子どもの本を読む試み いきがぽーんとさけた
<< December 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>



グリム童話(KHM031-060) リンク
グリム童話(KHM31) 『手を切られたむすめ』 信念を持つ者と持たない者
グリム童話(KHM32) 『ものわかりのいいハンス』 ハンスにくくられるキャラクターの謎
グリム童話(KHM33) 『三種のことば』 人間のとある根源的な欲求を叶える者
グリム童話(KHM34) 『かしこいエルゼ』 ハンスの物語の女性主人公版
グリム童話(KHM36) 『テーブルよ食事のしたく、金ひりろば、こんぼうよ袋からとびだせ
グリム童話(KHM37) 『おやゆびこぞう』 異界の者のとぼけた冒険
グリム童話(KHM39) 『こびとと靴屋』 現実に紛れ込む異界からの使者
グリム童話(KHM40) 『盗賊の婿どの』 語り継がれる知恵としての女性的直感

グリム童話(KHM41) 『コルベスさん』 おそらく存在するであろう物語の隠喩
グリム童話(KHM42) 『名づけ親どの』 続きを予感させる未完成な物語
グリム童話(KHM44) 『名付け親になった死に神』 ”続・名付け親どの”
グリム童話(KHM45) 『おやゆびこぞうの旅修行』 仕立て屋のキャラクター属性
グリム童話(KHM46) 『フィッチャーの鳥』 悪が人を試す時
グリム童話(KHM47) 『ねずの木』 再生の物語
グリム童話(KHM48) 『老犬ズルタン』 身近で人間的な動物たち
グリム童話(KHM49) 『六羽の白鳥』 グリム童話に多く採録されるAT-451の物語
グリム童話(KHM50) 『いばら姫』 我々にも訪れるかもしれない比喩としての失われた百年

グリム童話(KHM51) 『みつけ鳥』 変身できる主人公、逃走の物語
グリム童話(KHM52) 『つぐみひげの王さま』 変わらないものはない
グリム童話(KHM53) 『白雪姫』 真実の鏡という、とある恣意的な視点を映し出すもの
グリム童話(KHM54) 『はいのうと、ぼうしと、角笛』 幸運を得ようとして手にいれる力
グリム童話(KHM55) 『ルンペルシュティルツヒェン』 お人好しの小人
グリム童話(KHM57) 『黄金の鳥』 正直さと賢さ、幸せを得るための不可分の条件
グリム童話(KHM59) 『フリーダーとカーターリースヒェン』 コミュニケーションの不能
グリム童話(KHM60) 『ふたり兄弟』 楽しい冒険譚


JUGEMテーマ:グリム童話


19:00 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM60) 『ふたり兄弟』 楽しい冒険譚
この物語は、他のグリム童話のお話しに比べると、だいぶ長いです。また民話、昔話などにおける様々なモチーフが寄せ集まっているような印象を持ちました。

民話、昔話などに、精通した人が読むならば、多くの注釈を加えることができるのでしょう。しかし、わたしのような一般人が読む場合は、その由来について調べるにはたいそう骨の折れる作業となりそうです。よって、この物語の、ふたりの兄弟の生い立ち、そして修行時代、そして世間での活躍を、素直に楽しむに留めました。



わたしが、一番、心に残ったのは、物語の中盤と終盤で、主人公が、命を落としてしまった時に登場する、どんな病気でも傷でも直してしまう”命の根っこ”というアイテムでした。そのアイテムを使うことによって、何事もなく主人公は生き返るのです。

その際、これを、あからさまなご都合主義にとられないように、ユーモアを交えて、やり過ごしてあるのですが、そこがなんとも言えず味わいがあります。

また、時々挟まれる語呂遊びなど、情景を思い浮かべたりすると楽しい物語です。


JUGEMテーマ:グリム童話




20:24 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM59) 『フリーダーとカーターリースヒェン』 コミュニケーションの不能
このお話は、(KHM32)『ものわかりのいいハンス』や、(KHM34)『かしこいエルゼ』と同じことを語る、別バージョンのお話しとすることができるでしょう。特に『かしこいエルゼ』とは、物語のパーツさえ、同じものが用いられていたりします。

これらの物語は当たり前のことが理解できない相手に対した時、どういうことが起こるか、というお話であると思います。そして、ごく、普通の日常に、コミュニケーションが成り立たない世界が展開します。



これら主人公たちのキャラクターをざっと述べるのなら、彼らは、言われたことしかしません、自分の頭で考え行動することができません。できたとしても、トンチンカン。また、彼らは、言葉を、その場の文脈でとらえることができず、額面通りの意味でしか汲み取れません。

主人公が、幼児であるとか、高齢のお年寄りであるとか、明らかにそれにふさわしい状況なら、微笑ましいお話となります。

しかし、『かしこいエルゼ』や、このお話では、彼らが、結婚をしたばかりの若い奥さんであり、それも、極、普通の日常のことだというのだから、お話しの様相はガラッと変わります。

よって、率直に感じられるのは、贔屓目にみても、賢いとか愚かという切り口で展開される、お話ではなくて、それとは次元の異なるなにかが物語られているように思います。そう、主人公たちに、狂気を感じるのです。



これらの、主人公に狂気が感じられる、一群の物語を、どうとらえるべきなのでしょうか。子どもには、笑い話として、うけそうなお話ですよね。しかしこの物語は民話です。大人にも語り継がれる理由がほしいのです。

あるいは、現代という時代からは、狂気のようなものが感じられるだけで、常態で笑い話として大人にも機能していた時代があったのかも知れません。

または、口承の時代だったなら、これらのお話に見合った語られ方が存在していたりして、それに従うなら、笑い話となるのかも知れません。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:20 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM57) 『黄金の鳥』 正直さと賢さ、幸せを得るための不可分の条件
ある日、ある王国の宮殿の庭に現れた黄金の鳥を、三人の王子は捕らえようとしますが逃げられてしまいます。三人は、王さまに、それを捕らえるよう命令を受けて旅に出ます。

そこへ一匹の狐が現れて、王子たちを助けようと忠告を与えるのですが、上二人の兄は狐のいうことなど気にも掛けず、それどころか旅の途中で遊び呆けている始末。末の弟だけが狐のはなしを真面目に聞きます。

しかし彼は正直過ぎました。狐の、せっかくの忠告より、その場の人としての行動を優先させてしまい、失敗を繰り返します。狐の忠告は役に立ちません。しかし狐は辛抱強く末の弟を助けます。



なぜ狐は、そうまでして、弟を助けるのか。種明かしをしてしまうと、実は、狐は、とある王国の王子なのでした。魔法が掛けられていて狐の姿にさせられていたのです。

狐の王子は、自分に掛けられた魔法を解く方法を、熟知しています。これまでの狐としての長い生活の中で、機会がくるまで、事細かにあれこれと考えをめぐらしていたのでしょうか。自分では魔法を解くことができず、魔法を解くには他人の力が必要なようです。そこへ、三人の王子が現れたのです。

ところが、上二人の王子は話しになりません。しかし末の王子なら、辛抱強く導いていけば、自分に掛けられた魔法を解くことができると踏んで、狐の王子は、最後の望みを、彼に託したのでした。



設定が込み入っていて、全てを説明できませんが、狐の王子に掛けられている魔法を解くには、黄金の鳥を、三人の王子が住まう王国にもたらし、その後、狐である、自らを撃ち殺させ、自らの、首と前足をはねさせてしまわなければならないようです。

ここに至るまで、末の弟は様々な失敗をしてしまうのですが、それが、この物語を形作っています。



狐はなんとか末の王子をコントロールし、自身の積年の願いであったろう目的を果たします。魔法が解けて、再び人間の姿を取り戻しました。

正直者の、末の弟も、狐の助けを借りて、正直者であるだけでは達成できない、大きな幸せを手にします。そして、行いの悪い二人の兄は処刑されるのでした。未子成功譚の物語の類型と考えていいでしょう。

末の王子の正直さと、狐の賢さ。幸せになるためには、この2つの条件が、単独ではなく、組み合わさっていなければならないのかも知れません。それはともかく、ここでも狐は、賢い存在として表されています。


JUGEMテーマ:グリム童話




22:16 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM55) 『ルンペルシュティルツヒェン』 お人好しの小人
トールキンの『ホビットの冒険』のゴクリを思わせるような小人が登場します。『ホビットの冒険』と同じように、謎かけの勝負を挑んできて、主人公に敗れてしまいます。その謎かけの問題とは、小人自身の名前を当てるというものです。小人の名前は、題名にもなっている、ルンペルシュティルツヒェンと言います。



主人公は、粉屋の美しい娘です。父親がたまたま王さまにあった時、見栄を張って、ついこんなことを口にしてしまいます。娘はわらを紡いで金にすることができると...。娘は、これにより、王さまに、いいように利用されることとなってしまいます。

王さまは、すぐに娘を城に呼びたてて、娘の父が言っていたことを、実行させようとします。できなければ殺されてしまいます。しかし、父親の言っていたことは、ハッタリですから、当然、娘は実行できません。娘は、困ってしまって泣きだしてしまいました。



それを助けてくれるのが小人です。しかし、小人は、仕事をする代わりに、物品を要求しました。そして、ものの見事に、娘がするはずだったことをやってのけ、わらは皆、金に変わってゆきます。

これには、王さまも喜んで、さらに、自らの欲をつのらせ、同じことを再び娘にさせるのでした。これもまた、物品を小人に差し出すことにより、仕事は、こなされていきます。王さまは、さらに、娘に仕事をさせ、もしこれが叶うなら、彼女を后にすることを決めました。

しかし、娘には、もう、小人に何もあげられるものがありませんでした。すると、小人は、将来、王さまとの間に生まれた子をよこすなら仕事をしようと提案してきます。娘は今を乗り切ることしか考えられず、それを約束してしまいます。小人は金を紡ぎます。娘は王さまと結婚しました。



一年たって娘には子どもができました。もう娘は小人との約束のことなど忘れています。そこへ、小人が、ひょっこりと現れて、約束の履行を迫ります。娘は泣き出してしまいました。

しかし、お人好しにも哀れに思った小人は、ある謎かけに答えられたら子供は取らないと約束します。それが、冒頭に述べた、小人の名前を言い当てる謎かけです。そして、娘には、この問題を解くのに、三日の猶予が与えられました。

娘は、いくら考えても、その謎が解けません。しかし、三日目に、偶然、使いの者が知った小人の名前を聞いて、謎掛けの答えを知ってしまいます。よって、娘は、謎かけの答えを小人に答えることができました。

謎かけ勝負に負けた時の、小人の様子がつづられるのですが、なんだか憎めません。小人は腹立ちまぎれの激情に、自分で自分の体を裂きいてしまうのでした。哀愁が漂います。



これまでも、グリム童話には、様々な小人が登場してきましたが、どれも興味深い存在です。





JUGEMテーマ:グリム童話




18:27 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM54) 『はいのうと、ぼうしと、角笛』 幸運を得ようとして手にいれる力
とある三人の兄弟が、貧しさのため、幸運を求めて森をさまよいます。すると不思議なことに、さまよえばさまようほど、価値の高い宝物に出くわします。

上ふたりの兄は、とりあえずの金品を手に入れて満足し、家に戻るのですが、末の弟は、野心家で、足ることを知らず、または欲をかき、次に見つかるものは、もっといいものであろうことを期待して、森をさまよい続け、ついには強大な力を手に入れます。そして、国王となるのでした。

末の弟の視点からは、末子成功譚と考えることもできますが、多くの読者は、彼を、失敗者と感じるのではないでしょうか。



末の弟がたどる一連の行程が、物語の骨子です。弟は兄たちと別れると、広げれば、豪勢な食事が並ぶ、不思議なテーブルクロスを偶然手に入れ、これを元手に、物々交換と称して、三人の炭焼きから、それぞれ、幸運を得るためのアイテムをだまし取っていきます。手段は選ばないようですね。そんな様子がユーモラスに描かれていきます。

ここで、三兄弟が幸運を得ようとして、森で見つけていくものは、実は、生活のためばかりではなく、力を得るがためのものであることが薄々わかってきます。兄たちが手に入れた金銀だって、貧しさをしのいでくれるだけのものではありません、見方を少し変えるなら、やはり力を得るがためのものです。兄たちと、一番末の弟の違いは、弟が、ある境を超えて、直接大きな力となりうるものを、手に入れたというだけのことでしょう。

そのアイテムが、表題になっている、はいのうと、ぼうしと、角笛です。後ろに並ぶものほど強い力を発揮します。



そして、この三つのアイテムを手に入れると、すべてのアイテムは手に入れたと物語では表現されています。そこで末の弟は、兄たちの様子が気になって会いにいくのでした。

しかし弟は、森の散策による、その汚れた格好から、兄たちに弟とは認知されず、乞食呼ばわりされます。まるで、兄弟であることなど、忘れ去られたかのようです。そこで、末の弟は、手に入れたアイテムから、兵隊を現し、兄たちを懲らしめるのでした。

この大騒ぎを聞いた国王は、末の弟に対して軍隊を送ります。しかし、末の弟は無敵です。王さまの軍隊を、いとも簡単に破ってしまうのでした。そして、国王を配下にしてしまいます。そして、さらに、力を傘に王女までも手に入れるのでした。



しかし、末の弟は、力によって幸運を得ることができたのでしょうか。力の行使とは、ある地点を境に、相手に対する暴力となりえます。誰が見ても、末の弟は、その境を超えてしまっているのがわかります。

兄たちとは袂を分かち、無理やりに、力で手に入れた王女には、嫌われ、裏切られ、最後は、自分が手に入れたアイテムで、殺してさえいます。これを幸運とは呼べないでしょう。

しかし、彼は、それに気づいているのでしょうが、改めようとはしません。ある意味愚か者です。彼には、もう、誰も逆らうことができなくなり、彼は王位を継ぐと、暴君としての道を歩んでいきます。

グリム童話では、時々こうした、アンチ・ヒーロー的な登場者が、主人公を張ります。



JUGEMテーマ:グリム童話




18:37 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM53) 『白雪姫』 真実の鏡という、とある恣意的な視点を映し出すもの
グリム童話の中では一番好きなお話しです。



白雪姫の美しさに、母親である女王が妬みの感情を持ち、幾度となく女王は、白雪姫を殺そうと画策します。そのたびに白雪姫は森の小人に助けられるのでした。しかし女王は、しつこく、あの手この手と、白雪姫を殺しにやってくるのです。

とうとう毒りんごで、本当に白雪姫は殺されたのかと思いきや、現れた王子様に拾われて、またしても生き返り、二人は結婚式を挙げます。その結婚式に招待された女王は、のこのこと出かけて行き、その場で処刑される、というおなじみの物語です。

また、女王が用いる、真実を写しだす鏡が出てくるお話しとしても有名ですよね。そう、あの”鏡よ鏡…”の物語です。



illust3786-c



ちなみに登場する小人たちは、英語ではドワーフと訳されます。民話、昔話、ファンタジーなどに登場する、伝説上の種族です。ドワーフといえばトールキンの物語にも、設定を少し変えて登場していました。

ところで、わたしは、グリム童話第二版を読んでいます。白雪姫を殺めようとするのは実母の女王です。第七版までには、それが、実母から継母へと変えられます。グリム兄弟が改訂の際、表現を和らげるために継母としたのでしょう。ここでは、第二版の設定で話を進めていきます。



女王は子どもを産み、白雪姫と名づけました。しかし、女王は、国一番の美しさの座を、白雪姫に奪われてしまうのでした。その美しさを判断する根拠が、真実を映し出す鏡の言葉でした。

女王は白雪姫に対して妬みの感情を持ちます。女王の、白雪姫に向けられた妬みの感情の強さは、尋常ではありません。相手を、殺してしまおうとするほどのものです。そこまでの妬みの感情を、普通の人間は持つことはないでしょう。

一方、女王に対して、白雪姫は、たいへん純朴な女性として描かれます。この女王と白雪姫の落差は、民話、昔話に特有の、極端な表現ですね。



それにしても、美とは人の数だけ存在するようなものであって、人それぞれの差は、歴然としてあるものの、一体どんな鏡が、彼女たちの優劣を付けられるというのでしょう。

鏡の判断とは何を意味するのか。美とは客観的に測れないものであるのだとしたら、真実を映し出す鏡によって作られる、とある恣意的な視点なのだと思います。

判断する鏡なんて、ある意味、魔法の鏡ですね。悪魔の鏡と言ってもいいかも知れません。グリム童話での魔法は、悪との親和性が高いのです。女王は安易な接近を控えるべきだったとも考えられます。

鏡の判断と言いますが、すでに鏡と女王の判断は一体化しています。女王は、この鏡によって、操られてしまっている、と言ってもいいでしょう。

そんな鏡の判断に身を委ねてしまわずとも、もし女王が、自分がもっている、それ自体の差異を、つまり誰とも比較することをせずに、そのまま自身の美を、肯定できていたのなら、この妬みという感情は生まれなかったはずです。女王は、十分に美しい女性なのであろうからなおさらのことです。



我々現代人は、いくつもの真実と称するものを映し出す鏡に囲まれて、始終踊らされているような気がします。白雪姫くらい、それらの視点から自由であれば、心乱されることもないのでしょうが...。

ですが、この物語で白雪姫は、踊らされているであろう女王の感情に巻き込まれてしまうのでした。とんだ災難です。しかし味方がいることがたいへんな救いでした。小人たち。王子様...。彼ら無くして物語は、成り立ちません。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:20 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM52) 『つぐみひげの王さま』 変わらないものはない
ある王さまに、美しい娘がいました。しかし、その王女は、高慢で、わがままで、手の施しようがありません。彼女は、結婚を申し込んでくる者を、皆、断ってしまい、そのうえ、彼らに、なんぐせをつけます。

その中にはつぐみひげの王さまも含まれていました。彼は、王女に、つぐみのくちばしのような顎をからかわれて、以後、そのようなあだ名がつけられてしまったのです。

王様は、娘に、ほとほと困り、とうとうさじを投げてしまいます。こうなったら、誰でもいいから、城に物乞いにきた乞食にでも、娘を差し出して、結婚させてしまおうと心に決めます。



王さまは、早速、城に物乞いにきた乞食と王女を、無理やり結婚させてしまいます。王女の苦難の道が始まります。乞食と結婚した彼女は、これからは衣食住、全てのことを自分でしなくてはなりません。生きてゆくために必要な仕事は、夫に色々と指図されます。

しかし、これまで何不自由なく、全て他人任せにしてきた彼女には、何もできません。王女は自分のこれまでを反省し、後悔します。王女にとって乞食との結婚は、結果的に試練になっています。

しかし、人が変わるのには、ちょっとやそっとのことでは足りません。しかし、ここに変化の兆し位は、みることができるのかもしれません。

そしてエンディングは、乞食の夫が、実は、つぐみひげの王さまであることが明かされます。つぐみひげの王さまは、乞食に成り代わって彼女を導こうとしていたのです。すべてが明らかにされて、改めて、盛大な結婚式が催されます。



それにしても、自分を侮辱した相手に対して、ここまでの気持ちを持つということは。つぐみひげの王さまは恋をしたのでしょう。

端から見て、冷静に考えるなら、この高慢なお姫様と結婚しようとするものなど誰もいないでしょうに。他人の恋をさして恋は盲目などと、半分揶揄したりもしますが、つぐみひげの王さまは、どうやら本気のようです。

王女の存在に、他人には理解できない何かを感じて、引かれているのでしょう。それについては、物語が民話という形式上、触れられていませんが...。



いちようハッピー・エンディングということでいいのかもしれませんが、彼女は、まだまだ、変化の余地を残しています。物語最後に「ほんとうのよろこびは、今、はじめてはじまったのです。」とあるように、本当のハッピー・エンディングは、二人のこれからの生活の中で、徐々に築かれていくものなのでしょう。

人は、何よりも、人との関係のなかで変化していくものです。つぐみひげの王さまは、彼女の変化に大きな役割を果たしています。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:30 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM51) 『みつけ鳥』 変身できる主人公、逃走の物語
みつけ鳥とは、森の管理人が、森で拾って育てた男の子の名です。森の管理人にはレーンヒェンという娘がいます。子どもたちは仲良しに育って互いに相手を唯一無二の存在としています。物語のなかで繰り返されるお互いの忠誠の確認でもそれは知れます。

家には、料理番のザンネおばあさんがいるのですが、彼女がある日恐ろしい計画を立てているのをレーンヒェンは知ります。みつけ鳥をゆでて料理しようというのです。

レーンヒェンは、この危機を何とか逃れようと、みつけ鳥を連れて、森へ出て、隠れるために変身を繰り返します。二人は変身ができるようです。これをどう解釈すればよいのか。魔法使いに準ずる存在と考えて良いのか否か。グリム童話での魔法の使用は、悪との親和性が高いので、にわかには判断が付きません。

ザンネおばあさんの正体が分かります。魔女でした。二人は協力して魔女を倒します。



この、難事をもたらすものから逃避するという展開は、これから読むであろうグリム童話にもあり、一つの定形として考えていいと思います((KHM56)『恋人ローラント』、(KHM79)『水の精』など)。グリム童話という限定を外すなら、世界の民話、昔話にも、多数、類例が存在します。

例えば、これは、神話に分類すべきものかもしれませんが、日本の古事記では、イザナキがイザナミから逃れるお話のくだりが、同じような描写で展開されます。

それにしても、逃避とは、現代では、とかく悪くとらえられがちです。トールキンは、それらの誤解を解くために、逃避を2つのカテゴリーに分けました。「囚人の逃避」と、「脱獄者の逃避」です。そして、前者は文字通り卑怯者の手段ですが、後者は、英雄的行動の現れとしてとらえられています。

この物語でも、逃避などせず、始めから戦うべき、と判断する読者もいるかもしれません。しかし、何でも、かんでも、正面切って戦おうとする風潮は、愚かだと思っています。

この物語の変身に関して、今のところわたしは、ある種の自己の変化であり、前述のトールキンの英雄的逃避の象徴的表現なのではととらえています。

さらに、この物語での変身が特異なのは、自らが自らのために変身できるというところです。他の物語でも変身の場面は時々みられます。しかし、それは、たいてい、魔法によって呪いがかけられるというような、消極的な部類に分類されるものがほとんどです。これはこの物語の変身とは、まったく別の形態の出来事であると思っています。



それはさておき、この物語の類型は、別途、色々と空想を膨らます余地があって、楽しい物語です。グリム童話に、あまりない設定が使われていて、ある意味異色です。森の管理人とはどういうことをする人なのかとか。もうすでに述べましたが、みつけ鳥とレーンヒェンは、なぜ変身ができるのかとか。

トールキンにならえば、空想は、我々を老いからしのいで、子どもらしさのうちにとどめてくれるとのことです。

子どもらしさとは、子どもであることではありません。子どもは卒業すべきものですが、子どもらしさとは、我々が終生失ってはならないものと考えている文学者は少なからずいます。

サン=テグジュペリも、同じような考えのもと、あの『星の王子さま』を書いたものと思われます。



JUGEMテーマ:グリム童話




18:58 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM50) 『いばら姫』 我々にも訪れるかもしれない比喩としての失われた百年
一般的には、フランスのベロー童話集でおなじみの『眠れる森の美女』の類話という扱いなのでしょうか。ベロー童話集のほうが年代的にも先ですし、物語としても『眠れる森の美女』のほうが知名度も高いでしょう。

グリム兄弟は、グリム童話初版から第二版へ版を重ねた際に、かなりの数のフランス起源の童話を削っています。しかし、この物語は自身の国であるドイツにも広く伝搬してきた歴史があるので残したようです。



美しい物語です。この物語に描かれているのは、ある一つの不手際のせいで起こる、失われた、百年の年月と、その後のことです。

不手際によって起こったこと、それは、王様とお后の間に、ようやく生まれたお姫様のお祝いに、仕方ない事だったのですが、ある占い女を呼ばなかったことに端を発します。占い女は嫉妬します。そして、お姫様は、その占い女に、呪いの言葉を浴びせられるはめになってしまうのでした。

その呪いの言葉とは、曲折がありますが、お姫様が、十五歳の誕生日に、百年の眠りにつくこととなるだろうというものです。そして、その通りになってしまうのでした。

そして物語の結末は、百年を経て、呪いの言葉が解けたと同時に、ある勇敢な王子がお城を訪ね、美しいお姫様にキスをすると、お姫様は目を醒まし、止まっていたお城の時間も動き出すというものです。そして、王子とお姫さまが結婚してハッピー・エンディングを迎えるのでした。

全ては、百年の時間の経過と共に解決がもたらされているような印象です。時の解決ですね。しかも、百年の間に、お姫様を始めとする近親者の間に、時間の経過はなく、変化は起こりません。当然老いもしません。それどころか何も失ったものはないのです。



さて、我々個々の人生にも不手際は起こりえます。そこで、この物語を、我々の現実に照らし合わせて読んでみました。

百年は大げさですが、時間が止まるというほどのことを、我々は、誰しも、経験しているのではないでしょうか。例えば、後悔を伴う程の失敗などが、これに当たるかもしれません。

しかし、悲しいかな、我々の現実では、自身の時間は、この物語のように止まりません。多くの場合、苦い経験として、無為の時間が、苦を伴って流れてゆきます。

そして、我々にも、呪いの言葉が解けた時、つまり時間が問題を解決してくれた時、幸せはやってくるのかもしれません。しかし、後悔に暮れた時間を取り戻すことはできません。人は肉体的にも精神的にも老いてしまいます。

では、この物語が表現しているような様相は幻なのでしょうか。我々には、この物語に、語られていることを、具現することは不可能なのでしょうか。我々には、この物語のような、ハッピーエンディングは訪れないのでしょうか。



わたしは、この物語で表現されている止まった時間のことを、精神的なことに限るなら、我々の現実にも、再現することが可能なのではないかと考えています。

まさに、今、無為に失われつつある現実を、空想によって生成される、自分が思う本来あるべき現実を上書きすることによって、老いから逃れるのです。現実を、世界が強いる単層的な認識に従って、狭く考える必要はないと思います。この着想は、トールキンから得たものです。

空想力と呼べるようなものを必要としますが、トールキンが述べるように、空想が老いをしのいでくれるのです。

なお、トールキンが述べる、このあたりの思考は、『妖精物語とは何か』 J.R.R.トールキン 評論社 5”回復、逃避、慰め”及び"結び"の記事を参照してみてください。



JUGEMテーマ:グリム童話




18:23 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM49) 『六羽の白鳥』 グリム童話に多く採録されるAT-451の物語
これまで読んできたグリム童話に、この物語と類似の物語がいくつかあります。(KHM9)『十二人の兄弟』、(KHM25)『七羽のからす』。いずれのお話も世界の民話、昔話の分類体系の世界標準、アールネ・トンプソンのタイプ・インデックスの451が割り振られています。兄を救う、妹の物語の類型と言っていいと思います。



特に、この物語と『十二人の兄弟』は出だしこそ違う物語ですが、途中からは大筋で一緒といっていいくらいです。大きな違いは、題名でわかるように、魔女によって、兄達がカラスに変身させられているか、白鳥に変身させられているかの違いくらいでしょうか。もちろん細部は異なります。

そしてお話しは、この魔女の魔法をとくために妹が試練に耐えて目的を達成するというものです。その試練についても、ある期間、言葉を話さないこと、笑わないことが妹に課されますが、これも『十二人の兄弟』と一致します。

『十二人の兄弟』の記事では、この試練を、嘘をつかず、また、論理的であり続けられるかの試しになっていると考察しました。ここでもそれは変わらないと思います。人が生きてゆくために道義的に求められていることの獲得がテーマになっているのでしょう。



喋らないこと笑わないことにプラスして、更にこの物語では、エゾギクで編んだシャツを、兄の人数分だけ、つまり、六枚仕上げなくてはなりません。そして、これらの約束事が、六年間続くのです。

シャツを六年で六枚仕上げるということは、一枚を作るのに、この作業が、いかに大変な仕事であるか、ということを物語っているのでしょう。

思い描いてみてください。手作業に集中すれば、ひとりごとでも吐いてしまいそうです。そこにまで、意識を向けていなければならないのです。これはもう、人間業では切り抜けられないほどの難易度であることが、想像に固くありません。



そして、これらを実行することの困難と、その達成の末に訪れる、大きな幸せの結末とが、比例関係を形作っています。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:59 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM48) 『老犬ズルタン』 身近で人間的な動物たち
このお話しの主人公、犬のズルタンは、もう年老いたため、役立たずになって、主人に殺されようとしています。ここで『ブレーメンの町楽隊』のように、人の元から逃げ出す、快活な物語を想像したのですが、お話しは、ズルタンの親友の狼をまみえて、あくまで主人のもとに残る方向で進みます。つまり犬という存在の忠誠心がこの物語の骨子です。

そして、ズルタンは親友の狼に助けてもらい、無事、自身の延命に成功します。しかし親友とはいえグリム童話の狼です。ただでは引き下がりません。狼は、ズルタンに貸しができたとばかり思い込みます。そして、今度は自分の番だとばかりに、ズルタンを利用しようとするのです。

しかし、ズルタンは、狼を利用するだけ利用しておきながら、しっぺ返しを食らわします。狼は当然復讐を試みます。しかしズルタンは策を講じて、狼を丸め込み、最後には、仲直りにまでとりつけてしまいます。このように、犬が、狼を凌駕する存在としても描かれています。



グリム童話では、狼は、大抵はずる賢く描かれています。これは牧畜で暮らしを立ててきたヨーロッパの民衆にとって、害獣である狼の、当然の成り行きでしょう。

それに対して犬は、狩猟をする際の、忠実なパートナーという位置づけでしょうか、この物語でも、そう描かれます。



それぞれの動物は、身近な動物であり、それぞれに、よく知り抜いていたので、擬人化もはかどります。こうして、人間臭い動物たちは生まれたのでしょう。



JUGEMテーマ:グリム童話




18:28 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM47) 『ねずの木』 再生の物語
この物語には、継母が、継子の首を落として殺し、体を細切れにして、シチューにし、父親に、こっそり食べさせてしまうというエピソードを含むので、グリム童話に時々ある残酷な物語の中においても、その残酷さにおいて筆頭にあげられることもあるようです。

しかし、力点はそこにあるのではなく、継子が、骨からの復活することにある、とする考え方が主流のようです。



継母は、グリム童話にお決まりの魔女と、同等の残忍さをもって描かれます。そして、ついには、行きがかりとはいえ継子を殺してしまうのでした。

さらに継母は、自分の実の娘であるマルレーネに、その罪をなすりつけるのでした。マルレーネはあたかも自分が兄を殺してしまったと思いこまされ、トラウマでもできたのではなかろうかと思うような、ひどいお話の展開です。

そして、泣きはらしたマルレーネは、拾った兄の骨を、それとは知らず、信心深かった、今は亡き、継子の実の母親が眠る、ねずの木のもとに集めるのでした。すると、集められた継子の骨から、とある鳥が生まれます。

その鳥は、継子の生まれ変わりでした。その鳥の歌う、詩のリフレインが、しばらくファンタジックに続き、ついに継子は生きて元の姿へと返ります。

継子が生き返る直前に、継母は、この鳥の投げた石うすに潰されて死んでしまいます。彼女にふさわしい最期でしょう。

こうして父親とマルレーネと継子は、共に幸せを得るのでした。



ゲーテも、自身の創作である『ファウスト』の第一部のなかで、牢獄で狂ったグレートヒェンに、このねずの木から生まれた鳥の詩を歌わせています。

ということは、ゲーテはグリム童話以前の人物なので、グリム兄弟より前に、このお話を取り上げていたことになります。

この物語はグリム兄弟が口承をを採録したものではなく、『漁師とその妻』などと同様、書き留められたものを元にしています。これらは共に、グリム兄弟が最初期に手に入れたメルヒェンのようです。

また、骨からの復活というモチーフは世界的な凡例を挙げるならゲルマン人ばかりでなく、シベリアの狩猟民族の間にも見られるもののようです。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:41 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM46) 『フィッチャーの鳥』 悪が人を試す時
三人の姉妹が、”開けてはならない扉”を開けてしまい、それぞれに、試練が与えられ、どう対処するかということのてんまつが語られます。



”開けてはならない扉”というモチーフは、『マリアの子』にもありました。そして『マリアの子』同様、このお話しでも、主人公に真実の告白が求められています。

しかし、真実の告白求めてくる対象が、『マリアの子』では、”善”に与する”マリア”であったのに対して、このお話では、”悪”に与する”魔術師”ということで、おのずと対処のしかたが違ってくるのでしょう。

上二人の娘は、ここで、対処のしかたを誤り、試練を乗り越えることが出来ませんでした。知恵のある、末の娘だけが、試練を乗り越え、姉たちを助け出します。この物語は、末子成功譚の一つと考えることが出来ます。

真実の告白求めてくる対象が、善と悪では対処のしかたが違うと述べましたが、善に対しては誠実さでこたえ、悪に対しては知恵でかわすということなのでしょう。



また、この物語には、精神分析的な、性に関する解釈もあるようですが、こじつけのように思えてなりません。そもそも、精神分析特有の記号論的な、あの決め付けが、物語を一面的なものとしてしまい、その豊かさを壊してしまうように思います。

また、このお話しには、おどろおどろしい、残酷ともとれる描写がありますが、昔話や民話には、時々、このような場面が挿入されます。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:18 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM45) 『おやゆびこぞうの旅修行』 仕立て屋のキャラクター属性
お馴染みの、おやゆびこぞうの冒険譚なのですが、その父親が仕立て屋という設定です。

それぞれのキャラクターは、単独で主人公を張る場合が多いのですが、この物語のように仕立て屋が主人公の父親という設定も珍しくありません。その場合、ときに感じられる、仕立て屋としてのキャラクターは、あまり表に出しません。今回もそのパターンです。

しかし、この2つのキャラクターが共演していることで、気になったことがあるので、そのへんのことについて述べてみたいと思います。それは、2つのキャラクターの共通点と差異です。



2つのキャラクターには、共通点が少なからずあるのですが、醸しだす雰囲気は、全く違います。

まず共通点ですが、共に突拍子もない言動と行動を特徴としています。

そして差異ですが、まず、おやゆびこぞうは、こころざし高く、自身に振りかかる問題を自在にかわし、それらに煩わされません。世間には多くを依存しないのです。そうした心性は、ある種の自由を具現しています。その様子は、飄々としたという形容が最もふさわしいように思います。

そもそも、おやゆびこぞうは、我々とは違う、異界の存在と考えていいでしょう。よって、いとも簡単に、自由などの高等な概念を、体現できているのだと思います。

それに対して、仕立て屋は、世間に多くを依存し、その中から自分を富ませるであろうものを見つけると、無理やりにでも、分け前を、かすみ取ろうという根性が見え隠れし、そんな様子を例えるなら、過剰に即物的な思考の持ち主といったところでしょうか。

自由に振舞っているように見えて、実際はどうなんでしょう。それらは、第三者からは、どこか見苦しく愚かにうつってしまいます。

仕立て屋も、根本では、自由に類するものを求めているのでしょうが、目指す方向が間違っているように思います。あるいは手段を履き違えていると言ったら良いのでしょうか。自己の内に求めるべきものを、あてどもなく外に求めているような印象です。



おやゆびこぞうのお話は、今までブログ記事にした中では、他にも(KHM37)『おやゆびこぞう』があります。お話の展開がよく似ています。この『おやゆびこぞうの旅修行』については、ストーリーに触れなかったので、『おやゆびこぞう』の記事を参考にしてみてください。

なお、仕立て屋の、キャラクターの代表例は、(KHM20)『ゆうかんな仕立て屋さん』のそれが一番わかり易いでしょう。またこのブログでは扱いませんでいたが、(KHM35)『天国の仕立て屋』も、その代表例としてあげられると思います。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:29 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM44) 『名付け親になった死に神』 ”続・名付け親どの”
(KHM42)『名づけ親どの』は、どこか不完全で、しりきれとんぼの感が否めませんでした。この物語はその物語の不足分を補ってくれます。言わば『名づけ親どの』の、ある意味、完全版といったところでしょうか。

主人公は、子どもの名付け親を頼んだ父親から、名付けられた子どもが成長した後のものとなります。また、名付け親さんの正体もはっきりします。もうすでに、その片鱗は見せていましたが、この物語ではっきりとしました。死に神です。

また、死に神が、名付け親になるいきさつで、名付け親となる候補が、他に二名登場しています。神様と悪魔です。しかし、それは、主人公の父親によって拒否されました。その他の描写も、焦点を絞って膨らみをもたせているのがわかります。



両物語は、共に、初版から収録されています。似ている展開なので、改訂される過程で『名づけ親どの』は、他の物語に差し替えられても不思議ではないとも思うのですが、両物語の意図するところは違います。よって、両物語が、独立して収録されたのでしょう。

『名づけ親どの』だけでは不完全であるし、この完全版ともいえる物語の方向性は、あまりにも死に神の姿勢に容赦がありません。『名づけ親どの』がもっていたユーモアのある展開が無くなってしまっています。

両物語の関係は、この”名付け親”をめぐるお話の相補性にあると思います。互いに補って、物語は、厚みを増してきます。


JUGEMテーマ:グリム童話




19:17 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM42) 『名づけ親どの』 続きを予感させる未完成な物語
ある貧しい子沢山の男が、新しい子の名付け親になってくれる人の宛がなくなって困っていたところ、ある夢を見ます。夢は、ある男を名付け親にするように告げました。

男は、夢のお告げとばかりに喜んで、そのある男に、名付け親になってもらうのですが、そのある男は、彼に、不思議な術を授けます。それは、病人の前に出れば、その病人が助かるか、それとも死んでしまうのかが分かり、助かる場合は、命を救うことができる、というものでした。

あるとき王様の子どもが病気になり貧しい男はその術を使って、二度、命を救います。ところが三度目には助けることが出来ないとわかり、男は名付け親に相談に行きます。

しかし訪ねてゆくと、その男が、この世のものではない存在であることを知って怖くなり、男は逃げだします。その時の様子が、ユーモアを交えて描写されます。



これがお話の大筋ですが物語の細部が、描かれておらず、疑問に思うことがたくさん出てきます。また、主人公の男に授けられた術も、便利なようでいて、実は黒魔術の類だったのでは、と思わないでもありません。それに、正体を知られた名付け親どのが、主人公の男を、このまま放っておくとも思えません。

まだまだ続きがあってもよいのでは、とも思いました。しりきれとんぼの感じが否めません。なにか、語るべきことが書かれていないような印象です。

しかし、これらの疑問は、続く(KHM44)『名付け親になった死に神』で解決することになるのでした。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:38 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM41) 『コルベスさん』 おそらく存在するであろう物語の隠喩
めんどりとおんどりが、あるとき旅に出ることになり、おんどりが美しい馬車を作ります。馬車は四匹のネズミに引かせました。

物語が綴られてゆく過程で、この一団には、新たな成員が、猫、石うす、卵、あひる、留め針、縫い針という具合に加わっていきます。

そして、彼らは、コルベスさんのところへ向かっていることが、突然明かされます。そして、留守にしている彼の家につくと、各員は所定の位置に着くのでした。

そこへ、コルベスさんが帰宅すると、次々に彼を襲います。しかし、コルベスさんが襲われる理由が、一切説明されません。



第七版では、はっきりと、コルベスさんが、一団によって殺されたという記述があります。しかも物語の最後に、”コルベスさんはきっと、とても悪い人だったんですね。”と取ってつけたように、コルベスさんが襲われる理由を示す一文が添えられているのが気になりました。

これは明らかに、改訂の際に物語をわかりやすくするためのものでしょうが、物語が語らんとするものを決する大きな一文です。もっと、慎重に扱うべきものだと思いました。第七版に至るまでの改訂は、ある結末への、恣意的な誘導に見えてしまいます。強引にそうしたという感じがぬぐえません。

そう、この物語、版が若いほど、何が言いたいのか、よくわからないのですが、版を重ねるたびに、それを補う修正が施されます。しかし、修正前の物語は、物語が語られた、当時の民衆の間では、何らかの隠喩として機能していた可能性があります。



例えば、これは深読みかもしれませが、コルベスさんが襲われる根拠が、はっきり説明されていない以上、コルベスさんは無実の人だった可能性もあるのではないでしょうか。

すると、第七版へ向けられた改訂は、有無を言わせない、多数派の正義のようなものが連想されてきて、出版当時には、世間に肯定的に受けいられたことが予想されますが、多様性を重んじる現代人においては、この物語を後味の悪いものと、しはじめます。このあたりが、恣意的な誘導と感じられる部分でもあります。



また、この物語の、初動を司っているめんどりとおんどりは、このブログでは扱いませんでしたが、(KHM10)『ならずもの』のそれを思い出させます。わたしは、そこで、めんどり、おんどりを、トリックスター的なものとしてとらえました。つまり創造と破壊を司るものとしての登場者です。

この切り口からも物語を読み解いていけるだろうと思いますが、類似の物語がまだあるので、後の課題としておきます。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:26 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM40) 『盗賊の婿どの』 語り継がれる知恵としての女性的直感
何かを判断する場合、現代では、とかく思考が優先されるので、それは、申し訳程度につけられるくらいの根拠にしかならないかもしれません。それは直感ともいうべきものです。この物語では、その直感が、モチーフの一つとして、重要な役目を果たしています。

そして、この物語では、特に、女性の直感が扱われます。女性の勘と呼べばよいのでしょうか。鋭いと言われるそれですが、世の女性に、民話として語り継がれてきた、知恵として考えることもできると思います。

勘というと聞こえが悪いかもしれませんが、直感とは、ある意味、出来事の始めから、全人的な判断を可能とするものです。

つまり思考を伴った客観的判断は、分析的で、判断材料がそろわないと、いい判断が出来ないのに対して、つまり初動には不利があるのに対して、直感は、間違いを伴いますが、始めから遠くを見通すことが出来るのです。



主人公の父親は、条件から考えて、娘の結婚相手に、ある男を申し分ないと判断します(ここでは金持ちか、そうでないかという客観的判断)。

ところが本人は、直感的に、これを避けようとします。実際、父親が娘の結婚相手に考えていた男は、人殺しであったわけですから、娘の直感は正しかったわけです。そして、この物語の結末では、娘の婿になるであろうだった男は裁かれています。

つまり、この物語は、女性の配偶者選びの、重要な判断基準に、直感を採用し、ハッピー・エンディングに導かれていることとなります。



また、このブログでは飛ばしましたが、(KHM38)『奥さん狐の結婚式』の奥さん狐の配偶者選びは、外観の特徴を選択基準にしたものでした。

そして、この外観が、果たして自分に有効であるのかを判断していたのは、女性の直感でしょう(思考を伴った客観的判断ではなく、それが、好きか嫌いかという、直感を伴った主観的判断だと思われます)。

そう考えると、直感は、この物語でも、女性の配偶者選びに、重要な役割を果たしている、ということになります。



しかし、直感は、冒頭で述べたの理由から、実際、現代の女性が、これをどれくらい頼りにしているのかは、疑問ですが...。


JUGEMテーマ:グリム童話




20:06 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM39) 『こびとと靴屋』 現実に紛れ込む異界からの使者
グリム童話には様々な小人が登場します。わたし自身、お気に入りの小人が、たくさんいます。人を助けるもの、ちょっといたずらをするもの、彼らは人のかたわらに現れては、人とは違う次元で行動しています。それが人々に不思議な出来事をもたらします。



ビアトリクス・ポターの『グロスターの仕立屋』は、この物語を下敷きにしたのではないでしょうか。小人をねずみに...、出来上がる靴を仕立てる洋服に置き換えると、お話の大筋がピッタリと重なります。

また、この物語、第七版までには、更に、違った小人のお話が二話加えられて、三部構成の物語となります。



話が飛びますが、トールキンが、自身の作品で創造したホビット族も、小人の一種でしょう。これは、彼の空想(ファンタジー)の産物ですが、物語の中で、実にいきいきと活躍していました。

小人とは、ファンタジー小説のパーツとしては、かなり好まれているのだと思います。彼らは、物語の中で、非常に魅力的な存在として動き出します。

わたしが子供の頃好きだった、日本初のファンタジー小説、佐藤さとるの、『コロボックル物語』のシリーズも小人の話でした。

この、グリムの物語にしても、ファンタジーとして読める要素があると思います。



これらの物語に登場する、小人という存在を、どうとらえたら良いのでしょう。それらは、我々の一元的な自然科学的思考の中では存在できません。しかし、彼らは、確かに我々の生活の影に潜んでいるように思われてなりません。

我々はもう少し現実というものを、広くとらえてもいいのかもしれません。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:39 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM37) 『おやゆびこぞう』 異界の者のとぼけた冒険
お百姓夫婦には、子どもがいませんでした。そこで二人は親指ほどの大きさでもいいから、子どもがほしいと願います。するとなんと、奥さんが身籠ります。そして生まれたのが、夫婦が願った通りの、親指ほどの大きさの親指小僧です。

彼はすくすくと立派に育ちます。とは言っても大きさは相変わらず親指サイズですが...。はっきり言って,異界の存在であることは明白です。小人のたぐいでしょうか。彼のキャラクターは、飄々としていて、つかみ所がなく、ユニークで読む者を、あるいは聞く者を楽しい気持ちにさせてくれます。



親指小僧は、夫婦を助けよく働きます。しかし、そんな様子をこっそり覗いていた、通りがかりのとある男たちは、親指小僧を見せものにして、金儲けをしようと、良からぬ計画をねっています。

そして男たちは、夫婦に小金を掴ませて親指小僧を貰い受けようとします。夫婦はもちろん目に入れても痛くないほど、かわいがっていた親指小僧を手放すつもりはありません。親指小僧はというと、持ち前の怖いもの知らずの気持ちから、両親に売っちまいなよと気楽なことを言っています。

親指小僧は、夫婦の子どもに違いないのですが、やはり異界の存在でもあります。その超人的能力から、何も心配することはないのかもしれません。何よりすばしっこく知恵者です。親指小僧は夫婦に金を受け取らせ、自分は逃げてくるからといって出かけてゆきます。



しかし思うようには、なかなか行かないものです。親指小僧を襲う、災難に次ぐ災難。こうしてこの物語は、親指小僧が夫婦のもとを離れてから帰ってくるまでの、とあるユニークな冒険譚となります。

親指小僧の冒険は、始めの男たちの元を逃れると、次には泥棒との掛け合い、そして牛の胃袋の中、そして狼の胃袋の中と、次々と場面を変えて、自分に試練を与えるものとの、とぼけたやりとりを交わしながら、それらをかわしてお話は進んでいきます。そこがユーモラスに描かれます。

かわすというのは、決して逃げているわけではなく、状況に新しい有意義な切り口を開いている、とでも表現しておきましょうか。また、これらを読むと、彼が、ある種の自由の体現者であることが感じられます。

そしてやはり狼の胃袋は、『狼と七匹の子やぎ』『赤ずきん』のお話と共にグリム童話のお約束のごとく、最後にハサミで切り開かれてしまうのでした。親指小僧は、狼の胃袋の中からお百姓夫婦に助けられて、ようやく彼らのもとに戻ります。そして、服が傷んでしまったので、新しくこしらえてもらいました。



これからも、この親指小僧を主人公としたお話は、時々出てきます。楽しい物語です。日本の『一寸法師』は類話と思われます。


JUGEMテーマ:グリム童話




19:11 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM36) 『テーブルよ食事のしたく、金ひりろば、こんぼうよ袋からとびだせ』
正直者である三人の息子たちが、家で飼っている嘘つきのやぎに、おとしめられて、仕立て屋である親に、家から追い出されます。息子たちは、独立せざるおえません。



そして、それぞれ修行して、これで堂々と家に戻れると思いきや、上二人の息子たちは、修行の成果である宝物を、途中立ち寄った宿屋の亭主に奪われ、元の木阿弥です。

三人目の末っ子が、これを正して、宿屋の亭主を懲らしめます。冒頭に登場したやぎも、それ相応のバチが当たり、正直者が報われるというお話しになっています。

民話によくある、末子が活躍するというお話の類型でしょう。



また、グリム童話で、数々の物語に登場する仕立て屋ですが、この物語では主人公ではありません。主人公の息子たちの父親という設定です。このような登場も仕立て屋には数多くみられます。このような場合、いつも仕立て屋に割り当てられていたキャラクターは表に出しません。



なお、題名が異常に長いです。三人の息子たちが、修行して、それぞれに得る宝物の羅列ですが、日本語訳の各位は、内容を伝えるべく、工夫をこらして訳しているようです。この題名で、物語の内容を察することができるので、記事の副題は考えませんでした。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:13 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM34) 『かしこいエルゼ』 ハンスの物語の女性主人公版
(KHM32)『ものわかりのいいハンス』の女性主人公版とも言える物語です。ハンスとは、人間のタイプが異なりますが、愚かな女性主人公エルゼが描かれます。彼女は、両親にかしこいと言われ続けて育ったようです。それで自分でもそう思い込んでしまったのでしょうか。それはともかく、読者には、彼女が賢いという根拠は、伝わらないでしょう。



確かに彼女の意識は細かいことによく気づきます。しかし、そこで立ち止まってしまって、思考がその先へ進んでいきません。ゆえに多角的な思考はもちろん、反省的な思考も出来ません。

そして、不思議なことに、この家の両親、及び、その取り巻きが、娘と同じような思考回路をもっていて、彼らは、本人に反省をうながすどころか共鳴してしまうのです。



両親は、年頃になった彼女を、結婚させようとするのですが、タイミングよくハンスという男が遠くから現れます。ハンスは、そんなにかしこい娘なら結婚しましょうと承諾します。

しかし、しばらく彼女と暮らしてみて、その実態をまざまざと知ると、家から追い出してしまいます。彼女は、例の思考癖から、自分が誰なのかすらも分からなくなっています。そして、追い出された彼女は、村を出て行ってしまいました。その後の消息は書かれていません。



冒頭で述べた通り、この物語には、『ものわかりのいいハンス』のハンスにも通じる、一種の狂気を感じます。共に登場人物の多くが、どこかおかしいのも共通です。

この物語群、憶測に過ぎませんが、近親婚を重ねて、遺伝的な障害が発生してしまっている、家族と近隣の物語なのでは、と疑ってしまいました。

民話は実話をモチーフにすることもあります。よって、ヨーロッパの貴族の中で行われていた、近親婚を皮肉ったものなのでは、とも考えられないでしょうか。

また、この物語でも、愚か者ではありませんが、遠いところから、ハンスが登場しています。何かを暗示するためなのではとも思ってしまいました(グリム童話でのハンス=愚か者という多くの事例から)。遠いところから、というところにも、引っかかるものを感じます。深読みですね。こうして読むと、謎がどんどん深まります。

しかし、一方、これらは、民話が、口承から記述となった時の、一種の弊害であって、単なる笑い話であったという可能性もありますが...。



それにしても、この結末、現代人なら、もう少し救いのあるものを望むのではないでしょうか。彼女を見捨てることは簡単ですが、救いあげることも出来たのではないでしょうか。

例えば、その場合、彼女のキャラクターから、現代小説における、ドストエフスキーをはじめとする作家が用いる、白痴のテーマのようなものを想起したりしてみました。しかし、やはり民話ですので、そこまで複雑なものは望めませんね。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:21 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM33) 『三種のことば』 人間のとある根源的な欲求を叶える者
とある伯爵が自分のおろかな息子に手を焼いていたため、機会を与えて、名高い大先生のもと、習い事をさせる話ですが、一人目の先生からは犬の言葉、二人目の先生からは鳥の言葉、三人目の先生からは蛙の言葉しか習得しません。

伯爵は呆れて、息子を殺してしまおうと家来に命じます。伯爵の家来はそんな無慈悲なことができずに伯爵の息子を密かに逃します。



それにしても、読みながら、伯爵の判断こそ表層的であり、おろかなのではと思いました。

ことのはじめにまず、動物の考えることがおろかなことだと誰が決めたのでしょう。人間中心主義ですよね。伯爵の息子は、彼らの声をを聞くことができるのです。また彼らに頼み事もできるのです。動物とは、人と違った優れた能力をもっているものです。

人間の古くからある願望として、動物と言葉をかわしたいという欲求があります。動物寓話の歴史をたどれば、それは明らかなことです。この物語の根も、そこに通じているものと思われます。このモチーフはグリム童話なら『忠義なヨハネス』でヨハネスがカラスのことばを解する場面にも見られました。



そもそも大先生達も、動物達の言葉を知っているということが前提ですよね。大先生だからこそ、それらのことが可能であったということもできると思うのです。これは、動物の言葉を解するということはまれなことであるという立場からです。

そして彼らは伯爵の息子の適性を見抜いていたのではないでしょうか。そして伯爵の息子はそれぞれの大先生から合わせて三種も言葉を覚えてしまいました。



伯爵の元を離れた息子は、これら覚えた言葉を使って難事を解決し、最終的には法王となります。改めてイメージしてみてください。この、ある意味、超人的な能力の使途は、法王としての伯爵の息子にふさわしいと思いませんか。


JUGEMテーマ:グリム童話




18:14 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM32) 『ものわかりのいいハンス』 ハンスにくくられるキャラクターの謎
ここに登場するのは、幼稚園児のような、ママのいうことをよく聞く”おりこうさんのハンス”なのですが、明らかに年齢設定は高く、結果として、常人が描かれているようには思えません。



ハンスは、その時その場ですべきことには、おおよそ頭が回りません。

それを母親に指摘されるのですが、その指摘は、もうすでに終わったことに対するものであるにもかかわらず、ハンスは、次の行動で、それらの助言をそっくりそのまま実行するのです。ここが、ものわかりのいいと言われる所以なのでしょう。しかし、それらの行動は場違いも甚だしいものとなります。

お話し最後には、子牛や羊の目玉を繰り抜いて、グレーテル(恋人?)の顔に投げつけるなど、ハンスには人間性さえ感じられません。

ものわかりのいいとはなんと皮肉な題名なのでしょうか。彼は、愚か者そのものです。

そんな息子に軽く注意するだけで、たいして咎めもしない母親の人格も疑われます。また、お話し最後にグレーテルは”ハンスのお嫁さんになることをやめました”と発言していますが、こんな小事で、このお話しが結ばれていることにも違和感をおぼえます。



よって、これらのことから、この物語の登場人物すべてに、狂気さえ感じられるのでした。ここに語られているものの正体を判断しかねています。民話というものはたいてい、最終的に聞くものの共感を得るべくして形をなします。だとするなら、この物語は笑い話のたぐいと考えればよいのでしょうか。

ハンスの、この特有のキャラクターはグリム童話第一巻に顕著です。



また、このハンスですが、ヨーロッパ民話にも、よく出てきます。そこでも、やはり愚か者である片鱗はうかがわせるのですが、大抵は、我々の想像できる、血の通ったキャラクターとして登場します。

時には、感動さえ覚える物語の主人公として描かれることもあります。しかし、時折、このグリム童話第一巻にみられるようなハンスも登場します。これをどう受け止めるべきなのでしょうか。

そしてなんと日本にも類話があります。『だんだん教訓』です。日本の物語では主人公は最後死んでいます。





JUGEMテーマ:グリム童話




18:52 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
グリム童話(KHM31) 『手を切られたむすめ』 信念を持つ者と持たない者
悪魔と、粉屋が契約を交わします。しかし、結果的に、それを粉屋は悪魔に騙されたと思ったのでしょう。もしくは彼の早とちりがそういう状況を招きました。彼は窮地に立たされます。彼は自分の娘を、悪魔に売り渡していた事になっていました。

この娘の父親は、悪魔に対して、抵抗はするものの、最終的には我が身の命を守ることしか考えませんでした。娘の清めのおかげで、彼女に近づくことができない悪魔に脅されて、自分の命惜しさに、とうとう娘の手首まで切り落としてしまいます。

これで悪魔は、娘が自分を身を清める手段を失ったであろうと考えたようですが、そうはいきませんでした。悪魔は相変わらず娘に近づけません。

父親は、手を切り落とされた娘に対して、せめての償いのつもりだったのでしょうが、悪魔からもらった金品で、一生楽に養ってやる、などと口にしていますが、金だけ与えていれば、人生は安泰になるわけでもなし、よくもこんなことが言えたと、彼の、人生に対する感受性のとぼしさに人間性を疑います。

娘は、こんなことをされて、もうどうして一緒に暮らして行けるでしょう。娘は家を出て、放浪します。親子関係は破綻します。



この不幸な成り行き、この父親には何が足りなかったのでしょう。それはどんな境遇であれ、日々を肯定し、満足して生きている人間なら自然と身につくものと思われます。それは、信心深さと、しっかりとした信念です。

この物語の父親は、貧しいなら貧しいなりに、正直に暮らせばよかったのです。そうすれば悪魔に付け入られる隙も、与えることはなかったでしょう。



この父親と対極の存在として現れるのが、この国の王さまです。手無し娘が父親の家を出て、放浪していたところを見つけ、彼は手のない娘の姿など怪しみもせず、その信心深い本性を見ぬき妻にします。

王様は戦に出てしまいますが、悪魔の介在などがあり、戦地で、娘に”とりかえ子”が生まれたなど聞かされますが動じません。言い方を変えれば、彼は神様の子である人間をやめなかったのです。強い信心と信念の持ち主です。

しかし戦争が長引く中、しつこい悪魔の妨害で、とうとう、手無し娘と、彼女の子どもは、城を追放されることとなりました。これは、心優しい、王の母親のとった最善の策でした。



またしても、手無し娘は放浪します。しかし、彼女は、森の中の天使の家にたどり着きます。すると、そこで、なんと失ったはずの手が生えてくるではないですか。

やがて、戦争を終えた王さまも、手無し娘を探して旅に出ます。そして、王様も、天使の家にたどり着くのでした。二人は再会します。そして、子供を含めた三人で再び城に向かい、ハッピー・エンディングを迎えます。

これら、すべて、強い信心や信念のなせる技として描かれています。物語に、強い道徳性を感じます。

日本にも『手なし娘』という類話があるようです。



JUGEMテーマ:グリム童話




18:31 : グリム童話(KHM 031 - 060) : comments(0) : trackbacks(0) : かがりん :
■ホーム ▲ページトップ