賢治は法華経から触発されたものの具現化を、童話の形で果たそうとしていたのではないかと思っています。

そんなことを思ってみると、賢治にとって世の中とは、真心から、よりよき世界に導くべきものであったことが予想されます。



生前未発表
初期形の執筆が大正10年ころ、手入れ改編された最終形の執筆が昭和6年から8年ころ



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20:22 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『おきなぐさ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 切ないけれど明るい物語
タイトルのおきなぐさとは地元の言葉で愛情を込めてうすしゅげと表現されます。実際、うすしゅげは、蟻にも山男にも愛されていました。とわたしによるお話の導入がなされます。

そしてこの物語は、わたしによる回想の形をとって語られます。それは小岩井農場の南、七つ森の西のいちばん西のはずれの西側に咲いた、二本のうすしゅげの物語となります。



空には、まばゆい白い雲が、変幻自在に東の空へ、小さなきれになって飛んでいきます。それを二本のうすしゅげが眺めていました。

二人のもとにひばりが現れ会話がなされます。うすしゅげはひばりのように空を飛びたいと語りました。ひばりは、もうじき嫌でも飛ぶことになるだろうと返事をします。



ふた月後、うすしゅげは銀毛の種子を宿し、ひばりの言ったとおり空を飛ぶこととなりました。うすしゅげは、ひばりに飛ぶのは嫌ですかと尋ねられると、なんともありません、僕達の仕事はもう済んだのだからと答えます。

そしてうすしゅげは、皆に感謝の言葉を残し、風に乗って飛んでいきました。それを追うかのように、ひばりが空を飛んでいきました。

しかしそれは、実際に銀毛が飛んでいった北の方角ではありませんでした。うすしゅげの魂は天に高く登ったため、ひばりはそれを追ったのです、とわたしによる追記がなされ、二つの小さな魂のその後のゆくえを変光星になぞらえ物語は閉じます。



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なんだか『よだかの星』の最後のシーンのように切ない終わり方をします。しかし、それは別の切なさです。

うすしゅげは自分の運命を全面的に肯定していて、この世になんの未練も残していません。よって、『よだかの星』に見られるような切実な願いなどは述べられません。

運命を感謝をもって受け入れ、その種子は、次の生命への明るい象徴のように描かれます。自分は役割を終え、あとは自然による淘汰が語られるのみです。



生前未発表
現存草稿は大正12年ころ





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18:35 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『畑のへり』 宮沢賢治童話全集 1 より - 主観と客観の並立
麻が刈られ、畑のヘリに目立つようになったとうもろこしを、一匹のかえるが遠眼鏡で観察し、カマジン国の兵隊と思い込みます。しかもその実ったとうもろこしを見て、幽霊を連れていると言いだしました。

その幽霊は70本も歯が付いているというのです。これはとうもろこしの粒のことでしょう。このかえるの未知のものに対する新鮮な観察は続きます。



そんなかえるを、去年すでに少しだけとうもろこしを知った、もう一匹のかえるがたしなめます。あれは幽霊などではなくとうもろこしの実というもので、緑色のマントを着ているなどと説明を加えました。

しかしはじめのかえるは、その説明を聞いて、さらに驚きました。ドレスを下から上に着ているように見えたからです。



そこへ村の女の子が現れ、とうもろこしをもいで口にしたかと思うと空へ吹きました。かえるの目には、それが燃え上がる青白い火とうつりました。

女の子は歌いながら畑を去ろうとしますが、それを聞いたかえるたちは自分らより歌が下手だと評します。

そしてじぶんらの歌を女の子に聞かせようとしました。「ぎゅっく、ぎゅっく」 しかし女の子には聞こえないようです。去ってしまいました、と物語は結ばれます。



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この、秋の田園の賢治による心象スケッチは、読者の心に色々な感情を誘発します。哀愁であるとか、郷愁であるとか、はたまたユーモアであるとか…。まだまだたくさんあるでしょう。

これらの心象が我々の心に説得力を持って定着するのは、賢治のとある表現法によるものと思われます。



かえるが二匹登場していていますが、これは賢治の持つ二つの観察眼の方向性を示しているのではないでしょうか。

ひとつは、いつまでも老いることのない、物事を始めてみたような新鮮なもので、たいへんイマジネーションが豊かで主観的なものです。もうひとつは、手法的には科学のそれとさえ言えるような、冷静で客観的なものです。

賢治はなにか説明しようとするとき、いつもこの二つの方向から物事を述べようとしているように思えます。



これは賢治の作品世界での表現法の特徴なのではないでしょうか。主観と客観、どちらが優先されることなく混じるのです。一番印象に残っている表現は『春と修羅』でのそれです。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

わたしという主観的な現象を、科学的な客観で説明しています。

賢治にとって主観と客観は、どちらも自身の心の中では並立させるべきものであって、どちらにも流されるようなことのない境地を目指しているように見えるのです。

つまり、感傷に流されることなく、さりとて、自分という存在をこの世界から排除してしまわないような、世界観の構築を目指しているように思えるのです。



生前未発表
大正11年までの清書
三度の手入れ



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18:23 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『十月の末』 宮沢賢治童話全集 1 より - 村童スケッチ
方言が多用されているので、細部には立ち入れませんでした。ただし方言の多用は、かえっていきいきとした表現につながっていて、感覚的には十二分に伝わるものがあります。

冬支度に入る前の忙しい農村を背景に、裕福でもなく貧乏でもないらしい普通の農家の、嘉ッコ(かっこ)という名の幼い女の子が、祖父母、父母、兄、友人家族などに囲まれて過ごすいち日が淡々と描き出されていきます。



目を引くのは、いきいきとした自然の描写であり、それはリアルなこともあれば、民話的なモチーフを伴って、幻想的に描き出されることもあります。

それと、なんと言っても、嘉ッコを中心にかわされる、ユーモアのある会話が挙げられるでしょうか。これらの会話には、外国人さえ加わります。



草稿の表紙には村童スケッチとあり、まさに物語の内容通りなのですが、私がこれまで読んだものの中で、同じようなものを探すと、ブログ記事にはしていませんが、アストリッド・リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』がこれに当たるように思いました。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正10年か11年



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18:31 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ぶどう水』 宮沢賢治童話全集 1 より - 創作と鑑賞の間
主人公の耕平は、畑の手が空いたので野ぶどうを取りに出かけます。兵隊の服を着て夢中になって取りました。

家に帰ると、もうすでに夜でしたが、おかみさんと二人で、木鉢の中へぶどうの実をむしります。耕平の子は、ぶどうのふさを振り回して遊んでいました。

ぶどうをむしった日から三日が経ち、ぶどうの果汁を夫婦揃って絞り出します。そして今年は、この果汁に砂糖を入れ密造酒を作ることにしました。

全部で瓶にして、二十本ほどのぶどう酒のもとであるぶどう水ができました。税務署に見つかれば罰金が取られます。しかし貧しい生活の、せめてもの足しになればとのことです。背に腹は変えられません。

あれから六日の日が流れました。耕平とおかみさんは、家の前で豆をたいておりました。そこにどこぞで爆発の音が聞こえてきます。

遠くの山が噴火しているのかと思いきや、それは耕平の家から聞こえてくるようです。耕平は、はたと思い直し、ぶどう酒が音を立てていることに気づきます。

確かめてみると二十本ほどのぶどう酒の瓶は、大方はじけていました。耕平の目論見は失敗に終わります。彼は怒って全ての瓶を板の間に投げつけて割ってしまいます。

耕平は、これで元々と開き直ろうとしましたができませんでした。参ってしまったのです、と物語は結ばれます。



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わずかなぶどう水を作り売る、農村の貧しさを背景に、欲をかいて密造酒製造に手を出し、失敗した男のお話がユーモアを交えて語られます。読解は何層にも行うことができて、ここで行うことは、その一つに過ぎません。

密造酒製造に関して、罪なことには変わりませんが、許されて然るべきようなことでしょう。しかし、その僅かな罪でさえ許さなかった、自然の摂理の理不尽さが描かれているように思いました。

しかし、結果とは裏腹に、ある豊かさが読者の心を満たします。それは、にわかに言葉にはできませんが、思い通りにならない現実に対する、我々が持つ共通認識の確認のようなものでしょうか。

さらに言うならば、賢治が焦点を当てようとしているのは、些細な罪の影にある、金銭的な貧しさにかこつけた、心の貧しさという悪なのではないでしょうか。それに気づいて主人公は開き直ることなく受け入れています。



賢治の作品を読み進めると、その心の貧しさは、作品中でいつの間にか、貧しさを埋めてあまりあるほどの豊かな心に取って代えられます。

そしておそらく、賢治自身も創作過程で同じようなことを経験しているはずです。うまく説明できませんが、人を励ますことは、自身を励ますことになるのと、同じようなことなのでしょう。

創作と鑑賞の間にある距離は意外と短いのかも痴れません。なにも賢治に限ることではないのですが、このあたりには、創作と鑑賞に関する秘密がありそうです。



またこの作品で注目すべきは、童話中に童謡が用いられ、それが背景で聞こえてくるような仕掛けがしてあります。賢治は『月夜のけだもの』の月光といい、背景を効果的に用います。



生前未発表
原稿は二種類存在し、初期形態は大正10年か11年のもの。後期のものは12年のものか。両者には構成上大きな差はなく、主人公の名が他作品と同一なため変えられる程度。また、章の区切りに数字が使われます。その他は、漢字をかなにしたところが目立ち、出版を意識していたものとも取れます。





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18:24 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『クンねずみ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 表現は過剰を目指していくもの
『鳥箱先生とフウねずみ』に始まり、この作品文中にはツェねずみの最期が語られているので、『ツェねずみ』に続く、ねずみ三部作の最終話と考えられます。



嫉妬心の強いクンねずみは、他人の知識を妬み、相手が少しでも自分より優れていると思うと、咳払いをして相手を脅すのを習慣にしていました。

彼は、慢心とそねみの権化です。常識人からしたら、かなりの馬鹿者に映ります。案の定、ねずみ仲間には呆れられて、ねずみの県会議員の前でもそれやったものだから、暗殺されることになりました。

殺される寸前、とある猫に子どもたちの家庭教師を頼まれ、いっとき救われますが、猫の前でも、その慢心とそねみを発揮したものだから、当然のことの成り行きとして、クンねずみは子猫たちに食われてしまいます。



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前記事の『ツェねずみ』で、宮沢賢治の嫌いな動物としてねずみを定義してみましたが、この物語を読んでもそれは感じられます。

それにしても、文体の面白みで和らげているものの、クンねずみが殺されてゆくさまを読んでいると、賢治自身の正義がにじみ出ているのはわかるのですが、表現はやや過剰で、逆に賢治自身の慢心を感じてしまうのですが、いかがなものでしょう。

まあ、もともと表現というものは、過剰を目指していくものです。こういう過剰な表現は、我々の身近にもありがちです。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正10年、あるいは11年
ちなみに、クンねずみの「ン」は「ン」の小文字ですが、キーボードにはこの文字がないので「ソ」の小文字を当てています





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18:18 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『ツェねずみ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 賢治のねずみに対するメタファー
主人公はある古い家に住み着いているツェという名のねずみです。



ツェねずみは、いたちが教えてくれた金平糖の在り処に行ってみると、既に特務曹長率いる蟻たちによって搾取されていました。ツェねずみは気分を害して、いたちに「まどってください(つぐなってください)」と賠償を要求します。

いたちは親切で教えてやったのに、逆に仇で返されたのに怒って、ツェねずみとは絶交しました。

こんな調子で、他人の親切に感謝することなく、結果が悪ければ賠償さえ要求するツェねずみは、友人を次々となくします。

おまけにツェねずみは、自己正当化も怠りません。「自分のような弱い人間を騙すなんてあんまりだ」とことあるごとに言っています。これは都合よく道徳を傘に着た言動でしょう。



とうとうツェねずみを相手にするものは、本来ねずみの敵であるはずの、ねずみ取りだけとなります。

本来、人間の見方であるはずのねずみ取りは、そのお粗末な構造上、仕事をなかなか果たさなかったので、人間に疎まれていました。

そこでねずみ取りはへそを曲げて、ねずみに味方していたのです。仕掛けられた餌だけ与えてツェねずみを逃がしてやっていました。



ところがある日、人間によって仕掛けられていた餌が腐っていたことに端を発して、ツェねずみとねずみ取りの喧嘩が始まります。

ツェねずみは、いつものように「自分のような弱い人間を騙すなんてあんまりだ」という欺瞞の混じった自己正当化と、それに対する「まどってください」との賠償の要求をねずみ取りに発し、彼を怒らせてしまいます。

そこで、ねずみ取りははからずも、本来の仕事を果たしてしまいます。檻の入り口の針金の扉を閉じてしまったのです。

一晩中檻の中で大騒ぎをしたツェねずみは、もう得意の「まどってください」と言う力もなくなり朝になると人間に捕まります。



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他人の親切を、結果から逆恨みする根性と、無知を諷した作品ですが、身も蓋もありません。表現があからさま過ぎます。ツェねずみの運命に関して、これでは仕方がないよねというような書かれ方がしてあります。

賢治は、どうもねずみが好きではなかったようです。『月夜のけだもの』の鶏を狙う狐なんかよりも、ねずみという動物を嫌悪していたようです。

そしてその悪としての描がかれ方には容赦がありません。他の動物にはある、どうしようもないことに対する、愛のこもった視点が欠けているように思いました。





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現在草稿の執筆は大正10年ころ





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18:27 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『鳥箱先生とフウねずみ』 宮沢賢治童話全集 1 より - 賢治の教育批判
自分の中に、とある上位の者によって、ひよどりを入れられた鳥箱は、そのひよどりに対する万能感から、いつしか自分のことを先生と思い込んでしまいます。

しかし上位の者の不手際から、次々に入れられるひよどりは四羽死んでしまいました。その死因は飢えや病気や寂しさや猫に襲われてのことです。

確かに鳥箱先生に非はありませんが、なんの根拠もないまま、自分がひよどりたちを、栄耀栄華を極めた安楽な一生に導いたと、その悲劇を目の当たりにしながらひとり合点して、鳥箱先生は自己を正当化しました。

しかし、猫にひよどりを襲われて、すっかり上位の者の信用をなくした鳥箱先生は、家の中から物置だなに移されてしまいます。そこで出会ったのがフウねずみでした。



鳥箱先生は、相変わらず自分のことを先生と思い込んでいて、フウねずみにいろいろと指導をしました。しかしフウねずみは先生の言うことを聞きません。そして自分のことを下位の者である、しらみやくもやけし粒などと比べて自己の正当化をします。

鳥箱先生とフウねずみの、たがのはずれた掛け合いが続き、とうとう最後に猫の大将が現れ、ふうねずみを捕らえると、先生もダメなら、生徒も悪い、先生はもっともらしい嘘ばかりをいい、生徒はけし粒以下だと捨て台詞を残します。



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上位のものと述べた存在は、人でもいいのですが、究極的には神様のような存在を想定しています。寓話なので、人間と重ねられる存在は、鳥箱先生とフウねずみが演じているからです。

ちなみに賢治は、ねずみという動物が嫌いなようです、他の作品でも、ねずみのキャラクターは、あまり共感できる存在としては描かれません。



賢治の反抗期は、かなり激しかったと、実弟の清六氏が語っています。実在の特務曹長の体操教師や、教頭の英語教師への批判は、大層なものだったようです。よってこの物語で語られる痛烈な教育批判も彼らとは無縁ではないでしょう。

お話の構成が単純なのは、幼年読者を意識したものなのでしょうが、語られることは大人にも向けられています。賢治の教育批判は、童話の処女作と思われる『蜘蛛となめくじと狸』から継承されています。



生前未発表
現存草稿の執筆は大正10年頃





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18:29 : 宮沢賢治童話全集 01 ツェねずみ : comments(0) : trackbacks(0) : チキチト :
『月夜のけだもの』 宮沢賢治童話全集 1 より - 広大な作品世界序章
始まりは登場者である動物たちが、皆、檻にいることから、どうやら動物園が、物語の舞台のようです。そこで、わたしと称する俯瞰者のような存在の視界が、突然、煙のように溶け出して、月光はおぼろとなり、いつの間にやらファンタジーの世界が出現します。

あたりは夜の野原となり、獅子と書かれた百獣の王としての属性を帯びたライオンが、夜の見回りに出ます。

他に登場する動物は、白くまに象にきつねにたぬきと、それぞれの動物は、動物寓話に出てくる動物らしく、特定の人間のキャラクターをなぞらえて描かれます。

お話は、昔話などで描かれるような、ステレオタイプな、ずる賢いきつねの裁きに関するものです。きつねは、鶏を盗む悪者として描かれます。

そのきつねを獅子が裁こうとするのですが、最終的にきつねは、彼の慈悲のもと開放され、そして、象の教育下に置かれることとなりました。わたしは獅子の裁きの断念を慈悲と考えました。

最後に夜明け前、獅子が葉巻をくゆらせ、沈みかけの月を眺めていると、ファンタジー世界は解けて、再び舞台は動物園に舞い戻り、物語は閉じます。



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獅子がきつねを哀れんで、慈悲を示したと考えたのは、賢治の思想が仏教者のそれに近いことに由来します。

慈悲というのは、仏教者にとって大切な命題であり、常に念頭にあるものでしょう。それゆえ獅子の怒りは慈悲によって鎮められたととらえてみたのです。もしこのとらえ方が的を得たものなら、この物語の展開は、仏教者、宮沢賢治の作品として象徴的なのではないでしょうか。

また、この物語の背景で、ずっと輝いているであろう月の光は、多くの仏教経典で、三昧と共に描かれる月の光の放射のように、獅子が慈悲に至るための大切な道具立てとして作用しているように思いました。



慈悲とは、本来、仏や菩薩が衆生に向ける、心ばえを意味する言葉でした。わかりやすい言葉に例えるなら、それは博愛に近いものです。

さて、この博愛というもの、よくよく考えると、我々が、普段交わしている愛とは別のものです。

人にとって愛するという行為は、ごく自然に発現します。しかし、それらを冷静にとらえるなら、そこには、愛し愛されるための束縛が、同時に生まれていることに気づきます。

しかし博愛には、そのような束縛はありません。ならば人が博愛を示す時とはどんな場合でしょうか。しかしそれはまれな出来事のように思われます。たとえば、人の親が、ときに、自分の子に示す愛情などがそれに当たるでしょうか。キリスト教圏では、無償の愛とも呼べるものがそれに近いものと思われます。



日本では、これらのあり方を示す人が時々現れます。これは日本で遠い昔に大乗仏教が広まり、誰でも菩薩となれる道が不可逆的に開かれてしまったからなのではないでしょうか。

それ以降、自覚的かは別として、それらのあり方に感化される日本人が、良くも悪くも跡を絶ちません。彼らはそれらのあり方を、いつしか自分の目指すべき徳目とまでしてしまいます。

賢治はおそらく、そんなあり方を選んだ日本人の代表です。そして、人としての自然な愛情と、慈悲あるいは博愛と呼べる道との間で、彼は色々と思ったのではないでしょうか。

賢治の根本思想は、法華経から由来する仏教者としてのものによるところが、確かに大きいです。しかし、このブログでは、賢治を何がしかのイデオロギーと結びつけて考えるのは、狭い理解にしかたどり着けないものと思っています。童話で示される彼の世界観はもっと広大です。



生前未発表
初稿の執筆は大正10年頃
5回の手入れがあり



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