『長くつ下のピッピ』 アストリッド・リンドグレーン 岩波書店
2016.11.06 Sunday
リンドグレーンが世界的名声を得る出発点となる、処女作にして代表作です。
児童文学において、これほど破天荒な主人公がいたでしょうか。おまわりさんや学校の先生はもちろん、上から下に既成の力を示そうとするものすべて、彼女の、その無自覚な透徹した思考に、結果として容赦なく皮肉られます。
ピッピは、普通の子どもと違って、とある力を持っています。それは、腕力と財力ですが、これさえあれば、大人とも対等にわたっていけてしまっています。このことは象徴的でさえあります。しかも、それらの力は無尽蔵なので対等以上の効力を発揮します。するとどうなるか。
ピッピの、大人の事情など、どこ吹く風とも知れない、その常識にとらわれない行動は、飄々として、ユニークで痛快です。しかし大人の論理で読もうとするものは、しょっぱなから弾かれますし、あるいは方向転換を余儀なくされます。
大人への当てこすり(子どもには大人の論理は矛盾だらけ。論理の矛盾などへの当てこすり)とも取れてしまうこの物語は、大人が読んだ場合、人によっては、年端も行かない子どもの主人公に論破されて、はずかしめを受けたような、後味の悪い思いをして、馬鹿馬鹿しいと本を放り出すかもしれません。
実際、大人たちは初めのうち、この彼女の処女作に理解を示しませんでした。
ところで、現状、大人になるということは、ある種の力関係の中に入るということです。それは、子どもはもちろん、多くの大人にとっても、本人が積極的に自覚しているかどうかは別として、窮屈なことなのではないでしょうか。
力を持たないものは、この既成の力関係の中では言いたいことをいえば怒られる側だし、行動も制限される側なのだから当然です。
そんな力を持たない者たちの思いに応えるように、ピッピは自身の持てる力で、そんな関係を無効化しようとするのです。もちろん、ピッピは、自分がまた世間の新たな重石となるようなことはしません。皆を開放するだけ開放して、自身が上に立とうとはしません。
ひとつのエピソードを書き出してみます。
ある日、ピッピの家に泥棒が入りますが、彼女はさっそくもてなしてしまいます。しかし泥棒がピッピの金貨の入ったトランクを奪おうとすれば、持ち前の力で泥棒をやっつけてしまいました。でも、ただそれだけです。もちろん警察に引き渡すようなこともしないのです。それどころか泥棒を放してやるときに、彼女をいっとき相手をしてくれたことへの報酬として一枚の金貨さえ与えています。
こういうことを、どう受け止めたら良いのか。ピッピの行動は、ある意味、聖人のそれです。しかし、ピッピのこの行動が市民権を得て受け入れられ、当たり前のこととなる世界を想像してみます。すると必然的に、あらゆる存在は、平等に受け入れられる世界が出来上がるかもしれません。そう、彼女は平等の使者なのです。
この物語でピッピはいったい何をしているのでしょうか。彼女は常識ぎりぎりの線上を自由に行動します。社会に受け入れられるか否かは重要ではありません。しかし数々のエピソードを通して、現実世界に試行錯誤を試みていることは間違いありません。
そしてその様子は、読者である子どもたちに、ピッピのように怖がらないで自由に行動してもいいのだよ、という勇気ある行動へのよびかけにもなっています。
その自由奔放な行動から受け取れるピッピのロジックは、そんな単純なものではありません。まずピッピ自体が常識のものさしで計れません。しかし、例えるなら、彼女は、確実に世界に新しい線を引いていきます。
これらの世界は今のところ、普通の人間が持てない、ピッピが所有している特別な力なしでは成し遂げられません。しかしこの物語を読んでイメージならできます。
リンドグレーンは未来の大人たる子どもたちに世界に対する新たな感受性を希求しているのかもしれません。
この痛快な物語も、残念ですがいったん終わりを迎えます。最終章はピッピの家である”ごたごた荘”での、彼女の誕生日パーティーです。同居している猿のニルソン氏、それに、招待された友達のトミーとアンニカ。皆ピッピが大好きです。できることなら、こんな世界に住んでみたいな、との思いを胸に本を閉じました。


児童文学において、これほど破天荒な主人公がいたでしょうか。おまわりさんや学校の先生はもちろん、上から下に既成の力を示そうとするものすべて、彼女の、その無自覚な透徹した思考に、結果として容赦なく皮肉られます。
ピッピは、普通の子どもと違って、とある力を持っています。それは、腕力と財力ですが、これさえあれば、大人とも対等にわたっていけてしまっています。このことは象徴的でさえあります。しかも、それらの力は無尽蔵なので対等以上の効力を発揮します。するとどうなるか。
ピッピの、大人の事情など、どこ吹く風とも知れない、その常識にとらわれない行動は、飄々として、ユニークで痛快です。しかし大人の論理で読もうとするものは、しょっぱなから弾かれますし、あるいは方向転換を余儀なくされます。
大人への当てこすり(子どもには大人の論理は矛盾だらけ。論理の矛盾などへの当てこすり)とも取れてしまうこの物語は、大人が読んだ場合、人によっては、年端も行かない子どもの主人公に論破されて、はずかしめを受けたような、後味の悪い思いをして、馬鹿馬鹿しいと本を放り出すかもしれません。
実際、大人たちは初めのうち、この彼女の処女作に理解を示しませんでした。
ところで、現状、大人になるということは、ある種の力関係の中に入るということです。それは、子どもはもちろん、多くの大人にとっても、本人が積極的に自覚しているかどうかは別として、窮屈なことなのではないでしょうか。
力を持たないものは、この既成の力関係の中では言いたいことをいえば怒られる側だし、行動も制限される側なのだから当然です。
そんな力を持たない者たちの思いに応えるように、ピッピは自身の持てる力で、そんな関係を無効化しようとするのです。もちろん、ピッピは、自分がまた世間の新たな重石となるようなことはしません。皆を開放するだけ開放して、自身が上に立とうとはしません。
ひとつのエピソードを書き出してみます。
ある日、ピッピの家に泥棒が入りますが、彼女はさっそくもてなしてしまいます。しかし泥棒がピッピの金貨の入ったトランクを奪おうとすれば、持ち前の力で泥棒をやっつけてしまいました。でも、ただそれだけです。もちろん警察に引き渡すようなこともしないのです。それどころか泥棒を放してやるときに、彼女をいっとき相手をしてくれたことへの報酬として一枚の金貨さえ与えています。
こういうことを、どう受け止めたら良いのか。ピッピの行動は、ある意味、聖人のそれです。しかし、ピッピのこの行動が市民権を得て受け入れられ、当たり前のこととなる世界を想像してみます。すると必然的に、あらゆる存在は、平等に受け入れられる世界が出来上がるかもしれません。そう、彼女は平等の使者なのです。
この物語でピッピはいったい何をしているのでしょうか。彼女は常識ぎりぎりの線上を自由に行動します。社会に受け入れられるか否かは重要ではありません。しかし数々のエピソードを通して、現実世界に試行錯誤を試みていることは間違いありません。
そしてその様子は、読者である子どもたちに、ピッピのように怖がらないで自由に行動してもいいのだよ、という勇気ある行動へのよびかけにもなっています。
その自由奔放な行動から受け取れるピッピのロジックは、そんな単純なものではありません。まずピッピ自体が常識のものさしで計れません。しかし、例えるなら、彼女は、確実に世界に新しい線を引いていきます。
これらの世界は今のところ、普通の人間が持てない、ピッピが所有している特別な力なしでは成し遂げられません。しかしこの物語を読んでイメージならできます。
リンドグレーンは未来の大人たる子どもたちに世界に対する新たな感受性を希求しているのかもしれません。
この痛快な物語も、残念ですがいったん終わりを迎えます。最終章はピッピの家である”ごたごた荘”での、彼女の誕生日パーティーです。同居している猿のニルソン氏、それに、招待された友達のトミーとアンニカ。皆ピッピが大好きです。できることなら、こんな世界に住んでみたいな、との思いを胸に本を閉じました。
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